MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 戦後80年の夏が巡ってきた。ヒロシマとナガサキでの原爆祈念の日、そして終戦記念日が、いずれも8月で、「平和ニッポン」では、戦争のことを問い直す年中行事になってしまった感がある。しかし国際情勢は核兵器廃絶どころか、ウクライナ戦争に使われるかもしれない現実に直面している。ヒロシマは私にとって第二の故郷である。「核兵器を二度と使用してはならない」ことを、世界平和への発信の地ヒロシマの思いとして、伝えたいと思う。

初任地、被爆に関する特ダネの思い出
 朝日新聞社での初任地が広島支局で、原爆に関する記事を書いた。企画部に転じてからは、ヒロシマに関わる展覧会や映画企画に取り組み、定年後も被爆した平山郁夫画伯の美術館の企画展コーディネーターを務めている。
 原爆ドームと道路を隔てて向かい合う広島商工会議所の記者クラブに籍を置いていたため、毎日のように原爆ドームを眺めていた。経済を担当していたが、「爆心地付近から十数体の遺骨」とか「旧住友銀行広島支店入り口に刻まれた死の影」などの被爆に関する特ダネを書いた思い出がよぎる。
 私は終戦1年前の昭和19年8月14日、四国の新居浜市に生まれた。明治40年生まれの父親は召集され、満州やマニラ戦線に出兵するも、無事帰還できた。過酷な軍隊生活だったのであろう。戦地の話はほとんどしなかったが、帰省時に持ち帰った私の書いたこれらの新聞記事を、色褪せても大事に手元に置いていた。そして死を待つ床で、「戦争は絶対あかん。お前を新聞社にやれて、ほんとに良かった」と、ぽつり呟いたのが忘れられない。
 特ダネは、1970年当時、会議所の近くにあった西警察署回りを兼ねていたため、市内の建設現場から何体分かの人骨が発掘された情報を聞き込んだ。原爆によって一瞬、死の町と化した広島にとって、それほどのニュース性はないと言われたが、私にとっては、四半世紀も経ってこうしたことが起こることに驚き、取材を進めた結果、被爆時に軍事用病院の跡地であることが判明し、社会面に大きく報じられた。
 また住友銀行広島支店入口に腰をかけ開店を待っていた人は、被爆の熱線によって人影が刻印されました。1971年の建て替え時に切り取られ、平和記念資料館に展示されている。その被爆者は原爆の閃光で死亡したとされていたが、「もしかすれば私だったかもしれない」との名乗りがあり、記事にした。
「ヒロシマ」テーマに企画展を巡回開催
 それから私はいくつかの任地を経て、編集から企画に籍を置き、広島をしばしば訪ねることになる。戦後50年企画の実務責任者になったからだ。その都度、ドームの姿を網膜に留めてきた。
 その一つが広島で開かれた1994年のアジア競技大会の芸術展示だった。広島市現代美術館と共催して「アジアの創造力」と題した展覧会では、中国人作家の蔡國強(ツァイ・グオチャン)が実施した被爆の鎮魂を願い、導火線を通じ花火の閃光が地下へ吸い込まれるプロジェクトなどに関わった。
 また広島市現代美術館所蔵作品を中心とした「ヒロシマ―21世紀へのメッセージ」の展覧会を企画し、1994年9月から翌年12月まで、熊本を皮切りに大阪、郡山、広島で巡回展示した。ヒロシマの心を題材にした美術品を中心に、朝日新聞社で保存してきた被爆直後の写真と、その写真の中から選定したいくつかをコンパクトディスクにし、影像ディスプレイで見せた。
 この展覧会のもう一つの特徴がヒロシマをテーマにした美術作品と合わせ、「市民が描いた原爆の絵」100点を展示したことだ。1974年に放映されたNHK番組「鳩子の海」を見て寄せられた一枚の絵がきっかけになって、一年間に2225枚もの絵が寄せられ、平和記念資料館で所蔵されている。
 さらに広島への日参は続いた。朝日新聞社の戦後50年企画にヒロシマをテーマにした映画製作を企画したからだ。「原爆の子」や「第五福竜丸」「さくら隊散る」などの反核作品などで評価の高い新藤兼人監督に依頼して進めた。しかし経費面でのリスクが大き過ぎ、途中で断念することになる。スクリーンにドームが映し出され、悲惨な実相を世に問い、人類への戒めにする夢はしぼんだのだ。
