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日本と中国との関係は2025年、台湾を巡る高市早苗首相の発言を機に悪化の一途をたどっている。これまでも政治や経済、軍事などの摩擦などもあったが、歴史や地理的に「一衣帯水」の大局的な見地から鎮静化に向かってほしい。紀元前2070年の夏王朝から4000年以上の歴史のある隣国の中国には20数回も訪れている。首都の北京市内へは1997年と翌年も出張で立ち寄っていたが、観光目的では日中国交正常化35周年の2007年2月に訪れた。元、明、清の三代の王朝の居城であった紫禁城内の故宮博物院を中心に主だった名所をリポートする。
王宮の魅力は収蔵品以上に、壮麗な宮殿建設
1990年代後半、朝日新聞企画部在籍時、創刊120周年プロジェクトで「シルクロード 三蔵法師の道」に取り組み展覧会を軸に、学術調査や国際シンポジウムに取り組んでいた。玄奘が天竺・インドへ旅した長安の都があったのは西安で、展覧会への出品交渉や、シルクロードのオアシス敦煌訪問もあって、何度も北京空港に立ち寄っていたが、経由地に過ぎなかった。
北京の観光は、約10年の歳月が流れ、定年後となった。2007年2月に故宮博物院を再訪した。故宮の魅力は収蔵品以上に、壮麗な宮殿建設だ。皇室ゆかりの黄色の瑠璃瓦に朱色の壁のいくつも建物を見ながら、玉座のある太和殿にたどり着いた。
そもそも故宮とは、故(もと)の宮城という意味があるそうだ。東西750メートル、南北960メートルで、その広さは72万平方あり、部屋の数は9000位上という。何しろ24人の皇帝が約500年にわたって統治した居城なのだ。
城壁の四周にそれぞれ一門があり、南の午門が正門としてとくに雄大で、北に神武門、東に東華門、西に西華門が開き、四隅に角楼(かくろう)がある。1998年時は午門と呼ばれる正面入り口からだったが、2007年時は北側の神武門から入った。ここは2006年10月から修復工事中で、故宮博物院の看板を残しネットに覆われていたが、安全措置を施しており、門をくぐることができた。
MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
翌2008年10月の北京オリンピックを控え、市内各所は建設ラッシュだった。故宮でも、皇室儀式があった太和殿など主要な宮殿建築で大規模な修復工事が行われていた。ネットの裏には実物大の写真が取り付けられており、遠くから見れば実物が透けて見えるようだった。修復このため所蔵文物も一部しか見ることができなかった。
紫禁城は、皇帝が公務を行った「外朝」と、皇帝が生活した「内廷」に大きく分かれている。外朝は公的な場所で、主に式典や重要な行事が行われ、午門から北へ太和門、太和殿、中和殿、保和殿が中軸線上に一列に並ぶ。
壮大な紫禁城の一部が博物院となっている。フランスのルーヴル博物館やロシアのエルミタージュ美術館と同じように、かつての宮殿を活用しているが、故宮博物院はいくつもの建物に展示室があって、陶磁や青銅器、絵画や書画、工芸館などが散在していた。
さて博物院を回っていて気を止めたことがある。鐘表館を入った右手の建物内では、書画骨董を観光客に販売していたのだ。聞くと中華人民共和国政府の準直営の店舗で、買い上げには博物院の鑑定書も付くという。その売上金は修復費のチャリティーになるそうだ。故宮敷地内では、修復費の一部にと近現代の美術品の即売をしていた。中国では最近、日本から美術品を買い戻す動きも活発になっている。
故宮から広大な天安門、大国・中国を実感
