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「ちたから見た日本仏教-菩薩道物語-」何でこんなテーマで話をしようと思ったかというと、私は「ちたの哲学者たち」ということで、ちたの哲学者の発掘につとめてきましたが、その中で菩薩道のすばらしさが見えてきたからです。これが根本的理由です。
その前に、なぜ私がちたの哲学者の発掘に関心を持ったかというと、皆さんは仏教の深い思想に導かれてということを想定されるかもしれませんが、そうではなく、人間としての道を求めてのことでした。長い話になりますが、このことから始めます。
私は大同高校の教師をしていましたが、いい教師ではありませんでした。もちろんチャランポラン教師であったというわけではありません。私が理想と思う、生徒が学んで自己陶冶していく教育が実践できなかったことによります。
生徒の希望に応える教育、工業高校といえども大学に通じる教育を目指したり、「学校は勉強する所であって、暴れる所ではないぞ」、「学校を出たらしっかり働けるように勉強しよう」などと言って、勉強好きにさせる中で、この当時盛んであった校内力を克服しつつ、あわせて自己陶冶の教育をめざしましたが、頑張ったけれど、挫折することになったからです。投書をしたり、論文を書いたりして自らを反省しつつ努力をしましたが、うまくいかず挫折をしたのでした。
この挫折を、生徒のせいにしたり他人のせいにするわけにはいきません。これをしたら反省できなくなるからです。自らの問題として考えました。自分のいたらなさを哲学として解明する、苦しい日々となりました。
私は大学、大学院でヘーゲルを研究してきましたが、哲学としてはよく理解はできなかったのです。普遍的理性において社会的正義を実現していくことが大切だとか、その土台として、自己意識において自らを陶冶させることが大事だということは分かりましたが、それがなぜ哲学なのかは分からなかった。だから、ヘーゲル、ヘーゲルと言っているばかりでした。
しかし、そうこうしているうちに、聖人の思想が大切と言われるようになりました。そし聖人の思想を哲学の始祖にしようと言う人まで出て来ました。聖人とはイエス、釈迦、孔子、ソクラテスのことです。早速勉強しました。
イエスは隣人愛の心で、釈迦は慈悲の心で、孔子は恕の心で、ソクラテスは善の心で共存することが大切だと説いていることが分かりました。人間は個として生きるので、どうしてもジコチュウになり、共存しようとして共存できないでいる。そこで聖人たちは、自分だけの幸せでなくみんなが幸せになる道を開く中で共存しようと説いたことが分かりました。思いやりの心を育て、みんなで幸せになろうと言うのでした。
その心こそは、隣人愛の心であり、慈悲の心、恕の心、善の心なのだと。
私は大同高校で挫折したと言いましたが、私は聖人の思想に触れる中で、ひとりよがりの自己犠牲的精神において教育をしていたことに気づきました。自己補習をしたりして頑張りましたが、やがて孤立して挫折したのだと。
聖人の思想は端的に言えば隣人愛ですが、この心を教師たちと共有して取り組むべきだったと反省しました。私がやろうとした教育は決して間違いではないのですから。こんな反省から、隣人愛の思想を深く勉強し直そうと思ったのでした。
(次号へつづく)
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その前に、なぜ私がちたの哲学者の発掘に関心を持ったかというと、皆さんは仏教の深い思想に導かれてということを想定されるかもしれませんが、そうではなく、人間としての道を求めてのことでした。長い話になりますが、このことから始めます。
私は大同高校の教師をしていましたが、いい教師ではありませんでした。もちろんチャランポラン教師であったというわけではありません。私が理想と思う、生徒が学んで自己陶冶していく教育が実践できなかったことによります。
生徒の希望に応える教育、工業高校といえども大学に通じる教育を目指したり、「学校は勉強する所であって、暴れる所ではないぞ」、「学校を出たらしっかり働けるように勉強しよう」などと言って、勉強好きにさせる中で、この当時盛んであった校内力を克服しつつ、あわせて自己陶冶の教育をめざしましたが、頑張ったけれど、挫折することになったからです。投書をしたり、論文を書いたりして自らを反省しつつ努力をしましたが、うまくいかず挫折をしたのでした。
この挫折を、生徒のせいにしたり他人のせいにするわけにはいきません。これをしたら反省できなくなるからです。自らの問題として考えました。自分のいたらなさを哲学として解明する、苦しい日々となりました。
私は大学、大学院でヘーゲルを研究してきましたが、哲学としてはよく理解はできなかったのです。普遍的理性において社会的正義を実現していくことが大切だとか、その土台として、自己意識において自らを陶冶させることが大事だということは分かりましたが、それがなぜ哲学なのかは分からなかった。だから、ヘーゲル、ヘーゲルと言っているばかりでした。
しかし、そうこうしているうちに、聖人の思想が大切と言われるようになりました。そし聖人の思想を哲学の始祖にしようと言う人まで出て来ました。聖人とはイエス、釈迦、孔子、ソクラテスのことです。早速勉強しました。
イエスは隣人愛の心で、釈迦は慈悲の心で、孔子は恕の心で、ソクラテスは善の心で共存することが大切だと説いていることが分かりました。人間は個として生きるので、どうしてもジコチュウになり、共存しようとして共存できないでいる。そこで聖人たちは、自分だけの幸せでなくみんなが幸せになる道を開く中で共存しようと説いたことが分かりました。思いやりの心を育て、みんなで幸せになろうと言うのでした。
その心こそは、隣人愛の心であり、慈悲の心、恕の心、善の心なのだと。
私は大同高校で挫折したと言いましたが、私は聖人の思想に触れる中で、ひとりよがりの自己犠牲的精神において教育をしていたことに気づきました。自己補習をしたりして頑張りましたが、やがて孤立して挫折したのだと。
聖人の思想は端的に言えば隣人愛ですが、この心を教師たちと共有して取り組むべきだったと反省しました。私がやろうとした教育は決して間違いではないのですから。こんな反省から、隣人愛の思想を深く勉強し直そうと思ったのでした。
(次号へつづく)