MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 ロシアのウクライナ侵攻は長期戦となった。ウクライナのNATO加入問題に端を発しエスカレートしてしまった。いかなる理由があっても武力行使は許されない。しかし国連など外交での解決策は見い出せず、ここに至ったことは嘆かわしい。いまや世界を敵に回した感のロシアに一度だけ旅したことがあった。1956年の日ソ共同宣言から日露国交回復50周年の記念にあたる2006年9月に、エルミタージュとプーシキン美術館を中心とした美術紀行だった。しかし何より1991年12月にソビエト連邦が崩壊した後の国情を見たかった。そのロシアへの旅から約20年の歳月が流れたが、当時危惧していた民主主義とはいえない政治体制によって、かつての連邦国を爆撃する暴挙が現実となった。旅のリポートとともに、私がロシアに抱いてきた経緯や感懐を書きとどめておこう。

ロシア帝政から革命、波乱の歴史
 思えば1963年に四国の片田舎から上京し入学した大学では、不穏な空気が流れていた。60年安保を経て70年安保への闘争が続く。大学構内にはスローガンの掲げた立て看板が並び、デモ活動も日常的だった。何度か学生会館の自主運営の集会にも出たが、デモなどの学生運動には距離を置いていた。
 しかし私には当時、アメリカがベトナム戦争をエスカレートさせたため、資本主義=帝国主義といった受けとめで、反戦や「安保反対」の思いが膨らんだ。資本主義は18ー19世紀、封建社会から「自由と競争」の価値観のもとに進歩的な役割を担った。ところが20世紀に入って、人間が人間を搾取する矛盾や貧富の不平等が噴出した。
 「資本主義から社会主義への移行は歴史的必然だ」といったマルクス・レーニン主義は、社会の貧富を解消する新たな経済システムとして、私なりに理解した。大学卒業後、新聞社に入った私は、世界の動きをリアルタイムで知ることができた。国際情勢は複雑で、混迷を深めていた。
 東欧で市民革命が相次ぎ、ベルリンの壁の崩壊、ハンガリー動乱、プラハの春……と続いた。そして20世紀末、ソビエト連邦型の社会主義が挫折したのだ。統制経済の破綻や一党独裁に対する不満が要因だった。
 世界を旅していつも念頭にあったのは、同じ一つの地球に暮らしていながら、生まれた国の政治体制が人々の生活に重くのしかかっていることだ。いつか私たちと政治体制の異なる社会主義の国をこの目で確認したいと思い続けていた。
宮殿だったエルミタージュ美術館
 初めて訪れたロシアは、ソウル経由でサンクトペテルブルクへ。街なかをネヴァ川がゆったりと流れ、「北のベニス」とも呼ばれる美しい土地だ。約300年前、ピョートル大帝によって築かれた比較的新しい都のあった所だが、革命や戦争の悲しい歴史の中で、その地名をサンクトペテルブルグからペトログラード、レニングラード、そして由緒ある元の地名に戻った。
 ネヴァ川に沿って立地するエルミタージュ美術館は、川面に淡い緑と白い壁面を映し建物が絵になる美しさだ。美の殿堂は、冬宮(ロマノフ王朝歴代の皇帝の正規の宮殿)を中心に小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場の5つの建物で構成され、400を超える展示室があり、所蔵作品は300万点にも及ぶという。
 エルミタージュ美術館は、歴代皇帝の居住地であり、この宮殿が美術館となるきっかけになったのは、18世紀半ば、女帝のエカテリーナ2世がベルリンの画商から220点ほどの絵画を買い入れたことに始まる。フランス語で「隠れ家」を意味する「エルミタージュ」という名称もそれに由来すると思われた。女帝の「名画を鑑賞しているのは私とネズミだけ」といった言葉が残っているほどだ。