 映画は日の目を見なかったが、新藤兼人監督との交流が続き、100歳で他界した映画人生を、亡くなった翌年の命日に『幻の創作ノート「太陽はのぼるか」(2013年、三五館)を出版することができた。「核廃絶までピカドンは語り継ぎ、ヒロシマは生き証人となって戦争の愚かさを問いかけなければならない」。新藤監督が私に遺した言葉だ。

世界へ発信する「負の遺産」の原爆ドーム
 広島平和記念公園の敷地内にあるセンターへの道すがら、1967年に建てられた原爆ドームの碑の文言をあらためて読んだ。「昭和20年8月6日 史上はじめての原子爆弾によって破壊された旧広島産業館の残骸である(中略)その1個の爆弾によって20万人をこえる人々の生命がうしなわれ(中略)この悲痛な事実を後世に伝え 人類の戒めとする」と刻印されている。
 「原爆ドームを世界遺産に」という気運が盛り上がったのは、1992年に日本が世界遺産条約へ加盟したのがきっかけ。この市民の声を受けて、広島市議会で登録を求める意見書が採択され取り組みは本格化した。翌年には、市長が世界遺産としてユネスコへ推薦するように国へ要望した。
 その後、「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」が発足し、遺産化を求める全国的な署名運動が始められ、165万人余りの署名を集まった。遅ればせながら1995年、文化庁は文化財保護法の史跡指定基準を改正し、原爆ドームを国の史跡に指定して、ユネスコへ世界遺産に登録するよう推薦したのだった。1996年12月5日、多くの人の悲願が実って世界遺産委員会の登録が決まった。
 そして原爆ドームの碑の横に、1996年12月に新たな碑が加わった。「人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として(中略)世界遺産一覧表に記載された」と銘記されている。原爆ドームは、人類の文化の創造性や自然のすばらしい景観とは異なり「負の遺産」ではあるが、普遍的な価値を持った貴重な遺産だ。このことは、「核兵器を二度と使用してはならない」ということが国際社会の共通認識にならなければならないことを表している。
 この原爆ドームの世界遺産登録の貢献者は、15歳の時に勤労動員先で被爆し、ユネスコ親善大使でもあった平山郁夫画伯だ。朝日新聞創刊120周年にプロジェクトに「シルクロード 三蔵法師の道」を提案した私は平山画伯の指導を受け、画伯の死後、平山郁夫美術館の企画展コーディネーターを委嘱された。
 新居浜を皮切りに名古屋、瀬戸内、明石、京都、北九州、南陽、八王子、長崎、熊本、田辺、朝来、大阪、富岡、三重へ全国15都市を巡回した。長崎県美術館には、平山画伯の代表作《広島生変図》(1979年、広島県立美術館蔵)を出品した。この作品は、原爆によって一面火の海に化した広島の街の中に原爆ドームがシルエットのように浮かび、天空には不動明王が描かれた構図だ。
 被爆者たちは、ロシアのウクライナ侵攻という現実が、「再び核を使用し、過ちは繰返す」ことを危惧している。だからこそ、条約の発効で生まれた核廃絶への機運を絶対に絶やしてはならないと危機感を強めているのだ。
 広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれた言葉は重い。被爆者の「『核兵器をなくせ』という『血の出るような叫び』」を風化させてはならない。戦争は私たちにとって日常のテーマなのだ。
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■この指とまれ
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■ちょっとおじゃまします                   
■元気の出てくることばたち
 戦後80年の夏が巡ってきた。ヒロシマとナガサキでの原爆祈念の日、そして終戦記念日が、いずれも8月で、「平和ニッポン」では、戦争のことを問い直す年中行事になってしまった感がある。しかし国際情勢は核兵器廃絶どころか、ウクライナ戦争に使われるかもしれない現実に直面している。ヒロシマは私にとって第二の故郷である。「核兵器を二度と使用してはならない」ことを、世界平和への発信の地ヒロシマの思いとして、伝えたいと思う。

初任地、被爆に関する特ダネの思い出
