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球児だった板東さん 今年も、夏の高校野球のシーズンがやってきた。90回を数える今年は、記念大会だ。伝説の球児11人が、母校のユニフォームを着て、甲子園に集う。その中の一人が、50年前、徳島商業のエースだった板東英二さんだ。 |
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![]() テレビでのマルチタレントぶりだけを知る最近の人たちは、板東さんが高校球児だったことを知らない人も多い。 ちょうど50年前。もう、半世紀になる。第40回記念大会(昭和33年)徳島商業のエースとして出場。その後誰にも破られていない一大会で83奪三振という記録を達成した。ハンカチ王子の斎藤祐樹くんも、78でわずかに及ばなかった。 そして準々決勝では、富山代表の魚津高校と、延長18回を戦い抜き、引き分け再試合となった。結果、決勝まで進んだが、山口県代表の柳井高校に敗れ、準優勝に終わった。 50年前の徳島新聞にこんな記事があった。当時18歳の板東少年曰く「試合に行く途中に美人に会うと勝ったんだか、決勝戦の前は会わなかった」と。なかなかの度胸である。 「準優勝も引き分け再試合も、おまけ。開会式で徳島県代表、徳島商業高校≠ニ呼ばれ、グラウンドに一歩踏み出したときが、いちばん気持ちが高まった」 マルチ人生 昭和15(1940)年、旧・満州生まれの68歳。ほっぺに少し赤みがあるのは、凍傷のあとだ。7歳で引き揚げてくるまで、栄養失調になりながら、母のもんぺを握りながら、大陸を8ヶ月さまよった。足手まといになる末っ子は置いていかれると言われ、必死だった。いまでも、夜の外出や外国に行くのが不安なのは、幼い目に焼き付いた記憶が消えないからだという。 |
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父の郷里の徳島県の旧・板東町(鳴門市)に戻り、落ち着き先は、第一次大戦時、ドイツ軍捕虜がいた捕虜収容所跡。2畳の土間に5畳の板の間。そこに家族6人が暮らしていた。盥で行水し、机代わりのミカン箱で勉強をし、川で蟹を捕り、畑の芋を失敬しては、なんとかかんとかの自給自足で糊口を凌いだ。 |
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■イネ・セイミプロフィール フルート奏者として活躍中。俳画家。 絵画を幼少より日展画家の(故)川村行雄氏に師事。俳画を華道彩生会家元(故)村松一平氏に師事。俳画の描法をもとに、少女、猫等を独自のやさしいタッチで描いている。個展多数。 * 俳画教室開講中 |
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