太和殿から太和門、そして金水橋を渡り、午門をくぐり、明時代の正門である天安門を出ると、眼前に広大な天安門広場が望めた。背後を振り返ると、門口上部に毛沢東の大きな肖像画が掲げられている。広大なスペースを見ていると、2006年に訪れたモスクワの赤の広場を思い出した。その設計思想を擬したのかどうか、赤の広場を圧倒する100万人が収容できるという規模で、巨大な国であることを実感させられてしまう。天安門からの眺めは周囲三方に人民大会堂・毛主席記念堂・中国国家博物館の建物が配置されている。
天安門と言えば、この広場で1989年6月4日に民主天安門広場化を求める学生や市民に対して中国人民解放軍が武力を行使し、多数の死傷者を出した事件を思い起こした。民主化に理解を示していた胡耀邦元総書記の死をきっかけに、学生や市民が天安門広場に集まり、民主化や言論の自由を求めて10万人を超える人々が参加しデモを行った。これに対し、中国政府はデモを「動乱」とみなし、戒厳令を布告。中国人民解放軍が広場を占拠していたデモ隊に対し、銃器や装甲車を用いて武力で鎮圧した。
事件後、民主化運動に寛容な姿勢を見せた趙紫陽総書記は解任され、自宅軟禁下に置かれた。江沢民が新たな総書記に就任し、共産党一党独裁体制が維持された。日本を含む西側諸国は中国を厳しく批判し、経済制裁を課した。
「万里の長城」は圧巻、見逃せない「胡同」
「万里の長城」はエジプトのピラミッドと並び、人類が築いた歳代の建造物として、心待ちにしていた。中国北部を東西に横断する世界最大級の防御施設で、総延長は約21,196.18キロに及ぶ。紀元前7世紀に築かれ始め、秦の始皇帝が各地で築かれた城壁をつなぎ合わせ、現在の形は明代に整備された。1987年には世界文化遺産に登録されている。
数キロ歩いてみたが、遠くから眺めるのと様違い、急勾配があってきつい。「よくぞ人の労力を使って造ったものだ」と感心しつつ、「争うことから守るという壮大な無駄」と思わずにいられなかった。
このほか、紫禁城と並び北京のシンボルとされる中国最大の祭祀木造建築である「天壇」(1998年に世界遺産に登録)と「天壇の皇乾殿」や、2006年に世界遺産に登録された「明の十三陵」、皇室の庭園「頤和園(いわえん)」や、チベット仏教寺院群の「雍和宮」などを見学した。いずれも中国ならではの悠久の歴史をしのばせるスケールを満喫した。 さらに、北京原人の遺跡「周口店」や、日中戦争勃発の地「盧溝橋」などにも足を延ばした。
最後に、市街地から路地に足を踏み入れると、7000以上あると言われる「胡同(フ―トン)」のことを触れておきたい。天安門の近くに、西は天安門広場東路から東は崇文門内大街に至る全長1552メートルの胡同がある。東交民巷と呼ばれ、北京で最長の胡同だ。
東交民巷は、大使館、教会、銀行、公館、クラブなどが統合されたヨーロッパ風の街区で、道の両側は異国情緒のある建築物が建つ。前が店舗、裏が住居の形態は、深みのある街の風情と濃厚な昔の北京の特色を表している。煙袋斜街は、観光客が暇な時おいしい食べ物を探したり、骨董を見たり、書画や古い建築物を鑑賞したりする魅力的な下町風情だ。
しかし、10年にわたった「文化大革命」で、胡同に残されていた貴重な数多くの歴史、文化遺跡は破壊され、そして1978年に始まった改革開放。多くの胡同はブルドーザーで跡形もなく壊されてしまい、跡地にモダンな高層ビルが屹立するなど、北京は大きく変貌したのだった。
大都市・北京は年々すさまじい勢いで近代化や都市化が進んでいる。その中にあって、時代から取り残されたような古色蒼然の胡同はぜひとも行かねばならぬ所であろう。胡同は北京の古を繋ぐ道だけではなく、庶民の日常生活の場所、歴史文化変遷の舞台でもある。おびただしい数の胡同が故宮の周囲に張り巡らされている。ほとんどは元と明、清の三つの時代につくられた。北京は新時代のパワーとともに、いつまでも伝統文化の息づく街であってほしい。