 朝日新聞社での初任地が広島支局で、原爆に関する記事を書いた。企画部に転じてからは、ヒロシマに関わる展覧会や映画企画に取り組み、定年後も被爆した平山郁夫画伯の美術館の企画展コーディネーターを務めている。
 原爆ドームと道路を隔てて向かい合う広島商工会議所の記者クラブに籍を置いていたため、毎日のように原爆ドームを眺めていた。経済を担当していたが、「爆心地付近から十数体の遺骨」とか「旧住友銀行広島支店入り口に刻まれた死の影」などの被爆に関する特ダネを書いた思い出がよぎる。
 私は終戦1年前の昭和19年8月14日、四国の新居浜市に生まれた。明治40年生まれの父親は召集され、満州やマニラ戦線に出兵するも、無事帰還できた。過酷な軍隊生活だったのであろう。戦地の話はほとんどしなかったが、帰省時に持ち帰った私の書いたこれらの新聞記事を、色褪せても大事に手元に置いていた。そして死を待つ床で、「戦争は絶対あかん。お前を新聞社にやれて、ほんとに良かった」と、ぽつり呟いたのが忘れられない。
 特ダネは、1970年当時、会議所の近くにあった西警察署回りを兼ねていたため、市内の建設現場から何体分かの人骨が発掘された情報を聞き込んだ。原爆によって一瞬、死の町と化した広島にとって、それほどのニュース性はないと言われたが、私にとっては、四半世紀も経ってこうしたことが起こることに驚き、取材を進めた結果、被爆時に軍事用病院の跡地であることが判明し、社会面に大きく報じられた。
 また住友銀行広島支店入口に腰をかけ開店を待っていた人は、被爆の熱線によって人影が刻印されました。1971年の建て替え時に切り取られ、平和記念資料館に展示されている。その被爆者は原爆の閃光で死亡したとされていたが、「もしかすれば私だったかもしれない」との名乗りがあり、記事にした。
MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
「ヒロシマ」テーマに企画展を巡回開催
 それから私はいくつかの任地を経て、編集から企画に籍を置き、広島をしばしば訪ねることになる。戦後50年企画の実務責任者になったからだ。その都度、ドームの姿を網膜に留めてきた。
 その一つが広島で開かれた1994年のアジア競技大会の芸術展示だった。広島市現代美術館と共催して「アジアの創造力」と題した展覧会では、中国人作家の蔡國強(ツァイ・グオチャン)が実施した被爆の鎮魂を願い、導火線を通じ花火の閃光が地下へ吸い込まれるプロジェクトなどに関わった。
 また広島市現代美術館所蔵作品を中心とした「ヒロシマ―21世紀へのメッセージ」の展覧会を企画し、1994年9月から翌年12月まで、熊本を皮切りに大阪、郡山、広島で巡回展示した。ヒロシマの心を題材にした美術品を中心に、朝日新聞社で保存してきた被爆直後の写真と、その写真の中から選定したいくつかをコンパクトディスクにし、影像ディスプレイで見せた。
 この展覧会のもう一つの特徴がヒロシマをテーマにした美術作品と合わせ、「市民が描いた原爆の絵」100点を展示したことだ。1974年に放映されたNHK番組「鳩子の海」を見て寄せられた一枚の絵がきっかけになって、一年間に2225枚もの絵が寄せられ、平和記念資料館で所蔵されている。
 さらに広島への日参は続いた。朝日新聞社の戦後50年企画にヒロシマをテーマにした映画製作を企画したからだ。「原爆の子」や「第五福竜丸」「さくら隊散る」などの反核作品などで評価の高い新藤兼人監督に依頼して進めた。しかし経費面でのリスクが大き過ぎ、途中で断念することになる。スクリーンにドームが映し出され、悲惨な実相を世に問い、人類への戒めにする夢はしぼんだのだ。
 映画は日の目を見なかったが、新藤兼人監督との交流が続き、100歳で他界した映画人生を、亡くなった翌年の命日に『幻の創作ノート「太陽はのぼるか」(2013年、三五館)を出版することができた。「核廃絶までピカドンは語り継ぎ、ヒロシマは生き証人となって戦争の愚かさを問いかけなければならない」。新藤監督が私に遺した言葉だ。

世界へ発信する「負の遺産」の原爆ドーム
 広島平和記念公園の敷地内にあるセンターへの道すがら、1967年に建てられた原爆ドームの碑の文言をあらためて読んだ。「昭和20年8月6日 史上はじめての原子爆弾によって破壊された旧広島産業館の残骸である(中略)その1個の爆弾によって20万人をこえる人々の生命がうしなわれ(中略)この悲痛な事実を後世に伝え 人類の戒めとする」と刻印されている。