 以来、王家の収集品は、ナポレオン軍を撃退してからはフランスのほか、オランダ、スペイン、イタリアからも買い増しをした。1917年のロシア革命後には、貴族や富豪の持っていた収集品も没収し美術館の所蔵品となった。
 サンクトペテルブルクでは、エルミタージュ美術館のほか、ピョートル大帝夏の宮殿や聖イサアク大聖堂、郊外にあるエカテリーナ宮殿も見学した。ここは大黒屋光太夫がエカテリーナⅡ世に謁見し、2006年春のサミットでレセプションが催された所だ。
 金箔に輝く宮殿などロシア・バロック様式の豪壮華麗さを確認すると同時に、一方でロシア帝政の権力の横暴ぶりを実感したのだった。同行した朝日新聞社時代の先輩が「これでは革命が起こるのも当然だ」と、もらした言葉に同感した。

華やかな建物群に権威主義の印象
 サンクトペテルブルクからモスクワへは列車で移動した。約650キロ、8時間の列車旅で、広い大地を車窓にロシア革命史を読んだ。1917年の十月革命は、初の社会主義革命として世界史上重要な意義を持った。レーニン、トロツキーらの革命指導のもと、「労働者と農民の政権を樹立する」という理論通りに事を進めたのであった。
 ところが革命後の現実は、理論と異なった。土地を得た農民が保守化し、革命の進展を望まなくなった。労働者にとって「土地を持った農民は敵ではないのか」という疑問が生じた。スターリンは「すべての農民は公有農場で働く労働者でなければならない」と、集団化を強行して再び農民から土地を奪った。
 モスクワは想像通りの歴史都市だった。赤の広場にレーニン廟があったが、休日でのぞけなかった、広場をはさんで赤い城壁の向こうがクレムリンで、手前に高級ブティックのグム百貨店があった。アンバランスではあるものの、繁栄ぶりを誇示しているような光景に映った。
 プーシキン美術館はクレムリンの赤の広場から歩いて30分足らず行くことができた。壮麗な外観を誇る名建築に一大コレクションが詰まっていた。1912年にモスクワ大学付属の美術館を公共化させる目的で開設されたという。1937年にモスクワ出身の詩人プーシキンの名前を冠して改称された。
 モスクワの地下鉄駅の華麗さには驚かされた。地下鉄は大まかにいって環状線と、放射線状に郊外に散らばって行く路線から構成されている。長くて速度の速いエスカレーターをどんどんと下りて行くと、アーチ状の地下宮殿のような豪華絢爛なホームが現れる。モザイクの壁画や天井絵にうっとりする。いくつかの駅頭に降り、鑑賞して回った。
 モスクワでは地下鉄を乗り継いで、スクワ大学をはじめスモーリヌイ修道院、トロイツカヤ塔などの名所を見学した。街中の露天所の土産物屋なども散策し、名物のマトリューシカ人形を買った。マトリューシカには歴代大統領の顔を模したものもあり、見ているだけでも楽しい。
 モスクワを去る前夜、夕食後に民族芸能が披露され、メンバーの人たちとも楽しく懇親ができた。「またの日、お会いしましょう」と、ともに笑顔で握手をしたのが懐かしい。寒い国での温かいもてなし。国際社会は、国境や言葉の違いとは別に「共に生きる社会」なのだ。そして未来を担う子どもたちは尊い。レストランを出ると、暗闇の中に幼い子が佇んでいた。あの日から約20年、あの子はまさか戦場に行っていないことを祈りたい。
 初めての訪問で好印象を持ったロシアだったが、近年の動向に失望した。連日のように、ウクライナにロシアからの爆撃の様子が報道される。この間、長引けばそれだけ市民の生命や生活が犠牲になっていることに心が痛む。やがて戦いを終え、戦後になっても、戦争による多くの国民の犠牲に対し、生き残った人や国外に避難した者たちの憎しみは消すことができず、子孫へと引き継がれる。ロシア軍は人々の心まで侵すことはできない。歴史の教訓を無視していることが何より悲劇だ。
Copyright©2003-2025 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