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日本と中国との関係は2025年、台湾を巡る高市早苗首相の発言を機に悪化の一途をたどっている。これまでも政治や経済、軍事などの摩擦などもあったが、歴史や地理的に「一衣帯水」の大局的な見地から鎮静化に向かってほしい。紀元前2070年の夏王朝から4000年以上の歴史のある隣国の中国には20数回も訪れている。首都の北京市内へは1997年と翌年も出張で立ち寄っていたが、観光目的では日中国交正常化35周年の2007年2月に訪れた。元、明、清の三代の王朝の居城であった紫禁城内の故宮博物院を中心に主だった名所をリポートする。
王宮の魅力は収蔵品以上に、壮麗な宮殿建設
1990年代後半、朝日新聞企画部在籍時、創刊120周年プロジェクトで「シルクロード 三蔵法師の道」に取り組み展覧会を軸に、学術調査や国際シンポジウムに取り組んでいた。玄奘が天竺・インドへ旅した長安の都があったのは西安で、展覧会への出品交渉や、シルクロードのオアシス敦煌訪問もあって、何度も北京空港に立ち寄っていたが、経由地に過ぎなかった。
北京の観光は、約10年の歳月が流れ、定年後となった。2007年2月に故宮博物院を再訪した。故宮の魅力は収蔵品以上に、壮麗な宮殿建設だ。皇室ゆかりの黄色の瑠璃瓦に朱色の壁のいくつも建物を見ながら、玉座のある太和殿にたどり着いた。
そもそも故宮とは、故(もと)の宮城という意味があるそうだ。東西750メートル、南北960メートルで、その広さは72万平方あり、部屋の数は9000位上という。何しろ24人の皇帝が約500年にわたって統治した居城なのだ。
城壁の四周にそれぞれ一門があり、南の午門が正門としてとくに雄大で、北に神武門、東に東華門、西に西華門が開き、四隅に角楼(かくろう)がある。1998年時は午門と呼ばれる正面入り口からだったが、2007年時は北側の神武門から入った。ここは2006年10月から修復工事中で、故宮博物院の看板を残しネットに覆われていたが、安全措置を施しており、門をくぐることができた。
翌2008年10月の北京オリンピックを控え、市内各所は建設ラッシュだった。故宮でも、皇室儀式があった太和殿など主要な宮殿建築で大規模な修復工事が行われていた。ネットの裏には実物大の写真が取り付けられており、遠くから見れば実物が透けて見えるようだった。修復このため所蔵文物も一部しか見ることができなかった。
紫禁城は、皇帝が公務を行った「外朝」と、皇帝が生活した「内廷」に大きく分かれている。外朝は公的な場所で、主に式典や重要な行事が行われ、午門から北へ太和門、太和殿、中和殿、保和殿が中軸線上に一列に並ぶ。
壮大な紫禁城の一部が博物院となっている。フランスのルーヴル博物館やロシアのエルミタージュ美術館と同じように、かつての宮殿を活用しているが、故宮博物院はいくつもの建物に展示室があって、陶磁や青銅器、絵画や書画、工芸館などが散在していた。
さて博物院を回っていて気を止めたことがある。鐘表館を入った右手の建物内では、書画骨董を観光客に販売していたのだ。聞くと中華人民共和国政府の準直営の店舗で、買い上げには博物院の鑑定書も付くという。その売上金は修復費のチャリティーになるそうだ。故宮敷地内では、修復費の一部にと近現代の美術品の即売をしていた。中国では最近、日本から美術品を買い戻す動きも活発になっている。
故宮から広大な天安門、大国・中国を実感
太和殿から太和門、そして金水橋を渡り、午門をくぐり、明時代の正門である天安門を出ると、眼前に広大な天安門広場が望めた。背後を振り返ると、門口上部に毛沢東の大きな肖像画が掲げられている。広大なスペースを見ていると、2006年に訪れたモスクワの赤の広場を思い出した。その設計思想を擬したのかどうか、赤の広場を圧倒する100万人が収容できるという規模で、巨大な国であることを実感させられてしまう。天安門からの眺めは周囲三方に人民大会堂・毛主席記念堂・中国国家博物館の建物が配置されている。
