海外の旅この指とまれちょっとおじゃまします元気のでてくることばたち
 少彦名命を祀る知里付神社は、貞冶三年(1364)の「尾張国内神名帳」に記載されています。この神名帳は、文治二年(1186)三月に天下安隠祈願のため尾張国内諸神の位階が上げられたときのもので、知多郡では十六座があって、その一つにとりあげられています。
 筆頭には式内社である師崎の波豆名神(現在の羽豆神社)、その次に知鯉鮒名神(知里付神社)とあります。いずれも従一位上として正一位の熱田皇太神宮(熱田神宮)などの高い社格の次格です。
 もう少し古い神社名を列挙した記録の延長五年(925)に完成した延喜式神名上では知多郡で三座が記されています。ここには羽豆神社は、記されていますが、知里付神社を見ることはできません。
 このことは、従一位ほどの社格をもつ神社が925年から1186年間のおよそ260年の間に勧請され高貴な信仰対象となったといえそうです。
 この260年の空白時期。それは、これまでに示してきました枳豆志庄の荘園の成立時期にあたります。
 ここで少し枳豆志庄の名前の由来について試論してみたいと思います。
 この名前が文献で初めて出てきたのが野間内海海荘の四至を確定した、範囲を示した大政官牒案です。

     戌亥桍示 枳豆 庄境

     辰巳桍示
四至
     丑寅桍示 字山

     未申桍示 堺浦

ここに「枳豆 庄」とあって一字が欠けているが枳豆志庄にさすものに間違いがないとされてきました。この考えは、周知が認めるところですが、一字抜けていることに気になります。

 平城京木簡に
 表 尾張国智多但馬郷区豆里田部得石御調塩
 裏 天平六年八月九日

この記事は木簡(荷札)で天平六年(734)8月9日に知多郡の但馬郷の区豆里の田部得石が調として塩を朝廷に収めたというものです。
 この木簡が発見されたとき、田部得石の住む但馬郷区豆里は現在の南知多町内海旧楠村に推定されました。それは、但馬郷の推定域に南知多町全域が入り、そこに旧村地名の楠(くす)と区豆(くづ)をあてはめたのです。それは、推定者も不確定要素が強い旨の記述をしているほどで、区豆里は何処であったのか地方史の課題の一つでした。
 もとより但馬郷の推定域も明確ではありません。ましては、現在の武豊町や常滑市が奈良時代にどの郷に属していたのかも分かっていないのです。       (つづく)