■この指とまれ
■PDFインデックス
■ちょっとおじゃまします                   
■元気の出てくることばたち
  ロシアのウクライナ侵攻は長期戦となった。ウクライナのNATO加入問題に端を発しエスカレートしてしまった。いかなる理由があっても武力行使は許されない。しかし国連など外交での解決策は見い出せず、ここに至ったことは嘆かわしい。いまや世界を敵に回した感のロシアに一度だけ旅したことがあった。1956年の日ソ共同宣言から日露国交回復50周年の記念にあたる2006年9月に、エルミタージュとプーシキン美術館を中心とした美術紀行だった。しかし何より1991年12月にソビエト連邦が崩壊した後の国情を見たかった。そのロシアへの旅から約20年の歳月が流れたが、当時危惧していた民主主義とはいえない政治体制によって、かつての連邦国を爆撃する暴挙が現実となった。旅のリポートとともに、私がロシアに抱いてきた経緯や感懐を書きとどめておこう。

ロシア帝政から革命、波乱の歴史
 思えば1963年に四国の片田舎から上京し入学した大学では、不穏な空気が流れていた。60年安保を経て70年安保への闘争が続く。大学構内にはスローガンの掲げた立て看板が並び、デモ活動も日常的だった。何度か学生会館の自主運営の集会にも出たが、デモなどの学生運動には距離を置いていた。
 しかし私には当時、アメリカがベトナム戦争をエスカレートさせたため、資本主義=帝国主義といった受けとめで、反戦や「安保反対」の思いが膨らんだ。資本主義は18ー19世紀、封建社会から「自由と競争」の価値観のもとに進歩的な役割を担った。ところが20世紀に入って、人間が人間を搾取する矛盾や貧富の不平等が噴出した。
 「資本主義から社会主義への移行は歴史的必然だ」といったマルクス・レーニン主義は、社会の貧富を解消する新たな経済システムとして、私なりに理解した。大学卒業後、新聞社に入った私は、世界の動きをリアルタイムで知ることができた。国際情勢は複雑で、混迷を深めていた。
 東欧で市民革命が相次ぎ、ベルリンの壁の崩壊、ハンガリー動乱、プラハの春……と続いた。そして20世紀末、ソビエト連邦型の社会主義が挫折したのだ。統制経済の破綻や一党独裁に対する不満が要因だった。

MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 世界を旅していつも念頭にあったのは、同じ一つの地球に暮らしていながら、生まれた国の政治体制が人々の生活に重くのしかかっていることだ。いつか私たちと政治体制の異なる社会主義の国をこの目で確認したいと思い続けていた。

宮殿だったエルミタージュ美術館
 初めて訪れたロシアは、ソウル経由でサンクトペテルブルクへ。街なかをネヴァ川がゆったりと流れ、「北のベニス」とも呼ばれる美しい土地だ。約300年前、ピョートル大帝によって築かれた比較的新しい都のあった所だが、革命や戦争の悲しい歴史の中で、その地名をサンクトペテルブルグからペトログラード、レニングラード、そして由緒ある元の地名に戻った。
 ネヴァ川に沿って立地するエルミタージュ美術館は、川面に淡い緑と白い壁面を映し建物が絵になる美しさだ。美の殿堂は、冬宮(ロマノフ王朝歴代の皇帝の正規の宮殿)を中心に小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場の5つの建物で構成され、400を超える展示室があり、所蔵作品は300万点にも及ぶという。
 エルミタージュ美術館は、歴代皇帝の居住地であり、この宮殿が美術館となるきっかけになったのは、18世紀半ば、女帝のエカテリーナ2世がベルリンの画商から220点ほどの絵画を買い入れたことに始まる。フランス語で「隠れ家」を意味する「エルミタージュ」という名称もそれに由来すると思われた。女帝の「名画を鑑賞しているのは私とネズミだけ」といった言葉が残っているほどだ。