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
天安門と言えば、この広場で1989年6月4日に民主天安門広場化を求める学生や市民に対して中国人民解放軍が武力を行使し、多数の死傷者を出した事件を思い起こした。民主化に理解を示していた胡耀邦元総書記の死をきっかけに、学生や市民が天安門広場に集まり、民主化や言論の自由を求めて10万人を超える人々が参加しデモを行った。これに対し、中国政府はデモを「動乱」とみなし、戒厳令を布告。中国人民解放軍が広場を占拠していたデモ隊に対し、銃器や装甲車を用いて武力で鎮圧した。
事件後、民主化運動に寛容な姿勢を見せた趙紫陽総書記は解任され、自宅軟禁下に置かれた。江沢民が新たな総書記に就任し、共産党一党独裁体制が維持された。日本を含む西側諸国は中国を厳しく批判し、経済制裁を課した。
「万里の長城」は圧巻、見逃せない「胡同」
「万里の長城」はエジプトのピラミッドと並び、人類が築いた歳代の建造物として、心待ちにしていた。中国北部を東西に横断する世界最大級の防御施設で、総延長は約21,196.18キロに及ぶ。紀元前7世紀に築かれ始め、秦の始皇帝が各地で築かれた城壁をつなぎ合わせ、現在の形は明代に整備された。1987年には世界文化遺産に登録されている。
数キロ歩いてみたが、遠くから眺めるのと様違い、急勾配があってきつい。「よくぞ人の労力を使って造ったものだ」と感心しつつ、「争うことから守るという壮大な無駄」と思わずにいられなかった。
このほか、紫禁城と並び北京のシンボルとされる中国最大の祭祀木造建築である「天壇」(1998年に世界遺産に登録)と「天壇の皇乾殿」や、2006年に世界遺産に登録された「明の十三陵」、皇室の庭園「頤和園(いわえん)」や、チベット仏教寺院群の「雍和宮」などを見学した。いずれも中国ならではの悠久の歴史をしのばせるスケールを満喫した。 さらに、北京原人の遺跡「周口店」や、日中戦争勃発の地「盧溝橋」などにも足を延ばした。
最後に、市街地から路地に足を踏み入れると、7000以上あると言われる「胡同(フ―トン)」のことを触れておきたい。天安門の近くに、西は天安門広場東路から東は崇文門内大街に至る全長1552メートルの胡同がある。東交民巷と呼ばれ、北京で最長の胡同だ。
東交民巷は、大使館、教会、銀行、公館、クラブなどが統合されたヨーロッパ風の街区で、道の両側は異国情緒のある建築物が建つ。前が店舗、裏が住居の形態は、深みのある街の風情と濃厚な昔の北京の特色を表している。煙袋斜街は、観光客が暇な時おいしい食べ物を探したり、骨董を見たり、書画や古い建築物を鑑賞したりする魅力的な下町風情だ。
しかし、10年にわたった「文化大革命」で、胡同に残されていた貴重な数多くの歴史、文化遺跡は破壊され、そして1978年に始まった改革開放。多くの胡同はブルドーザーで跡形もなく壊されてしまい、跡地にモダンな高層ビルが屹立するなど、北京は大きく変貌したのだった。
大都市・北京は年々すさまじい勢いで近代化や都市化が進んでいる。その中にあって、時代から取り残されたような古色蒼然の胡同はぜひとも行かねばならぬ所であろう。胡同は北京の古を繋ぐ道だけではなく、庶民の日常生活の場所、歴史文化変遷の舞台でもある。おびただしい数の胡同が故宮の周囲に張り巡らされている。ほとんどは元と明、清の三つの時代につくられた。北京は新時代のパワーとともに、いつまでも伝統文化の息づく街であってほしい。