MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 新年を異国の地で迎えたことがある。イランでは、太陽が春分点を通過する時刻を新年としている。訪れた2009年は3月20日午後3時13分だった。テヘラン行き国内便の出発を待つタブリーズ空港でカウントダウンが始まり、「ノウルーズ」と祝われる新しい年の幕開けと同時に、拍手に包まれた。この年、イスラム革命から30年を迎えていた。イランを取り巻く国際情勢は、核兵器開発などをめぐって16年以上経た現在も変わらず厳しい。激動の中東にあって、はるか7700年前から悠久のペルシャ文明の歴史を刻んできたイランへの旅は好奇心を掻き立てた。10日間の旅ではあったが、日本人の先入観を覆す印象記を綴ってみよう。

新年「ノウルーズ」を家族が集まり祝う
 お正月の街中では、公共の場はもちろんホテルのロビーや店頭にも新年の縁起物が並べられていた。ペルシャ語でSの頭文字が付いた7種で、赤い金魚や鏡、イスラムの聖典、さらに大麦を発芽させた小さな鉢などだ。正月は商店もほとんど休みで、家族や親戚が集まって新年を祝う。日本で失われつつある家族の絆は深いといえる。
 革命によって宗教が政治を支配する国となったイランでは、女性はチャドル姿を強いられていた。街で見かける女性は、黒いベールを頭から足まですっぽりとかぶって黒ずくめなので、最初はとても奇妙だった。しかし、よくよく見ると、若い女性の足元に見え隠れするのはヒールの高めなパンプスとジーンズのパンツスタイルや、ベールもファッションの一つになっているようで、明るい色のベールを付けている女性も多かった。バザールや女性専門店のショーウインドウには、原色系のカラフルな色で肌を大きく見せる形のデザインのドレスも陳列されている。
 街を歩いて気付いたのが、ザカートと呼ばれる喜捨用のポストだ。日本の郵便ポストの数より多くあった。イスラムの教えが国民に浸透しているようだ。旅の間、ホームレスや物乞いの姿を見かけなかったのも驚きだった。どこの国にも格差が生じているが、貧困者を家族や親戚、そして社会が支えているように感じられた。
 イラン革命といえばホメイニー師の顔が思い浮かぶ。帰国前日にテヘラン郊外にある廟を訪ねた。地下鉄の最南端駅を降りると、ホメイニー師が眠る霊廟が見えてくる。廟は大きく建設途中だったが、正月とあって、日本の寺社への初詣での様に参拝者が詰めかけていた。男女別の入口を入ると一面に絨毯が敷き詰められている。奥まった大広間に格子戸で囲まれた一角に写真額が置かれた棺が安置されていた。
 現地の紙幣にも使われているホメイニー師は政府批判を続け、国外追放処分を受けフランスに亡命するが、国外からも国王への抵抗を呼びかけ続けた。1979年に反体制運動の高まりでパーレビ国王が亡命したのを受けて、15年ぶりに帰国を果たし、イラン・イスラム共和国の樹立を宣言し任期4年制の大統領の上に立つ最高指導者となったのだ。ホメイニー師は1989年に86歳で他界したが、最期の言葉は「灯りを消してくれ。私はもう眠い」であったと言う。

