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17人のうち江戸時代、及びそれから明治にかけて生きた人はすべて寺子屋育ちということが分かりました。まずその人たちから紹介します。
最初は細井平洲(1728~1802)です。東海市荒尾の出身。寺子屋は観音寺。
上杉鷹山の先生で、聖君の師と言われました。尾張藩藩校の明倫堂の校長でもありました。民の誠こそ仁の里をつくる。これが細井の思想です。この思想を寺子屋で学びました。やがて「藩主民の父母」論を唱え、農民を主人公にした藩政改革を推進します。みんなの幸せづくりは農民を主人公にすることだと言って。この思想はすばらしい。これこそが細井をして儒学史上空前の思想家にしたと思います。
次は盛田命祺(1816~1895)と溝口幹(1852~1933)です。盛田命祺は常滑市小鈴谷の出身で、寺子屋は美浜町の大仙寺。そして溝口幹は盛田命祺から菩薩道を学びました。
盛田命祺は盛田酒造の当主でしたが大庄屋でもありました。庄屋という関係もあって盛田は大仙寺で学んだみんなで幸せになろうの菩薩道を実践します。村民とともに生きてこそ庄屋。貧民救済や道路建設に勤めました。その中でも一番の功績は、私費で鈴渓義塾をつくり村民に教育をほどこした点です。溝口幹は盛田命祺に請われ鈴渓義塾の校長になりますが、盛田命祺のこの菩薩道の薫陶に応え、菩薩道を実践して村を「徳香る郷」にしました。
次は音吉(1819~1867)です。美浜町小野浦の出身。寺子屋は良参寺。
音吉は尾州廻船宝順丸の水主として乗り込み、台風に遭い1年半も漂流して北アメリカに漂着しイギリス船に救助されますが、鎖国を理由に、帰国はゆるされない理不尽な扱いを受けます。しかし、屈せず、菩薩道に生き、菩薩道で隣人愛を理解し、日本初の和訳聖書を完成させます。そして真実の自由往来と自由貿易の道を開くために、日英和親条約の締結に尽力しました。
次は櫻井敬徳(1834~1889)です。常滑市西阿野の出身。寺子屋は高讃寺。
音吉は尾州廻船宝順丸の水主として乗り込み、台風に遭い1年半も漂流して北アメリカに漂着しイギリス船に救助されますが、鎖国を理由に、帰国はゆるされない理不尽な扱いを受けます。しかし、屈せず、菩薩道に生き、菩薩道で隣人愛を理解し、日本初の和訳聖書を完成させます。そして真実の自由往来と自由貿易の道を開くために、日英和親条約の締結に尽力しました。
最後は森田萬右衛門(1852~1934)です。武豊町冨貴の出身。寺子屋は円観寺。
森田萬右衛門は円観寺の寺子屋で、杉浦旭順法印の思想を学びました。令法久住の思想を。令法久住とはお釈迦さんの真実の思想を伝えることです。釈迦はみんなの幸せを願って、共存の菩薩道を説きました。杉浦旭順法印はこの思想でもって富貴村をよくします。森田萬右衛門はこの杉浦の思想に感動し、この教えに応えます。全村学校を開いたり、農法を科学的にしたりして。たとえば、二毛作の研究はもとより、農道と灌漑施設を整備し、農作業をしやすくしたり、若者を後継者として育てたりしました。しかし国の戦争政策のために、若者は戦争に取られていきます。村起こしは出来なくなり、村は荒廃します。森田はどんなにか悔しかったことでしょう。
寺子屋関係は以上です。それにしても傑物ばかりでしたね。明治以降にも菩薩道で頑張った人は多くいます。そのお話は来年の4月号までお待ちください。
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17人のうち江戸時代、及びそれから明治にかけて生きた人はすべて寺子屋育ちということが分かりました。まずその人たちから紹介します。
最初は細井平洲(1728~1802)です。東海市荒尾の出身。寺子屋は観音寺。
上杉鷹山の先生で、聖君の師と言われました。尾張藩藩校の明倫堂の校長でもありました。民の誠こそ仁の里をつくる。これが細井の思想です。この思想を寺子屋で学びました。やがて「藩主民の父母」論を唱え、農民を主人公にした藩政改革を推進します。みんなの幸せづくりは農民を主人公にすることだと言って。この思想はすばらしい。これこそが細井をして儒学史上空前の思想家にしたと思います。
次は盛田命祺(1816~1895)と溝口幹(1852~1933)です。盛田命祺は常滑市小鈴谷の出身で、寺子屋は美浜町の大仙寺。そして溝口幹は盛田命祺から菩薩道を学びました。
盛田命祺は盛田酒造の当主でしたが大庄屋でもありました。庄屋という関係もあって盛田は大仙寺で学んだみんなで幸せになろうの菩薩道を実践します。村民とともに生きてこそ庄屋。貧民救済や道路建設に勤めました。その中でも一番の功績は、私費で鈴渓義塾をつくり村民に教育をほどこした点です。溝口幹は盛田命祺に請われ鈴渓義塾の校長になりますが、盛田命祺のこの菩薩道の薫陶に応え、菩薩道を実践して村を「徳香る郷」にしました。
次は音吉(1819~1867)です。美浜町小野浦の出身。寺子屋は良参寺。
音吉は尾州廻船宝順丸の水主として乗り込み、台風に遭い1年半も漂流して北アメリカに漂着しイギリス船に救助されますが、鎖国を理由に、帰国はゆるされない理不尽な扱いを受けます。しかし、屈せず、菩薩道に生き、菩薩道で隣人愛を理解し、日本初の和訳聖書を完成させます。そして真実の自由往来と自由貿易の道を開くために、日英和親条約の締結に尽力しました。
次は櫻井敬徳(1834~1889)です。常滑市西阿野の出身。寺子屋は高讃寺。
音吉は尾州廻船宝順丸の水主として乗り込み、台風に遭い1年半も漂流して北アメリカに漂着しイギリス船に救助されますが、鎖国を理由に、帰国はゆるされない理不尽な扱いを受けます。しかし、屈せず、菩薩道に生き、菩薩道で隣人愛を理解し、日本初の和訳聖書を完成させます。そして真実の自由往来と自由貿易の道を開くために、日英和親条約の締結に尽力しました。
最後は森田萬右衛門(1852~1934)です。武豊町冨貴の出身。寺子屋は円観寺。
森田萬右衛門は円観寺の寺子屋で、杉浦旭順法印の思想を学びました。令法久住の思想を。令法久住とはお釈迦さんの真実の思想を伝えることです。釈迦はみんなの幸せを願って、共存の菩薩道を説きました。杉浦旭順法印はこの思想でもって富貴村をよくします。森田萬右衛門はこの杉浦の思想に感動し、この教えに応えます。全村学校を開いたり、農法を科学的にしたりして。たとえば、二毛作の研究はもとより、農道と灌漑施設を整備し、農作業をしやすくしたり、若者を後継者として育てたりしました。しかし国の戦争政策のために、若者は戦争に取られていきます。村起こしは出来なくなり、村は荒廃します。森田はどんなにか悔しかったことでしょう。
寺子屋関係は以上です。それにしても傑物ばかりでしたね。明治以降にも菩薩道で頑張った人は多くいます。そのお話は来年の4月号までお待ちください。