私は西野町小学校が好きでした。校長も教頭もいい人でした。同僚も気持ちの良い人ばかりでした。校内の雰囲気は明るく輝いていました。矢作川がすぐ近くを流れており、周辺を茶畑に囲まれた環境は最高でした。この学校で長く勤めたいと思っていました。
ところが、4年目が終わろうとしていた2月の或る日、校長が私に言いました。
「この春から鶴城中学校に行ってくれないか。杉本さんに相談しないで、軽い気持ちで向こうの校長さんに承諾してしまったんだ。悪いが、頼むよ」
「ずっと小学校で教えたい。そのために教員になったのです」と私は訴えました。校長は困った表情をして「よく考えておくように」と言いました。帰宅して考えました。鶴城中学校は西野町小学校の卒業生が行く学校である。最初の教え子たちも通っていることだし、しばらく我慢して勤めよう。翌日、私は校長にその旨を伝えました。
鶴城中学校へは中古車で通いました。初めは1年、それから2年の普通学級の担任をしました。特殊学級が新設されたので、3年目からは、希望して特殊学級の担任になりました。いろいろな面で恵まれない子どもたちに愛情をいっぱい注いでやろう。私のやり方を見て、数名の教師が「甘いな。特殊教育はもっと厳しくしなくてはいけない」と私に意見しました。しかし、私はひたすら優しく生徒たちに接していました。
特殊教育に専念していると、江戸時代に小さな子どもたちと愛情深く遊んだ良寛がいかに偉大であったかということがはっきりと分って来ました。
◎唐木順三『良寛』
私にとって、これこそ「真の教育者」だと思われる日本人が3人います。良寛と吉田松陰と宮沢賢治です。「真の教育者の資質」について、内村鑑三の息子で精神科医だった内村祐之はこう述べています。
「すべての良い教育者には共通した資質があるように思われる。それは、年少者に対する強い愛情と、彼らの信頼をかち得る誠実さの持ち主であるということである。(中略)すべての人に善意と愛情をいだき得る人のみが真の教育者であると言いたい」
良寛も松陰も賢治も「年少者に対する強い愛情と誠実さの持ち主」でした。良寛は、門下生や学生を前にして授業をしたことはありませんが、村里の子どもたちに、人としての生き方を、一緒に遊ぶことを通して教えました。
良寛は、教育者としてだけでなく、禅僧としても、和歌や漢詩の作者としても、書家としても、日本を代表する人物です。私は、彼以上に素晴らしい人間を知りません。
大学生の時、良寛のことを知ろうと思って、『良寛詩集』(岩波文庫)を買いました。少し読んでみましたが、難しすぎて、私には全然歯が立ちませんでした。
唐木順三の『良寛』(筑摩書房)が出版されたのは、昭和46年(1971)でした。私が小学校の教師になりたくて、愛教大に入学した年です。私は、早速購入しました。実にすばらしい本でした。良寛の奥深さがよく分かりました。時間をかけて、もっと良寛のことを勉強して行こう。──この本こそ、それ以後、長い間、私を良寛研究に駆り立てた、運命的な本でした。
この本は、次の7章から成り立っています。
@生涯懶立身──良寛の生涯と境涯
A「捨てる」と「任す」
B良寛の資性
C良寛における詩
D良寛の「戒語」と「愛語」
E良寛における「聞く」
F良寛における歌と書
唐木順三は、第1章の冒頭に良寛の「生涯懶立身」の詩を引用し、「この一篇を詳しく説けば、良寛という人の半分以上を明らかにすることができる」として、その詩の内容を多方面にわたって解説しています。
良寛の代表作を、読み下しではなく、原文のまま引用します。
生涯懶立身 騰々任天真 嚢中三升米 炉辺一束薪 誰問迷悟跡 何知名利塵 夜雨草庵裡 雙脚等間伸
数年前、私は、この詩を七・七調で訳しました。
「金も名誉も どこ吹く風の、自由気ままな 生涯だった。袋の中には 明日食べる米、薪も一束 ほらここにある。迷いも悟りも ほとほと飽きた。あくせく生きても 何にもならぬ。雨の音など 静かに聴いて、のんびり足を 伸ばして眠ろう」
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