まっすくな道
昭和53年に、東京・下町の柳橋に生まれた。「100年前に生まれていたら、三味線を弾いていたかも」と笑う、少女の頃から、ものおじせず、負けず嫌いの性格で、まっすぐに突さ進むタイプだった。
2歳のとき、クラシックギターの先生だった父から教わりはじめた。それは、「ハミガキするような日常生活の延長線の感覚」だった。伝統芸能の家のように、ギターを継ぐという感覚だった。つらい、嫌だ、やめたいと思ったことは一度もない。身内は厳しいというが、父は、子どものペースを大切にしてくれた。父の膝の上で、父に手を添えてもらいながら、ギターを教えてもらった。村治さんにとっては、父との嬉しいスキンシップの時間だった。
小学校の卒業文集で、村治さんは「これから私の人生を左右する大切な時期。ギタリストになって、世界を駆け回るぞ!村治佳織12歳の固い決意である!」と力強く宣言している。その決意通りに、1992年に、2つの大きな国際コンクールで優勝。その翌年、14歳でプロデビューを果たした。その後、各地で開くコンサートは、どこへいっても高い評価を受けた。
高校3年のとき、女優の吉永小百合さんがライフワークにしている「原爆詩」の朗読に協力を依頼された。吉永さん自らが「命あふれる高校生の音楽を使わせてもらうことで、過去の重いテーマが新しいものになる」と手紙をくれた。少しも大女優という顔をせず、「素」で生きている吉永さんを見て、こんな女性になりたいと思っている。
ロドリーコさんとの出会い
彼女を、大さく変えたのは、1997年から2年間のパリ留学。一人になって、いろんなことを考えた。自分はギターを通して何を伝えたいのかと考え続けていた村治さんにとって、自分を見つめ直すいい機会になった。
ギターの名曲中の名曲「アランフェス協奏曲」の作曲者ロドリーゴさんに会いたいと思った。自分の決断で、スペインまで会いに行った。ロドリーゴさんは、当時97歳。面会の5ケ月後に亡くなった。少しでも決断が遅かったら、対面がかなわないところだった。
ロドリーゴさんは、赤のネクタイを締め、紺色の背広を着て、グランドピアノの横の椅子に腰樹けていた。「神様と対面しているような20分」だったという。しかし、圧倒的な存在感に押し浸されることもなく、ロドリーゴさんの前で演奏した。失明しているロドリーゴさんは、点字の楽譜を指でなぞりながら聞いてくれた。
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