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ふるさとは森の中 人類学者の河合雅雄さんは、森の学校の卒業生だ。 河合さんの少年時代を描いた映画『森の学校』が全国各地で上映されている。 河合さんの著書に、『少年動物誌』というロングセラーがあるが、映画は、この本をもとに制作された。「照れ臭いなぁ」といいつつ、「自然に耽溺していた頃を思い出す」とまんざらでもなさそうだ。 昭和10年頃の兵庫県の丹波篠山が舞台だ。体が弱く、学校を休みがちだった雅雄少年が、自然に恵まれ、両親や祖母の愛情に包まれながら、成長していく様子が描かれている。 子どもの健全な成長には、豊かな自然に包まれ、大人の温かい眼差しの中で育つことが、いつの世でも大切だといいくメッセージが込められている。 |
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河合雅雄さんは、1924年(大将13年)兵庫県篠山町(篠山市)生まれの78歳。文化庁長官・心理学者の河合隼雄さんの兄になる。霊長類研究の第一人者として、日本モンキーセンターの設立にも関わった。ニホンザルの生態研究や、熱帯雨林のサルやヒヒの調査など、一貫して、サルからヒトへの進化の謎に迫ってきた。 河合さんが少年時代を過ごした兵庫県の丹波地方は、その75%が森といわれている。山野を駆け回るガキ大将が、いっぱいいた。いつも群をなして遊ぶ子どもの歓声が響いていた。男ばかり6人兄弟の河合さんは、よくケンカもし、よく遊びもした。特にすぐ下の弟、ミトと呼ばれていた迪雄(みちお)さんとは、よく連れ立って森へ行った。雅雄さんはマトと呼ばれていたが、マトとミトは、実にいいコンビだった。 ![]() 悪さもした。蛙のおしりに薬を突っ込んでおなかを膨らませた。バッタの足をむしり取った。見張り役の目を盗んで、スモモを失敬するスリルはたまらなかった。「このガキ!」と近所のおじさんに怒鳴られた。地域の人達が本気で叱ってくれる環境だった。 劣等感を持たなかったのは、両親のお陰だ。体調が良くなると、「外に行って遊んでおいで」と家に閉じ込めないで好きなことさせてくれた。「勉強しろ!」と言われたことは一度もない。成績表を仏壇の奥に隠して「雅雄は、学校に行かなくてもいい成績だ」と、他の兄弟たちに説明してくれていた。 父は、農家の次男坊で、独学で歯科医になった。ふだんはあまり叱らなかったが、2度同じ失敗をしでかすと、厳しく叱られた。乗馬が趣味で、動物好き。その後の歩みには、おそらく父の影響を受けたのだろう。 母は、奈良の吉野の生まれ。テニスやヴァイオリンに興じるハイカラさんだった。兄弟6人がそれぞれ楽器をたしなむようになったのも母の影響が大きい。子どもの秘密をほじくり出さない。命の危険に関わること以外は寛容な人だった。 |
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ふるさとに戻った雅雄さん 兵庫県では、「丹波の森構想」を推進している。新たに森を作ろうというのではない。丹波2郡10町870平方キロを「丹波の森」と名付けたのだ。ウィーンの森をお手本に、森林文化を育んでいくのが目的だ。「丹波の森公苑」の苑長として、河合さんは、構想の具体化に取り組んでいる。新しい生活創造、森遊びの場所作り、文化資源としての活用・・・やることはいっぱいある。 河合さんの大好きな歌に『手のひらを太陽に』がある。「ミミズだってオケラだってアメンボだってみんな生きている。みんな友達なんだ」 |
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■イネ・セイミプロフィール フルート奏者として活躍中。俳画家。 絵画を幼少より日展画家の(故)川村行雄氏に師事。俳画を華道彩生会家元(故)村松一平氏に師事。俳画の描法をもとに、少女、猫等を独自のやさしいタッチで描いている。個展多数。 * 俳画とは |
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