 以来、王家の収集品は、ナポレオン軍を撃退してからはフランスのほか、オランダ、スペイン、イタリアからも買い増しをした。1917年のロシア革命後には、貴族や富豪の持っていた収集品も没収し美術館の所蔵品となった。
 サンクトペテルブルクでは、エルミタージュ美術館のほか、ピョートル大帝夏の宮殿や聖イサアク大聖堂、郊外にあるエカテリーナ宮殿も見学した。ここは大黒屋光太夫がエカテリーナⅡ世に謁見し、2006年春のサミットでレセプションが催された所だ。
 金箔に輝く宮殿などロシア・バロック様式の豪壮華麗さを確認すると同時に、一方でロシア帝政の権力の横暴ぶりを実感したのだった。同行した朝日新聞社時代の先輩が「これでは革命が起こるのも当然だ」と、もらした言葉に同感した。

華やかな建物群に権威主義の印象
 サンクトペテルブルクからモスクワへは列車で移動した。約650キロ、8時間の列車旅で、広い大地を車窓にロシア革命史を読んだ。1917年の十月革命は、初の社会主義革命として世界史上重要な意義を持った。レーニン、トロツキーらの革命指導のもと、「労働者と農民の政権を樹立する」という理論通りに事を進めたのであった。
 ところが革命後の現実は、理論と異なった。土地を得た農民が保守化し、革命の進展を望まなくなった。労働者にとって「土地を持った農民は敵ではないのか」という疑問が生じた。スターリンは「すべての農民は公有農場で働く労働者でなければならない」と、集団化を強行して再び農民から土地を奪った。
 モスクワは想像通りの歴史都市だった。赤の広場にレーニン廟があったが、休日でのぞけなかった、広場をはさんで赤い城壁の向こうがクレムリンで、手前に高級ブティックのグム百貨店があった。アンバランスではあるものの、繁栄ぶりを誇示しているような光景に映った。
 プーシキン美術館はクレムリンの赤の広場から歩いて30分足らず行くことができた。壮麗な外観を誇る名建築に一大コレクションが詰まっていた。1912年にモスクワ大学付属の美術館を公共化させる目的で開設されたという。1937年にモスクワ出身の詩人プーシキンの名前を冠して改称された。
 モスクワの地下鉄駅の華麗さには驚かされた。地下鉄は大まかにいって環状線と、放射線状に郊外に散らばって行く路線から構成されている。長くて速度の速いエスカレーターをどんどんと下りて行くと、アーチ状の地下宮殿のような豪華絢爛なホームが現れる。モザイクの壁画や天井絵にうっとりする。いくつかの駅頭に降り、鑑賞して回った。
 モスクワでは地下鉄を乗り継いで、スクワ大学をはじめスモーリヌイ修道院、トロイツカヤ塔などの名所を見学した。街中の露天所の土産物屋なども散策し、名物のマトリューシカ人形を買った。マトリューシカには歴代大統領の顔を模したものもあり、見ているだけでも楽しい。
 モスクワを去る前夜、夕食後に民族芸能が披露され、メンバーの人たちとも楽しく懇親ができた。「またの日、お会いしましょう」と、ともに笑顔で握手をしたのが懐かしい。寒い国での温かいもてなし。国際社会は、国境や言葉の違いとは別に「共に生きる社会」なのだ。そして未来を担う子どもたちは尊い。レストランを出ると、暗闇の中に幼い子が佇んでいた。あの日から約20年、あの子はまさか戦場に行っていないことを祈りたい。
 初めての訪問で好印象を持ったロシアだったが、近年の動向に失望した。連日のように、ウクライナにロシアからの爆撃の様子が報道される。この間、長引けばそれだけ市民の生命や生活が犠牲になっていることに心が痛む。やがて戦いを終え、戦後になっても、戦争による多くの国民の犠牲に対し、生き残った人や国外に避難した者たちの憎しみは消すことができず、子孫へと引き継がれる。ロシア軍は人々の心まで侵すことはできない。歴史の教訓を無視していることが何より悲劇だ。
