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私にとっては、何の違和感もなかったことなのだ。ためらいもなかったことなのだ。しかし、無謀なことをしたと考える人がいてもおかしくない。耳の聞こえない人を、音声だけが頼りのラジオのゲストに呼んだのだから…。 だんだん耳が聞こえなくなる |
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![]() そして、小学校4年生の終わり頃。右耳から全く音が聞こえないことに気づいた。親には、すぐに言えなかった。耳の聞こえないことを冷やかす子たちもいて、聞こえる「ふり」をしていた。 中学2年生の終わり頃、今度は左耳の進行性難聴が始まった。何とか高校に合格出来たが、高校1年生の終わり頃、左耳の聴力が、急激に落ちてきた。回りの人とのコミュニケーションが取れない苛立ちが募った。当時の日記を読み返してみると、「どうして聞こえなくなってしまったのか」「どうしたらいいのか答えがみつからない」と、戸惑いと悩みばかりが書き連ねてある。辛いことを一人で背負っていた。 男性の低い声から、しだいに聞こえにくくなっていった。唯一、最後まで聞こえていたのが、トーンの高い小田和正の声だった。ラジカセにしがみつきながら聞いていたという《ラブストーリーは突然に》をかけた。曲をかけてから唖然とした。松森さんには聞こえないのだ。咄嗟に、曲を聞きながら、私は、口をゆっくり動かしながら歌真似をしてみた。そうしたら、歌詞を覚えている松森さんも、声に出して歌うではないか。言い知れぬ感動を味わいながら、デュエットをした。胸がじーんと来た。 耳が完全に聞こえなくなった日、1992年1月11日の日記にはこう書かれている。「なんでだろう。どうして?信じられないよ。嘘みたい。まったく聞こえなくなるなんて。朝起きて、ゴボンゴホンと咳をした。こんなに小さい音だっけ?声を出してみたが自分の声が耳から入ってこない。もしかしてこのまま?何だか笑ってしまう。張り裂けそうな胸を抱えて一階に降りていった。いつものように家族に顔を合わせ、いつものようにパンをトーストして、バターぬって…、まるでスポンジを食べている気分だった。苦いオレンジジュースだった。同じように朝食をとっているお父さんとお母さんを見て、あふれそうになる涙を必死にこらえた。ごく普通にさらりと冷静に言ってみた。『朝起きたら、両耳とも聞こえなくなっていたよ』泣かないって決めていたのに、涙が溢れてきて止まらない。そんな私に、お父さんが力強い筆圧で紙にこう書いてくれた。『おまえの涙を見ていると、いっそのことお父さんたちも耳が聞こえなければと思う。お父さんたちの耳をおまえにあげたいと思う。けれども、もしお父さんがおまえの立場だったら、絶対に乗り越えるぞ』」 |
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松森さんには、もう一つ忘れられない日がある。1992年2月1日。担任の先生に、「障害者と認めてもらったほうが生活していきやすい」と言われて、障害者という言葉の響きにショックを受けた。大雪の中、泣きながら歩いているうちに、雪の中に倒れ込んでいた。救急車で運ばれたが、凍死寸前だった。この時の体験を、松森さんはあいかわらず明るい口調で「このまま死んでしまえばいいと思った」と語る。自分の声が聞こえないから、辛い体験哀しい体験を語るときも、楽しい話をするときと、さほど変わらない。だから、明るく「死にたかった」と言われたとき、また熱いものが込み上げてきた。 松森さんはバリアフリー 出産後は、聴覚障害者の体験を生かして、バリアフリー社会実現のために、様々な場で活動を続けている。本を書いたり、講演をしたり、ユニバーサルデザイン開発のアドバイスしたりと、いろんな形で発信している。 「聞こえなくなってから、聞こえてくるようになった音もある」という。松森さんは、夜空の星を見ていると、カシャカシャ、シャラシャラという音が聞こえてくるのだそうだ。「あんなに綺麗に輝いている星だから、音が聞こえないのが不思議でしょ」と、松森さんは屈託なく笑う。松森さんは、聞こえない世界の素晴らしさも、聞こえる世界の素晴らしさも両方知っている。 |
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■イネ・セイミプロフィール フルート奏者として活躍中。俳画家。 絵画を幼少より日展画家の(故)川村行雄氏に師事。俳画を華道彩生会家元(故)村松一平氏に師事。俳画の描法をもとに、少女、猫等を独自のやさしいタッチで描いている。個展多数。 * 俳画教室開講中 |
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