壮大な王宮しのぶペルセポリス
 旅のハイライトは、世界遺産のペルセポリスだ。地中海世界からインドに至る広大な領土を支配したアケメネス朝ペルシャの都で、紀元前6世紀後半にダレイオス1世が建設した宮殿群だ。紀元前331年、アレクサンドロス大王に攻め落とされ廃墟となった。古代オリエント文明を代表する遺跡で、イラン革命の1979年に世界遺産に登録されている。
 12万5000平方メートルもの遺跡には、かつての壮大な王宮の痕跡をとどめる建造物が展開していた。あらゆる民族を迎え入れるという意味を持つ「万国の門」は4本の石柱が残り、一対の牡牛像と人面有翼獣身像に圧倒された。ペルシャ王に謁見するためにやって来たさまざまな民族の姿を刻んだレリーフの階段を挟んで「謁見の間」や「百柱の間」などが往時のスケールを偲ばせる。帝国の繁栄を支えた「王の道」や「カナート」と呼ばれる沙漠の灌漑施設にも驚きを誘った。
 イラン高原の中ほどのオアシス都市、イスファンにあるイマーム広場も世界遺産だ。16世紀にアッバース1世が手がけ何十年もかけて建造されたという。豪華な宮殿やモスクとともに幅500メートを超す回廊には、みやげ物屋が軒を並べ、時の経つのを忘れるほどだった。
 イスファンを南北に貫くイスィー・オ・セ橋は1602年に完成した名橋。「スィー・オ・セ」とは33を意味し、橋上部のアーチが33あり、長さは300メートル。車は進入禁止で、いつも人通りが絶えない。
 さらにアケメネス朝が起こったシーラーズはバラと詩人で知られるファールス州の都だ。旅に携えた『ペルシャの詩人』(蒲生礼一著、1964年、紀伊國屋新書)に紹介されたサアディーとハーフィズを輩出した土地で、廟を訪ねた。
先入観を覆す親日的で穏やかな国民性
 革命後のイランについて、私は政治的自由度の不十分さや、宗教政権の不明朗性、高い失業率、インフレ率など、現状に批判的な声も耳にしていた。欧米の民主主義のように平和的で健全な自浄作用をもっているのかどうか、という点になると、正直、疑問を感じざるをえないのも事実だ。しかし観光地や街頭で多くの笑顔に触れ、一緒に写真を撮りたいと申し出てくるイラン人が多く、とても親日的だった。
 アメリカは、オバマ政権時代にイランと関係改善を図り、2015年にはイランの核開発を大幅に制限する見返りに、経済制裁の解除で合意した。ところが、2018年5月にトランプ大統領が合意から一方的に離脱し、再び経済制裁を科した。バイデン大統領になって、間接的に対話が進められていたが、2025年にトランプ大統領が再選され、自身によるSNSへの投稿で「われわれの今後の合意ではいかなるウラン濃縮も認めない」としていて、またまた関係改善は仕切り直しとなっている。
 近隣のイスラエルとの関係も不穏な情勢だ。1948年建国のイスラエルと、イランとの対立は1979年のイランでのイスラム革命が起源だ。革命で打倒された親米のパーレビ王政は、同じく米国を後ろ盾とするイスラエルと良好な関係を築き、諜報でも協力してきた。
 しかしイスラム革命で関係は劇的に変化した。イランの革命体制は、イスラエルをイスラム教の聖地エルサレムを占領した敵とみなし、存在も否定する。2024年になってスラエルとパレスチナ自治区ガザ地区におけるハマスとの軍事衝突に絡み、初めて抗戦する事態となった。
 シリアの首都ダマスカスにあるイラン大使館領事部に対する攻撃をめぐり、イランはイスラエルが実行したとして報復攻撃を行った。その後、イスラエルがわずか数日後にイランに報復したが、衝突の拡大には至らなかった。
 イランから帰国後、イランを巡る動向に関心を寄せている。イランでは飲酒ご法度、快楽・世俗主義を排していた。しかしインターネットの規制もなく、衛星テレビを見ることも黙認されている。アメリカを敵視する政治の方針とは裏腹に、国民生活の西欧化が急テンポに進んでいるのも現状だ。
 遠い国と思っていたイランが遠いけれども近い国になった。そんな思いを抱いた旅であった。
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■この指とまれ
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■ちょっとおじゃまします                   
■元気の出てくることばたち
 新年を異国の地で迎えたことがある。イランでは、太陽が春分点を通過する時刻を新年としている。訪れた2009年は3月20日午後3時13分だった。テヘラン行き国内便の出発を待つタブリーズ空港でカウントダウンが始まり、「ノウルーズ」と祝われる新しい年の幕開けと同時に、拍手に包まれた。この年、イスラム革命から30年を迎えていた。イランを取り巻く国際情勢は、核兵器開発などをめぐって16年以上経た現在も変わらず厳しい。激動の中東にあって、はるか7700年前から悠久のペルシャ文明の歴史を刻んできたイランへの旅は好奇心を掻き立てた。10日間の旅ではあったが、日本人の先入観を覆す印象記を綴ってみよう。

