海外の旅この指とまれちょっとおじゃまします元気のでてくることばたち
同時代の人たち(その1)

 科学史・医学史の研究家・立川昭二の著書『江戸人の生と死』(ちくま学芸文庫)は、とても面白い本です。良寛とほぼ同じ時期、つまり江戸後期に、個性豊かに生き、そして死んでいった6人の男女の生と病と死が取り扱われています。良寛以外にも、すばらしい一生を送った人たちがたくさんいたことが分かります。
 森鴎外が名作『高瀬舟』の素材を得た随筆『翁草』の作者・神沢杜口(写真参照)。前野良沢らと苦労して翻訳し『解体新書』として刊行した蘭医・杉田玄白。怪異小説『雨月物語』の作者として有名な上田秋成。「我と来て遊べや親のない雀」など親しみやすい俳句を数多く作った俳人の小林一茶。時には農民や子供たちと交わり、万葉調の和歌や瑣末な規則に囚われない漢詩を作った禅僧・良寛。超大作『南総里見八犬伝』の作者・滝沢馬琴の息子の嫁で、失明した馬琴が『八犬伝』を口述するのを筆記した滝沢みち。
 一人一人について詳しく書くことはできませんが、この本に引用されている彼らの言葉を中心にして、江戸後期の魅力的な人物たちの生き方と死に方を紹介します。
 まず、まるで現代人のような意識で生きた神沢杜口(1710〜1795)。
 神沢杜口(ほかに可々斎などの号がある)は、宝永7年(1710)入江家に生まれたが、11歳の時に神沢貞宜の養子になり、のち貞宜の娘と結婚。20歳の頃、養父の跡をついで京都町奉行所の与力となる。40歳頃に病弱を理由に退職。引退後も京都に住み、死ぬまでの45年間、好きな俳諧のほか、代表作『翁草』二百巻をはじめ数多くの著作の編述に没頭した。各地の伝説・奇事・異聞を諸書から抜き書きしたり、杜口自身の見聞を記録した『翁草』は、四百字詰原稿用紙に換算して一万枚に及ぶ大著である。
 妻の死後、44歳の杜口は、娘一家と暮らさずに、独居の道を選ぶ。そして、借家に住み、死ぬまでの約40年間に18回も転居する。杜口は次のように書いている。
 「物を構はねば、子孫の邪魔にもならず。我、仮の庵を、そこここと住み替ゆること十八ヶ所。猶生きなば又も替へなん。これ、仮の世の仮なることを忘れぬ方便なりけり。一年、ふた年住めば倦き、倦けば余所へ移り、移れば、まためづらかに気を養ふ。よきもあしきも一所に止らず。(中略)同じ所に居れば情が尽る故に、かくなん棲み替るなり。それも佳景の処、あるは遊里近き所には一度も棲まず。これ、面白過ぎ、繁華過ぎるの難あればなり。景色も、稀に見ればこそ興あめれ。明け暮れに見ば、あたら風色も、などか飽かでやは有るべき。市中に隠れ居れば、物、不自由ならず。いづこへ行くも偏らず」
 杜口は、世間や家族の絆を絶ち、独りで生き抜いた。後を継いだ娘一家に対しても「他人あしらい」をしていた。子や孫に執着することを避けていたのである。

