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「潮の匂いに包まれながら 砂に埋れて眠りたい…鳥取砂丘の道は迷い道」。水森かおりの哀調を帯びた「鳥取砂丘」のヒット曲を聴くたびに、鳥取で過ごした2年足らずのことを思い出す。単身赴任で期間も短く、生活したというより、長期滞在の旅だった感もある。鳥取と言えば砂丘。この地で出会った遠山正瑛・鳥取大学名誉教授(2004年死去)のことは忘れられない。「鳥取のシンボル砂丘は死にかかっている。人の手で再生を図らなければならない」と訴えていた。私は在任中も、その後も、鳥取砂丘の保存に関わることになった。
無数の足跡の間にうっすらと波打つ風紋
鳥取砂丘については、青春時代の思い出がよぎる。「浜坂の遠き砂丘の中にして 佗びしき我を見出でつるかな」。作家の有島武郎は1923年(大正12年)、鳥取砂丘に立って、遂に侘しき我を見いだし、同年6月9日軽井沢浄月庵で人妻秋子と情死する。鳥取砂丘を浮上させた彼の人生最後の山陰講演旅行での一首となった。
文学好きだった私が有島の旅を偲び、初めて鳥取砂丘を訪れたのは60年以上も前の大学2年の春だった。友人と競い息せききって砂山を駆け登った。風の強い日だった。無数の足跡の間にうっすらと波打つ風紋が美しい。眼下に目をやると夕陽に映える砂丘が広がり。遠くに目をやると日本海の海原が続く。雄大な自然を強く印象づけられた。
それから20数年経った1989年秋、私は朝日新聞鳥取支局長として着任した。冒頭に記した遠山さんの言葉に刺激されたこともあって、数日後に砂丘高台の長者ヶ庭に立ってみた。
日本海の青さが目にしみたが、陸地側に目を転じた時、保安林や草地の緑が目立ち、砂丘の広漠さが失われていた。学術文化財天然記念物で鳥取の代名詞ともいえる砂丘。その砂丘のイメージが変容してしまっては……との感慨を深めたのだった。
その後も遠山さんは、予告なしに支局にふらっと現れては熱っぽく砂丘保存を訴えた。「砂丘は自然に生まれ、自然に育ってきた。しかし砂防林や砂防ダムが砂や風の動きを止め、呼吸を困難にしている」「補助金目当ての役人行政、おんぶにだっこの県民性。保守的なお国柄も考え直さにゃならん。砂丘の自然保護と自然放任とを取り違えている“寝たきり青年〟はいつになったら目覚めるのか。目覚めさせるのは老人の責務である」。そしてこう断言した。「このままでは砂丘は死ぬ」。
MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
国民的財産ともいえる「鳥取砂丘」を再考
中国の黄河流域の黄土沙漠の緑化に取り組んでいた遠山さんが、あえて砂丘保存を訴える言葉に、私の心は動かされた。それではどうすれば砂丘を再生できるのか――。単に砂防林を伐採したり、草を根こそぎ除去すれば済む問題ではない。支局で論議を重ね、鳥取砂丘を1990年の年間テーマとして取り上げることにした。
「地球規模での砂漠化が課題になっている時に、緑化が困るとは」「自然保護が叫ばれている時に人の手を加えるとは」……。砂丘保存には逆説的な問いかけがあった。そして何より21世紀まで残すところ10年になっていたこの時期に、「砂丘の明日」を考える材料を読者に提供しよう、との位置付けがなされた。
連載は1990年正月元日の特集紙面でスタート。支局員のほとんどが入社して間もない記者だったが、「事件の少ない鳥取で、共通の仕事と思い出を残そう」と励ましあって、第十部まで回を重ねた。
連載の第一部は「日本一の起伏」と題して総論的な問題提起をした。その後、観光の現状や砂丘にまつわる事件簿、砂丘を舞台にした文学や絵画、写真、マンガなど表現の世界、開拓者の闘いと夢……と多面的に取り上げた。しかし記者の目を通してとらえてきた砂丘について、県民はどう考えているのかの視点が必要に思えた。
その一環として「鳥取砂丘をめぐる県民意識調査」も実施した。600人を抽出し469人から回答を得た。回収率は83%。その結果、「鳥取砂丘は県民の貴重な財産」が91%、しかしその姿について「昔と変わらない」がわずか2%。砂丘保護について「県や地元の市、村が取り組んでいる」が23%、国は11%に過ぎなかった。県民の間にも、「保存対策が急務だ」の声の高まりを痛感した。
新聞の連載は最後にまとめて読まれることによって、問題提起の全体像が明確になる。といっても読者はそうした読み方はしてくれない。連載時から「ぜひまとめて出版したい」と考えていた。
その3年後の1993年、地方文化に理解のあった富士書店から『鳥取砂丘』が刊行された。私は金沢支局長に転任していたが、連載を抜粋したものに、当時の支局員の大村康久記者が新たに取材し直した。