新年「ノウルーズ」を家族が集まり祝う
 お正月の街中では、公共の場はもちろんホテルのロビーや店頭にも新年の縁起物が並べられていた。ペルシャ語でSの頭文字が付いた7種で、赤い金魚や鏡、イスラムの聖典、さらに大麦を発芽させた小さな鉢などだ。正月は商店もほとんど休みで、家族や親戚が集まって新年を祝う。日本で失われつつある家族の絆は深いといえる。
 革命によって宗教が政治を支配する国となったイランでは、女性はチャドル姿を強いられていた。街で見かける女性は、黒いベールを頭から足まですっぽりとかぶって黒ずくめなので、最初はとても奇妙だった。しかし、よくよく見ると、若い女性の足元に見え隠れするのはヒールの高めなパンプスとジーンズのパンツスタイルや、ベールもファッションの一つになっているようで、明るい色のベールを付けている女性も多かった。バザールや女性専門店のショーウインドウには、原色系のカラフルな色で肌を大きく見せる形のデザインのドレスも陳列されている。
 街を歩いて気付いたのが、ザカートと呼ばれる喜捨用のポストだ。日本の郵便ポストの数より多くあった。イスラムの教えが国民に浸透しているようだ。旅の間、ホームレスや物乞いの姿を見かけなかったのも驚きだった。どこの国にも格差が生じているが、貧困者を家族や親戚、そして社会が支えているように感じられた。

MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 イラン革命といえばホメイニー師の顔が思い浮かぶ。帰国前日にテヘラン郊外にある廟を訪ねた。地下鉄の最南端駅を降りると、ホメイニー師が眠る霊廟が見えてくる。廟は大きく建設途中だったが、正月とあって、日本の寺社への初詣での様に参拝者が詰めかけていた。男女別の入口を入ると一面に絨毯が敷き詰められている。奥まった大広間に格子戸で囲まれた一角に写真額が置かれた棺が安置されていた。
 現地の紙幣にも使われているホメイニー師は政府批判を続け、国外追放処分を受けフランスに亡命するが、国外からも国王への抵抗を呼びかけ続けた。1979年に反体制運動の高まりでパーレビ国王が亡命したのを受けて、15年ぶりに帰国を果たし、イラン・イスラム共和国の樹立を宣言し任期4年制の大統領の上に立つ最高指導者となったのだ。ホメイニー師は1989年に86歳で他界したが、最期の言葉は「灯りを消してくれ。私はもう眠い」であったと言う。

壮大な王宮しのぶペルセポリス
 旅のハイライトは、世界遺産のペルセポリスだ。地中海世界からインドに至る広大な領土を支配したアケメネス朝ペルシャの都で、紀元前6世紀後半にダレイオス1世が建設した宮殿群だ。紀元前331年、アレクサンドロス大王に攻め落とされ廃墟となった。古代オリエント文明を代表する遺跡で、イラン革命の1979年に世界遺産に登録されている。
 12万5000平方メートルもの遺跡には、かつての壮大な王宮の痕跡をとどめる建造物が展開していた。あらゆる民族を迎え入れるという意味を持つ「万国の門」は4本の石柱が残り、一対の牡牛像と人面有翼獣身像に圧倒された。ペルシャ王に謁見するためにやって来たさまざまな民族の姿を刻んだレリーフの階段を挟んで「謁見の間」や「百柱の間」などが往時のスケールを偲ばせる。帝国の繁栄を支えた「王の道」や「カナート」と呼ばれる沙漠の灌漑施設にも驚きを誘った。
 イラン高原の中ほどのオアシス都市、イスファンにあるイマーム広場も世界遺産だ。16世紀にアッバース1世が手がけ何十年もかけて建造されたという。豪華な宮殿やモスクとともに幅500メートを超す回廊には、みやげ物屋が軒を並べ、時の経つのを忘れるほどだった。
 イスファンを南北に貫くイスィー・オ・セ橋は1602年に完成した名橋。「スィー・オ・セ」とは33を意味し、橋上部のアーチが33あり、長さは300メートル。車は進入禁止で、いつも人通りが絶えない。
 さらにアケメネス朝が起こったシーラーズはバラと詩人で知られるファールス州の都だ。旅に携えた『ペルシャの詩人』(蒲生礼一著、1964年、紀伊國屋新書)に紹介されたサアディーとハーフィズを輩出した土地で、廟を訪ねた。

