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同時代の人たち(その1)
科学史・医学史の研究家・立川昭二の著書『江戸人の生と死』(ちくま学芸文庫)は、とても面白い本です。良寛とほぼ同じ時期、つまり江戸後期に、個性豊かに生き、そして死んでいった6人の男女の生と病と死が取り扱われています。良寛以外にも、すばらしい一生を送った人たちがたくさんいたことが分かります。 |
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![]() 杜口は、人間も蛆虫も同じ存在だと考えていた。「畢竟、人も溝虫も差別なく、天地の間の造化の一気を借りたる蛆虫なれば、何の論もなし。我も久々、造化の気を借りて蠢めき居れば、せめて借りものを損ねぬようにして返したきと思ふばかり」。そして、常に願っていたように「終焉、静かに眠るが如く」息を引き取ったのは寛政7年(1775)2月11日で、86年の生涯だった。 杜口の墓は、京都市上京区出水通の曹洞宗・慈眼寺にある。風化のひどい墓石に、杜口の辞世の句が彫られている。「辞世とは すなわち迷ひ ただ死なん」。辞世の句などは心の迷いにすぎない、ただ黙って死んで行くのがよい、といった意味です。 次は、『蘭学事始』などを著した蘭医・杉田玄白(1733〜1817) 玄白は、江戸の小浜藩邸に生まれた。代々、藩の外科医を務めており、彼もその道を進んだ。オランダの解剖図譜『ターヘル・アナトミア』を、4年かかって前野良沢らと苦労して翻訳し、安永3年(1774)『解体新書』という名前で刊行した。日本最初の西洋解剖書の訳本である。 名医として評判の高かった玄白は、年老いても一日一日を真摯な態度で生きた。権力者や富裕者に対しても、吉原の遊女に対しても、医者として同じ態度で接した。78歳の時に出版した『形影夜話』の中で、玄白は医者としての毅然たる志操を次のように書いた。 「この年月、権門、富貴の家へも出入りする故に、利達を得るためなりと賎む輩もあるべし。また妓家、俳優の家へも招き来たれば行くことある故、志操の立たぬ男と謗る族もあるべし。されど翁は決して頓着せず。招けば至り、託すれば療治す。底心、名利のためにする志ならねば、権貴の人にても、病療て後は再び出入りせず。もとより此の意なれば、年始暑寒等の無益なる事には奔走せず。目当てとなす所は、一人なりとも病人多く取り扱ひ、療治の機会を自得せんと欲してなり」 文化14年(1817)4月17日、よく晴れ上がった日に、杉田玄白は85年の長く充実した生涯を終えた。 玄白の墓は、東京都港区虎ノ門の栄閑院にある。黒づんだごく平凡な角石墓である。 つづいて、『雨月物語』『春雨物語』の作者・上田秋成(1734〜1809)。 秋成は大阪に生まれた。小さい時から神経過敏で、一生、自分は「癇症」であるという病識を強くもっていた。癇症が起こると、頭に気がのぼったり、手が震えたりした。 64歳の時、妻が急死。嘆き悲しみ、心身が不調になり、投身自殺を考える。しかし、「身を捨てん海川や何処とおぼしめぐらす程に、月日過ぎにけり」。やがて眼も不自由になり、死を願う気持ちがますます強くなった。69歳の秋成は、南禅寺山内の菩提寺・西福寺の紅梅の木の下に自分の墓を作った。そして、晩年、この西福寺の一隅に孤独の身を寄せていた。 ある粉雪の舞う寒い日、近くの里の人達が20名ほど、食物や鍋を下げて西福寺に集まり、寄り合いを始めた。字の書けない里人たちが、寺に仮寓している秋成のことを噂して、読み書きの二つを大事にしたために、目が見えなくなった愚か者だと大声で話していた。覗き見していた秋成は、その一部始終を軽妙な筆致で書き留めた。 「ここに秋の頃より、まれびと(お客)の宿りておはすは、世の物知りとて、あるじの法師のいたはりかしづきたまへるが、目を病みて、立居起き伏しあやうげに見ゆ。読み書きにをさをさしき(すぐれている)と言ふも、物書かぬおのれ等には、今は劣りたまへりとぞ。あまりに、此のふたつを大事として、目つぶされたる愚か人なり。(中略)かまへてかまへて(決して)、子どもらに読み書き習はすな。はてはては目やぶれむ」 最晩年、秋成は次のような悲痛な言葉を書き残した。「今、七十五。嗚呼、天は何のために我を生みしか」。文化6年(1809)6月27日、秋成は門人の家の離れで死んだ。75歳だった。そして、存命中に作っておいた西福寺の墓に埋められた。 (つづく) |
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【杉本武之プロフィール】
1939年 碧南市に生まれる。 |
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