Copyright©2003-2025 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
 ロシアのウクライナ侵攻は長期戦となった。ウクライナのNATO加入問題に端を発しエスカレートしてしまった。いかなる理由があっても武力行使は許されない。しかし国連など外交での解決策は見い出せず、ここに至ったことは嘆かわしい。いまや世界を敵に回した感のロシアに一度だけ旅したことがあった。1956年の日ソ共同宣言から日露国交回復50周年の記念にあたる2006年9月に、エルミタージュとプーシキン美術館を中心とした美術紀行だった。しかし何より1991年12月にソビエト連邦が崩壊した後の国情を見たかった。そのロシアへの旅から約20年の歳月が流れたが、当時危惧していた民主主義とはいえない政治体制によって、かつての連邦国を爆撃する暴挙が現実となった。旅のリポートとともに、私がロシアに抱いてきた経緯や感懐を書きとどめておこう。

ロシア帝政から革命、波乱の歴史
 思えば1963年に四国の片田舎から上京し入学した大学では、不穏な空気が流れていた。60年安保を経て70年安保への闘争が続く。大学構内にはスローガンの掲げた立て看板が並び、デモ活動も日常的だった。何度か学生会館の自主運営の集会にも出たが、デモなどの学生運動には距離を置いていた。
 しかし私には当時、アメリカがベトナム戦争をエスカレートさせたため、資本主義=帝国主義といった受けとめで、反戦や「安保反対」の思いが膨らんだ。資本主義は18ー19世紀、封建社会から「自由と競争」の価値観のもとに進歩的な役割を担った。ところが20世紀に入って、人間が人間を搾取する矛盾や貧富の不平等が噴出した。
 「資本主義から社会主義への移行は歴史的必然だ」といったマルクス・レーニン主義は、社会の貧富を解消する新たな経済システムとして、私なりに理解した。大学卒業後、新聞社に入った私は、世界の動きをリアルタイムで知ることができた。国際情勢は複雑で、混迷を深めていた。
 東欧で市民革命が相次ぎ、ベルリンの壁の崩壊、ハンガリー動乱、プラハの春……と続いた。そして20世紀末、ソビエト連邦型の社会主義が挫折したのだ。統制経済の破綻や一党独裁に対する不満が要因だった。
 世界を旅していつも念頭にあったのは、同じ一つの地球に暮らしていながら、生まれた国の政治体制が人々の生活に重くのしかかっていることだ。いつか私たちと政治体制の異なる社会主義の国をこの目で確認したいと思い続けていた。

宮殿だったエルミタージュ美術館
 初めて訪れたロシアは、ソウル経由でサンクトペテルブルクへ。街なかをネヴァ川がゆったりと流れ、「北のベニス」とも呼ばれる美しい土地だ。約300年前、ピョートル大帝によって築かれた比較的新しい都のあった所だが、革命や戦争の悲しい歴史の中で、その地名をサンクトペテルブルグからペトログラード、レニングラード、そして由緒ある元の地名に戻った。
 ネヴァ川に沿って立地するエルミタージュ美術館は、川面に淡い緑と白い壁面を映し建物が絵になる美しさだ。美の殿堂は、冬宮(ロマノフ王朝歴代の皇帝の正規の宮殿)を中心に小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場の5つの建物で構成され、400を超える展示室があり、所蔵作品は300万点にも及ぶという。
 エルミタージュ美術館は、歴代皇帝の居住地であり、この宮殿が美術館となるきっかけになったのは、18世紀半ば、女帝のエカテリーナ2世がベルリンの画商から220点ほどの絵画を買い入れたことに始まる。フランス語で「隠れ家」を意味する「エルミタージュ」という名称もそれに由来すると思われた。女帝の「名画を鑑賞しているのは私とネズミだけ」といった言葉が残っているほどだ。