先入観を覆す親日的で穏やかな国民性
 革命後のイランについて、私は政治的自由度の不十分さや、宗教政権の不明朗性、高い失業率、インフレ率など、現状に批判的な声も耳にしていた。欧米の民主主義のように平和的で健全な自浄作用をもっているのかどうか、という点になると、正直、疑問を感じざるをえないのも事実だ。しかし観光地や街頭で多くの笑顔に触れ、一緒に写真を撮りたいと申し出てくるイラン人が多く、とても親日的だった。
 アメリカは、オバマ政権時代にイランと関係改善を図り、2015年にはイランの核開発を大幅に制限する見返りに、経済制裁の解除で合意した。ところが、2018年5月にトランプ大統領が合意から一方的に離脱し、再び経済制裁を科した。バイデン大統領になって、間接的に対話が進められていたが、2025年にトランプ大統領が再選され、自身によるSNSへの投稿で「われわれの今後の合意ではいかなるウラン濃縮も認めない」としていて、またまた関係改善は仕切り直しとなっている。
 近隣のイスラエルとの関係も不穏な情勢だ。1948年建国のイスラエルと、イランとの対立は1979年のイランでのイスラム革命が起源だ。革命で打倒された親米のパーレビ王政は、同じく米国を後ろ盾とするイスラエルと良好な関係を築き、諜報でも協力してきた。
 しかしイスラム革命で関係は劇的に変化した。イランの革命体制は、イスラエルをイスラム教の聖地エルサレムを占領した敵とみなし、存在も否定する。2024年になってスラエルとパレスチナ自治区ガザ地区におけるハマスとの軍事衝突に絡み、初めて抗戦する事態となった。
 シリアの首都ダマスカスにあるイラン大使館領事部に対する攻撃をめぐり、イランはイスラエルが実行したとして報復攻撃を行った。その後、イスラエルがわずか数日後にイランに報復したが、衝突の拡大には至らなかった。
 イランから帰国後、イランを巡る動向に関心を寄せている。イランでは飲酒ご法度、快楽・世俗主義を排していた。しかしインターネットの規制もなく、衛星テレビを見ることも黙認されている。アメリカを敵視する政治の方針とは裏腹に、国民生活の西欧化が急テンポに進んでいるのも現状だ。
 遠い国と思っていたイランが遠いけれども近い国になった。そんな思いを抱いた旅であった。
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 新年を異国の地で迎えたことがある。イランでは、太陽が春分点を通過する時刻を新年としている。訪れた2009年は3月20日午後3時13分だった。テヘラン行き国内便の出発を待つタブリーズ空港でカウントダウンが始まり、「ノウルーズ」と祝われる新しい年の幕開けと同時に、拍手に包まれた。この年、イスラム革命から30年を迎えていた。イランを取り巻く国際情勢は、核兵器開発などをめぐって16年以上経た現在も変わらず厳しい。激動の中東にあって、はるか7700年前から悠久のペルシャ文明の歴史を刻んできたイランへの旅は好奇心を掻き立てた。10日間の旅ではあったが、日本人の先入観を覆す印象記を綴ってみよう。

新年「ノウルーズ」を家族が集まり祝う
 お正月の街中では、公共の場はもちろんホテルのロビーや店頭にも新年の縁起物が並べられていた。ペルシャ語でSの頭文字が付いた7種で、赤い金魚や鏡、イスラムの聖典、さらに大麦を発芽させた小さな鉢などだ。正月は商店もほとんど休みで、家族や親戚が集まって新年を祝う。日本で失われつつある家族の絆は深いといえる。
 革命によって宗教が政治を支配する国となったイランでは、女性はチャドル姿を強いられていた。街で見かける女性は、黒いベールを頭から足まですっぽりとかぶって黒ずくめなので、最初はとても奇妙だった。しかし、よくよく見ると、若い女性の足元に見え隠れするのはヒールの高めなパンプスとジーンズのパンツスタイルや、ベールもファッションの一つになっているようで、明るい色のベールを付けている女性も多かった。バザールや女性専門店のショーウインドウには、原色系のカラフルな色で肌を大きく見せる形のデザインのドレスも陳列されている。
 街を歩いて気付いたのが、ザカートと呼ばれる喜捨用のポストだ。日本の郵便ポストの数より多くあった。イスラムの教えが国民に浸透しているようだ。旅の間、ホームレスや物乞いの姿を見かけなかったのも驚きだった。どこの国にも格差が生じているが、貧困者を家族や親戚、そして社会が支えているように感じられた。

 イラン革命といえばホメイニー師の顔が思い浮かぶ。帰国前日にテヘラン郊外にある廟を訪ねた。地下鉄の最南端駅を降りると、ホメイニー師が眠る霊廟が見えてくる。廟は大きく建設途中だったが、正月とあって、日本の寺社への初詣での様に参拝者が詰めかけていた。男女別の入口を入ると一面に絨毯が敷き詰められている。奥まった大広間に格子戸で囲まれた一角に写真額が置かれた棺が安置されていた。
 現地の紙幣にも使われているホメイニー師は政府批判を続け、国外追放処分を受けフランスに亡命するが、国外からも国王への抵抗を呼びかけ続けた。1979年に反体制運動の高まりでパーレビ国王が亡命したのを受けて、15年ぶりに帰国を果たし、イラン・イスラム共和国の樹立を宣言し任期4年制の大統領の上に立つ最高指導者となったのだ。ホメイニー師は1989年に86歳で他界したが、最期の言葉は「灯りを消してくれ。私はもう眠い」であったと言う。

