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写真集が変えた |
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![]() 小3の時、土門拳さんの写真集『筑豊の子どもたち』を見て強い衝撃を受けた。週刊誌のような体裁で、ザラ紙に白黒写真が掲載されている。劣悪な筑豊の生活はショックだった。自分の日常とのあまりの違いに驚いた。この時、自分の中で何かが変わった。その日から、新聞を読むようになった。 高校に入る頃には、父への反発が、ますます強まった。文部省推奨の教育映画を作る父を体制側の人間として、許せなかった。本気で革命を起こそうと考えていた。大学時代は、学生運動に身を投じた。 「安田講堂の戦い、ベトナム戦争反対、三里塚闘争…とバリケードを渡り歩いていたが、運動に限界を感じて、演技という虚構の世界に逃げ込んだ」。 蜷川幸雄演出の芝居にショックを受け、蜷川さんのもとで演出助手をしていたら、ひょんなことから俳優としてスカウトされることになった。1973年デビュー。「現実を見ないように、仕事場と家庭の間を行ったり来たり」していた。 俳優デビュー10年目の1984年、息子のアトピー改善のため、神戸へ移住した。「子どもにかこつけて東京からの逃避だった」。 震災が変えた |
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ルールは、「自発的、自己決定、自己責任」。被災者が必要とする「ニーズ」と支援者が提供出来る「シーズ」を繋いだ。ポストイットに、次々、欲しいもの、提供出来るものが書き込まれていった。「学生時代バリケードを作っていたのに、今度はなくす立場に代わっていた。人と人の間の壁を取り払う役割を担っていた」。手の届かなかった『筑豊の子どもたち』が少しだけ近づいた気がした。 震災5年後の2000年に、神戸市役所の南隣にある東遊園地の一角に「1・17希望の灯」というモニュメントを建てた。碑文は堀内さんが考えた。「震災が奪ったもの〜命、仕事、団欒、街並み、思い出」「震災が残してくれたもの〜やさしさ、思いやり、絆、仲間」 父が変えた |
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■イネ・セイミプロフィール フルート奏者として活躍中。俳画家。 絵画を幼少より日展画家の(故)川村行雄氏に師事。俳画を華道彩生会家元(故)村松一平氏に師事。俳画の描法をもとに、少女、猫等を独自のやさしいタッチで描いている。個展多数。 * 俳画教室開講中 |
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