 「我が妻は先に死し、五人の子あり。四人は無し、末女、家を継ぐ。孫三人をもうけしが、二人失ひて、世俗言ふ、子ひとり、孫ひとり也。世の常の人は、これを、たなごころの玉として愛ひ迷ふ習ひなれども、我はその絆を離れて、他人あしらひ也。これ、あまたの愁ひに逢ひたるままに、その執着を払ひのける工夫の功を積みて、かくの如し」
 杜口は、人間も蛆虫も同じ存在だと考えていた。「畢竟、人も溝虫も差別なく、天地の間の造化の一気を借りたる蛆虫なれば、何の論もなし。我も久々、造化の気を借りて蠢めき居れば、せめて借りものを損ねぬようにして返したきと思ふばかり」。そして、常に願っていたように「終焉、静かに眠るが如く」息を引き取ったのは寛政7年(1775)2月11日で、86年の生涯だった。
 杜口の墓は、京都市上京区出水通の曹洞宗・慈眼寺にある。風化のひどい墓石に、杜口の辞世の句が彫られている。「辞世とは すなわち迷ひ ただ死なん」。辞世の句などは心の迷いにすぎない、ただ黙って死んで行くのがよい、といった意味です。
 次は、『蘭学事始』などを著した蘭医・杉田玄白(1733〜1817)
 玄白は、江戸の小浜藩邸に生まれた。代々、藩の外科医を務めており、彼もその道を進んだ。オランダの解剖図譜『ターヘル・アナトミア』を、4年かかって前野良沢らと苦労して翻訳し、安永3年(1774)『解体新書』という名前で刊行した。日本最初の西洋解剖書の訳本である。
 名医として評判の高かった玄白は、年老いても一日一日を真摯な態度で生きた。権力者や富裕者に対しても、吉原の遊女に対しても、医者として同じ態度で接した。78歳の時に出版した『形影夜話』の中で、玄白は医者としての毅然たる志操を次のように書いた。
 「この年月、権門、富貴の家へも出入りする故に、利達を得るためなりと賎む輩もあるべし。また妓家、俳優の家へも招き来たれば行くことある故、志操の立たぬ男と謗る族もあるべし。されど翁は決して頓着せず。招けば至り、託すれば療治す。底心、名利のためにする志ならねば、権貴の人にても、病療て後は再び出入りせず。もとより此の意なれば、年始暑寒等の無益なる事には奔走せず。目当てとなす所は、一人なりとも病人多く取り扱ひ、療治の機会を自得せんと欲してなり」
 文化14年(1817)4月17日、よく晴れ上がった日に、杉田玄白は85年の長く充実した生涯を終えた。
 玄白の墓は、東京都港区虎ノ門の栄閑院にある。黒づんだごく平凡な角石墓である。
 つづいて、『雨月物語』『春雨物語』の作者・上田秋成(1734〜1809)。
 秋成は大阪に生まれた。小さい時から神経過敏で、一生、自分は「癇症」であるという病識を強くもっていた。癇症が起こると、頭に気がのぼったり、手が震えたりした。
 64歳の時、妻が急死。嘆き悲しみ、心身が不調になり、投身自殺を考える。しかし、「身を捨てん海川や何処とおぼしめぐらす程に、月日過ぎにけり」。やがて眼も不自由になり、死を願う気持ちがますます強くなった。69歳の秋成は、南禅寺山内の菩提寺・西福寺の紅梅の木の下に自分の墓を作った。そして、晩年、この西福寺の一隅に孤独の身を寄せていた。
 ある粉雪の舞う寒い日、近くの里の人達が20名ほど、食物や鍋を下げて西福寺に集まり、寄り合いを始めた。字の書けない里人たちが、寺に仮寓している秋成のことを噂して、読み書きの二つを大事にしたために、目が見えなくなった愚か者だと大声で話していた。覗き見していた秋成は、その一部始終を軽妙な筆致で書き留めた。
 「ここに秋の頃より、まれびと(お客)の宿りておはすは、世の物知りとて、あるじの法師のいたはりかしづきたまへるが、目を病みて、立居起き伏しあやうげに見ゆ。読み書きにをさをさしき(すぐれている)と言ふも、物書かぬおのれ等には、今は劣りたまへりとぞ。あまりに、此のふたつを大事として、目つぶされたる愚か人なり。(中略)かまへてかまへて(決して)、子どもらに読み書き習はすな。はてはては目やぶれむ」
 最晩年、秋成は次のような悲痛な言葉を書き残した。「今、七十五。嗚呼、天は何のために我を生みしか」。文化6年(1809)6月27日、秋成は門人の家の離れで死んだ。75歳だった。そして、存命中に作っておいた西福寺の墓に埋められた。 (つづく)

【杉本武之プロフィール】

1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。25年間、西尾市の小中学校に勤務。定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
(趣味)読書と競馬