その序文に、私は「この出版が県民にとってあまりにも身近にあって、ともすれば空気みたいな存在になりがちな砂丘を改めて見直すお役に立てば幸いです」といった一文を寄せた。
遠山さんの問題提起によって、私が提唱していた「砂かけフォーラム」は、鳥取青年会議所も動き、離任後に実現した。私は、国民的財産ともいえる砂丘の在り方を考える材料を提供できたと確信している。
画期的な「砂の美術館」が新観光名所に
時を経て2006年11月、鳥取砂丘を背景に砂像を展示するプロジェクト「砂の美術館」がスタートした。野外展示に始まり、大型テント内の展示を経て、2012年に世界初の砂像専門屋内展示施設が誕生し、新観光名所として現在に至っている。
砂像彫刻家兼プロデューサーとして国内外で活躍している茶圓(ちゃえん)勝彦氏が総合プロデュースを務め、海外各国から砂像彫刻家を招き、毎年世界最高レベルの砂像を展示している。会期が終われば作品を全て崩してもとの砂に戻し、再びその砂を使用して新たな作品を制作する。
限られた期間しか存在することができない砂像。その儚くも美しい造形を創り上げる為に、砂像彫刻家は情熱を注ぎ込むのだ。 永遠に残らないがゆえの美しさが、砂像のもつ大きな魅力となっている。
「砂で世界旅行」をコンセプトとして、定期的にテーマを変えて展示を行なってきた。そして現在は2026年1月4日まで第16期展示「砂で世界旅行・日本」を開催している。「大阪・関西万博」の開催にあわせて、12 か国・20人の彫刻家たちが「日本」の風景や建築物などを題材に制作した19点が展示されている。
このうち、幅およそ20メートル、高さ5メートルほどの大きな作品は、雄大な富士山の両脇に精巧な姫路城と清水寺が配置され日本の景勝地を並べて見ることができる。また、京都の「平等院鳳凰堂」を形づくったものは、国宝の本尊・阿弥陀如来坐像も緻密に再現されていて、張られている水に建物が反射して浮かび上がる。
気の遠くなるような年月を経て作り出された、自然の造形美である「鳥取砂丘」。その広さは東西16キロ・南北2.4キロに及ぶ。特別保護地区であり、国の天然記念物にも指定されている。こうしたかけがえのない砂丘を次代へ継承していかなくてはと願う。「鳥取砂丘」の道を「迷い道」にしてはならない。
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「潮の匂いに包まれながら 砂に埋れて眠りたい…鳥取砂丘の道は迷い道」。水森かおりの哀調を帯びた「鳥取砂丘」のヒット曲を聴くたびに、鳥取で過ごした2年足らずのことを思い出す。単身赴任で期間も短く、生活したというより、長期滞在の旅だった感もある。鳥取と言えば砂丘。この地で出会った遠山正瑛・鳥取大学名誉教授(2004年死去)のことは忘れられない。「鳥取のシンボル砂丘は死にかかっている。人の手で再生を図らなければならない」と訴えていた。私は在任中も、その後も、鳥取砂丘の保存に関わることになった。
無数の足跡の間にうっすらと波打つ風紋
鳥取砂丘については、青春時代の思い出がよぎる。「浜坂の遠き砂丘の中にして 佗びしき我を見出でつるかな」。作家の有島武郎は1923年(大正12年)、鳥取砂丘に立って、遂に侘しき我を見いだし、同年6月9日軽井沢浄月庵で人妻秋子と情死する。鳥取砂丘を浮上させた彼の人生最後の山陰講演旅行での一首となった。
文学好きだった私が有島の旅を偲び、初めて鳥取砂丘を訪れたのは60年以上も前の大学2年の春だった。友人と競い息せききって砂山を駆け登った。風の強い日だった。無数の足跡の間にうっすらと波打つ風紋が美しい。眼下に目をやると夕陽に映える砂丘が広がり。遠くに目をやると日本海の海原が続く。雄大な自然を強く印象づけられた。
それから20数年経った1989年秋、私は朝日新聞鳥取支局長として着任した。冒頭に記した遠山さんの言葉に刺激されたこともあって、数日後に砂丘高台の長者ヶ庭に立ってみた。
日本海の青さが目にしみたが、陸地側に目を転じた時、保安林や草地の緑が目立ち、砂丘の広漠さが失われていた。学術文化財天然記念物で鳥取の代名詞ともいえる砂丘。その砂丘のイメージが変容してしまっては……との感慨を深めたのだった。
その後も遠山さんは、予告なしに支局にふらっと現れては熱っぽく砂丘保存を訴えた。「砂丘は自然に生まれ、自然に育ってきた。しかし砂防林や砂防ダムが砂や風の動きを止め、呼吸を困難にしている」「補助金目当ての役人行政、おんぶにだっこの県民性。保守的なお国柄も考え直さにゃならん。砂丘の自然保護と自然放任とを取り違えている“寝たきり青年〟はいつになったら目覚めるのか。目覚めさせるのは老人の責務である」。そしてこう断言した。「このままでは砂丘は死ぬ」。