壮大な王宮しのぶペルセポリス
 旅のハイライトは、世界遺産のペルセポリスだ。地中海世界からインドに至る広大な領土を支配したアケメネス朝ペルシャの都で、紀元前6世紀後半にダレイオス1世が建設した宮殿群だ。紀元前331年、アレクサンドロス大王に攻め落とされ廃墟となった。古代オリエント文明を代表する遺跡で、イラン革命の1979年に世界遺産に登録されている。
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
 12万5000平方メートルもの遺跡には、かつての壮大な王宮の痕跡をとどめる建造物が展開していた。あらゆる民族を迎え入れるという意味を持つ「万国の門」は4本の石柱が残り、一対の牡牛像と人面有翼獣身像に圧倒された。ペルシャ王に謁見するためにやって来たさまざまな民族の姿を刻んだレリーフの階段を挟んで「謁見の間」や「百柱の間」などが往時のスケールを偲ばせる。帝国の繁栄を支えた「王の道」や「カナート」と呼ばれる沙漠の灌漑施設にも驚きを誘った。
 イラン高原の中ほどのオアシス都市、イスファンにあるイマーム広場も世界遺産だ。16世紀にアッバース1世が手がけ何十年もかけて建造されたという。豪華な宮殿やモスクとともに幅500メートを超す回廊には、みやげ物屋が軒を並べ、時の経つのを忘れるほどだった。
 イスファンを南北に貫くイスィー・オ・セ橋は1602年に完成した名橋。「スィー・オ・セ」とは33を意味し、橋上部のアーチが33あり、長さは300メートル。車は進入禁止で、いつも人通りが絶えない。
 さらにアケメネス朝が起こったシーラーズはバラと詩人で知られるファールス州の都だ。旅に携えた『ペルシャの詩人』(蒲生礼一著、1964年、紀伊國屋新書)に紹介されたサアディーとハーフィズを輩出した土地で、廟を訪ねた。

先入観を覆す親日的で穏やかな国民性
 革命後のイランについて、私は政治的自由度の不十分さや、宗教政権の不明朗性、高い失業率、インフレ率など、現状に批判的な声も耳にしていた。欧米の民主主義のように平和的で健全な自浄作用をもっているのかどうか、という点になると、正直、疑問を感じざるをえないのも事実だ。しかし観光地や街頭で多くの笑顔に触れ、一緒に写真を撮りたいと申し出てくるイラン人が多く、とても親日的だった。
 アメリカは、オバマ政権時代にイランと関係改善を図り、2015年にはイランの核開発を大幅に制限する見返りに、経済制裁の解除で合意した。ところが、2018年5月にトランプ大統領が合意から一方的に離脱し、再び経済制裁を科した。バイデン大統領になって、間接的に対話が進められていたが、2025年にトランプ大統領が再選され、自身によるSNSへの投稿で「われわれの今後の合意ではいかなるウラン濃縮も認めない」としていて、またまた関係改善は仕切り直しとなっている。
 近隣のイスラエルとの関係も不穏な情勢だ。1948年建国のイスラエルと、イランとの対立は1979年のイランでのイスラム革命が起源だ。革命で打倒された親米のパーレビ王政は、同じく米国を後ろ盾とするイスラエルと良好な関係を築き、諜報でも協力してきた。
 しかしイスラム革命で関係は劇的に変化した。イランの革命体制は、イスラエルをイスラム教の聖地エルサレムを占領した敵とみなし、存在も否定する。2024年になってスラエルとパレスチナ自治区ガザ地区におけるハマスとの軍事衝突に絡み、初めて抗戦する事態となった。
 シリアの首都ダマスカスにあるイラン大使館領事部に対する攻撃をめぐり、イランはイスラエルが実行したとして報復攻撃を行った。その後、イスラエルがわずか数日後にイランに報復したが、衝突の拡大には至らなかった。
 イランから帰国後、イランを巡る動向に関心を寄せている。イランでは飲酒ご法度、快楽・世俗主義を排していた。しかしインターネットの規制もなく、衛星テレビを見ることも黙認されている。アメリカを敵視する政治の方針とは裏腹に、国民生活の西欧化が急テンポに進んでいるのも現状だ。
 遠い国と思っていたイランが遠いけれども近い国になった。そんな思いを抱いた旅であった。