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
 以来、王家の収集品は、ナポレオン軍を撃退してからはフランスのほか、オランダ、スペイン、イタリアからも買い増しをした。1917年のロシア革命後には、貴族や富豪の持っていた収集品も没収し美術館の所蔵品となった。
 サンクトペテルブルクでは、エルミタージュ美術館のほか、ピョートル大帝夏の宮殿や聖イサアク大聖堂、郊外にあるエカテリーナ宮殿も見学した。ここは大黒屋光太夫がエカテリーナⅡ世に謁見し、2006年春のサミットでレセプションが催された所だ。
 金箔に輝く宮殿などロシア・バロック様式の豪壮華麗さを確認すると同時に、一方でロシア帝政の権力の横暴ぶりを実感したのだった。同行した朝日新聞社時代の先輩が「これでは革命が起こるのも当然だ」と、もらした言葉に同感した。

華やかな建物群に権威主義の印象
 サンクトペテルブルクからモスクワへは列車で移動した。約650キロ、8時間の列車旅で、広い大地を車窓にロシア革命史を読んだ。1917年の十月革命は、初の社会主義革命として世界史上重要な意義を持った。レーニン、トロツキーらの革命指導のもと、「労働者と農民の政権を樹立する」という理論通りに事を進めたのであった。
 ところが革命後の現実は、理論と異なった。土地を得た農民が保守化し、革命の進展を望まなくなった。労働者にとって「土地を持った農民は敵ではないのか」という疑問が生じた。スターリンは「すべての農民は公有農場で働く労働者でなければならない」と、集団化を強行して再び農民から土地を奪った。
 モスクワは想像通りの歴史都市だった。赤の広場にレーニン廟があったが、休日でのぞけなかった、広場をはさんで赤い城壁の向こうがクレムリンで、手前に高級ブティックのグム百貨店があった。アンバランスではあるものの、繁栄ぶりを誇示しているような光景に映った。
 プーシキン美術館はクレムリンの赤の広場から歩いて30分足らず行くことができた。壮麗な外観を誇る名建築に一大コレクションが詰まっていた。1912年にモスクワ大学付属の美術館を公共化させる目的で開設されたという。1937年にモスクワ出身の詩人プーシキンの名前を冠して改称された。
 モスクワの地下鉄駅の華麗さには驚かされた。地下鉄は大まかにいって環状線と、放射線状に郊外に散らばって行く路線から構成されている。長くて速度の速いエスカレーターをどんどんと下りて行くと、アーチ状の地下宮殿のような豪華絢爛なホームが現れる。モザイクの壁画や天井絵にうっとりする。いくつかの駅頭に降り、鑑賞して回った。
 モスクワでは地下鉄を乗り継いで、スクワ大学をはじめスモーリヌイ修道院、トロイツカヤ塔などの名所を見学した。街中の露天所の土産物屋なども散策し、名物のマトリューシカ人形を買った。マトリューシカには歴代大統領の顔を模したものもあり、見ているだけでも楽しい。
 モスクワを去る前夜、夕食後に民族芸能が披露され、メンバーの人たちとも楽しく懇親ができた。「またの日、お会いしましょう」と、ともに笑顔で握手をしたのが懐かしい。寒い国での温かいもてなし。国際社会は、国境や言葉の違いとは別に「共に生きる社会」なのだ。そして未来を担う子どもたちは尊い。レストランを出ると、暗闇の中に幼い子が佇んでいた。あの日から約20年、あの子はまさか戦場に行っていないことを祈りたい。
 初めての訪問で好印象を持ったロシアだったが、近年の動向に失望した。連日のように、ウクライナにロシアからの爆撃の様子が報道される。この間、長引けばそれだけ市民の生命や生活が犠牲になっていることに心が痛む。やがて戦いを終え、戦後になっても、戦争による多くの国民の犠牲に対し、生き残った人や国外に避難した者たちの憎しみは消すことができず、子孫へと引き継がれる。ロシア軍は人々の心まで侵すことはできない。歴史の教訓を無視していることが何より悲劇だ。