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![]() 調査報告書で次のように記されています。「貝が粉末状に破砕され、かつ圧縮されて、真っ白い石灰の層を思わせるような破砕貝層が20センチほどの厚さで認められ、以下には厚く純貝層が続いていた。破砕貝層中から後期後葉末葉の凹線文系土器と半割竹管文系土器とが出土し…」およそ縄文時代後期と晩期の境ころに食べた貝が細かく砕かれた貝塚でした。 この貝塚の貝は、大アサリや、岩場につく小形巻貝のレイシなど殻の厚い貝で構成されています。貝は円形に弧を描くように身を守る殻をもち、押しつぶされる力には強くできています。これを潰そうとしても、金鎚や石でなくてはなかなか細かく砕くことはできません。つまり、容易に割れない貝を、縄文人は丹念につぶしていたと考えられるのです。 この破砕貝層は、神明社貝塚の全体に広がってはいません。およそ3メートル前後の長さで途切れているようです。このことは、細かく砕いた貝をある一定の範囲に敷き詰めたと考えることができます。その意図はなんであったのでしょうか。貝を砕くことは縄文時代に限ったことではありません。 武豊町冨貴にあるウスガイト遺跡では室町時代の屋敷と屋敷の間にあった平坦地の一面に砕けた貝が薄く堆積していました。また、東大高の光明寺遺跡でも、里道の下に貝がうっすらと堆積しているのを確認しています。 この二つの遺跡の薄い貝層の様子は、かつて未舗装の道が多かった頃、ぬかるんだ道にまかれた貝を思い起こさせました。貝の上を人が歩き、車が走ると貝は細かく砕けて土と混ざり合い硬い道になっていきました。 貝の主成分は石灰分です。イシバイと呼んだ石灰は、「たたき」に用いられました。古い農家の戸をくぐると土間の床が硬くしまって、コンクリートのようにテカテカに光っていたことを思い出します。「たたき」は砂利や赤土、イシバイにニガリ塩を混ぜ合わせて、たたいて固めたものです。石灰岩は知多半島では産出しません。これに代用できるのは貝です。 知多市の大草城跡で土塁の発掘調査がありました。高さが5メートル以上もある土塁の基礎は硬く締まった砂の層となっていました。この層は鍬も跳ね返し、重機で削っても歯が立ちませんでした。砂の層には細かな貝が混入していました。これは、室町時代のタタキではないだろうかと、調査担当者の山下勝年氏は考えました。 原料の砂や貝、にが塩は近くの海岸で手に入れることができます。これを運び入れ、破壊されない土塁を作りあげたといいます。また古民家や寺の土台を貝混じりの赤土で固めてあるところを目にします。 神明社貝塚の破砕貝層は、締め固められた土台ではなかったか、今一度再調査といっても、容易なことではありません。貝塚調査の際には注視しておきたいところです。 |
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