国民的財産ともいえる「鳥取砂丘」を再考
中国の黄河流域の黄土沙漠の緑化に取り組んでいた遠山さんが、あえて砂丘保存を訴える言葉に、私の心は動かされた。それではどうすれば砂丘を再生できるのか――。単に砂防林を伐採したり、草を根こそぎ除去すれば済む問題ではない。支局で論議を重ね、鳥取砂丘を1990年の年間テーマとして取り上げることにした。
「地球規模での砂漠化が課題になっている時に、緑化が困るとは」「自然保護が叫ばれている時に人の手を加えるとは」……。砂丘保存には逆説的な問いかけがあった。そして何より21世紀まで残すところ10年になっていたこの時期に、「砂丘の明日」を考える材料を読者に提供しよう、との位置付けがなされた。
連載は1990年正月元日の特集紙面でスタート。支局員のほとんどが入社して間もない記者だったが、「事件の少ない鳥取で、共通の仕事と思い出を残そう」と励ましあって、第十部まで回を重ねた。
連載の第一部は「日本一の起伏」と題して総論的な問題提起をした。その後、観光の現状や砂丘にまつわる事件簿、砂丘を舞台にした文学や絵画、写真、マンガなど表現の世界、開拓者の闘いと夢……と多面的に取り上げた。しかし記者の目を通してとらえてきた砂丘について、県民はどう考えているのかの視点が必要に思えた。
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
その一環として「鳥取砂丘をめぐる県民意識調査」も実施した。600人を抽出し469人から回答を得た。回収率は83%。その結果、「鳥取砂丘は県民の貴重な財産」が91%、しかしその姿について「昔と変わらない」がわずか2%。砂丘保護について「県や地元の市、村が取り組んでいる」が23%、国は11%に過ぎなかった。県民の間にも、「保存対策が急務だ」の声の高まりを痛感した。
新聞の連載は最後にまとめて読まれることによって、問題提起の全体像が明確になる。といっても読者はそうした読み方はしてくれない。連載時から「ぜひまとめて出版したい」と考えていた。
その3年後の1993年、地方文化に理解のあった富士書店から『鳥取砂丘』が刊行された。私は金沢支局長に転任していたが、連載を抜粋したものに、当時の支局員の大村康久記者が新たに取材し直した。
その序文に、私は「この出版が県民にとってあまりにも身近にあって、ともすれば空気みたいな存在になりがちな砂丘を改めて見直すお役に立てば幸いです」といった一文を寄せた。
遠山さんの問題提起によって、私が提唱していた「砂かけフォーラム」は、鳥取青年会議所も動き、離任後に実現した。私は、国民的財産ともいえる砂丘の在り方を考える材料を提供できたと確信している。
画期的な「砂の美術館」が新観光名所に
時を経て2006年11月、鳥取砂丘を背景に砂像を展示するプロジェクト「砂の美術館」がスタートした。野外展示に始まり、大型テント内の展示を経て、2012年に世界初の砂像専門屋内展示施設が誕生し、新観光名所として現在に至っている。
砂像彫刻家兼プロデューサーとして国内外で活躍している茶圓(ちゃえん)勝彦氏が総合プロデュースを務め、海外各国から砂像彫刻家を招き、毎年世界最高レベルの砂像を展示している。会期が終われば作品を全て崩してもとの砂に戻し、再びその砂を使用して新たな作品を制作する。
限られた期間しか存在することができない砂像。その儚くも美しい造形を創り上げる為に、砂像彫刻家は情熱を注ぎ込むのだ。 永遠に残らないがゆえの美しさが、砂像のもつ大きな魅力となっている。
「砂で世界旅行」をコンセプトとして、定期的にテーマを変えて展示を行なってきた。そして現在は2026年1月4日まで第16期展示「砂で世界旅行・日本」を開催している。「大阪・関西万博」の開催にあわせて、12 か国・20人の彫刻家たちが「日本」の風景や建築物などを題材に制作した19点が展示されている。
このうち、幅およそ20メートル、高さ5メートルほどの大きな作品は、雄大な富士山の両脇に精巧な姫路城と清水寺が配置され日本の景勝地を並べて見ることができる。また、京都の「平等院鳳凰堂」を形づくったものは、国宝の本尊・阿弥陀如来坐像も緻密に再現されていて、張られている水に建物が反射して浮かび上がる。
気の遠くなるような年月を経て作り出された、自然の造形美である「鳥取砂丘」。その広さは東西16キロ・南北2.4キロに及ぶ。特別保護地区であり、国の天然記念物にも指定されている。こうしたかけがえのない砂丘を次代へ継承していかなくてはと願う。「鳥取砂丘」の道を「迷い道」にしてはならない。