 「原爆ドームを世界遺産に」という気運が盛り上がったのは、1992年に日本が世界遺産条約へ加盟したのがきっかけ。この市民の声を受けて、広島市議会で登録を求める意見書が採択され取り組みは本格化した。翌年には、市長が世界遺産としてユネスコへ推薦するように国へ要望した。
 その後、「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」が発足し、遺産化を求める全国的な署名運動が始められ、165万人余りの署名を集まった。遅ればせながら1995年、文化庁は文化財保護法の史跡指定基準を改正し、原爆ドームを国の史跡に指定して、ユネスコへ世界遺産に登録するよう推薦したのだった。1996年12月5日、多くの人の悲願が実って世界遺産委員会の登録が決まった。
 そして原爆ドームの碑の横に、1996年12月に新たな碑が加わった。「人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として(中略)世界遺産一覧表に記載された」と銘記されている。原爆ドームは、人類の文化の創造性や自然のすばらしい景観とは異なり「負の遺産」ではあるが、普遍的な価値を持った貴重な遺産だ。このことは、「核兵器を二度と使用してはならない」ということが国際社会の共通認識にならなければならないことを表している。
 この原爆ドームの世界遺産登録の貢献者は、15歳の時に勤労動員先で被爆し、ユネスコ親善大使でもあった平山郁夫画伯だ。朝日新聞創刊120周年にプロジェクトに「シルクロード 三蔵法師の道」を提案した私は平山画伯の指導を受け、画伯の死後、平山郁夫美術館の企画展コーディネーターを委嘱された。
 新居浜を皮切りに名古屋、瀬戸内、明石、京都、北九州、南陽、八王子、長崎、熊本、田辺、朝来、大阪、富岡、三重へ全国15都市を巡回した。長崎県美術館には、平山画伯の代表作《広島生変図》(1979年、広島県立美術館蔵)を出品した。この作品は、原爆によって一面火の海に化した広島の街の中に原爆ドームがシルエットのように浮かび、天空には不動明王が描かれた構図だ。
 被爆者たちは、ロシアのウクライナ侵攻という現実が、「再び核を使用し、過ちは繰返す」ことを危惧している。だからこそ、条約の発効で生まれた核廃絶への機運を絶対に絶やしてはならないと危機感を強めているのだ。
 広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれた言葉は重い。被爆者の「『核兵器をなくせ』という『血の出るような叫び』」を風化させてはならない。戦争は私たちにとって日常のテーマなのだ。
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 戦後80年の夏が巡ってきた。ヒロシマとナガサキでの原爆祈念の日、そして終戦記念日が、いずれも8月で、「平和ニッポン」では、戦争のことを問い直す年中行事になってしまった感がある。しかし国際情勢は核兵器廃絶どころか、ウクライナ戦争に使われるかもしれない現実に直面している。ヒロシマは私にとって第二の故郷である。「核兵器を二度と使用してはならない」ことを、世界平和への発信の地ヒロシマの思いとして、伝えたいと思う。

初任地、被爆に関する特ダネの思い出
 朝日新聞社での初任地が広島支局で、原爆に関する記事を書いた。企画部に転じてからは、ヒロシマに関わる展覧会や映画企画に取り組み、定年後も被爆した平山郁夫画伯の美術館の企画展コーディネーターを務めている。
 原爆ドームと道路を隔てて向かい合う広島商工会議所の記者クラブに籍を置いていたため、毎日のように原爆ドームを眺めていた。経済を担当していたが、「爆心地付近から十数体の遺骨」とか「旧住友銀行広島支店入り口に刻まれた死の影」などの被爆に関する特ダネを書いた思い出がよぎる。
 私は終戦1年前の昭和19年8月14日、四国の新居浜市に生まれた。明治40年生まれの父親は召集され、満州やマニラ戦線に出兵するも、無事帰還できた。過酷な軍隊生活だったのであろう。戦地の話はほとんどしなかったが、帰省時に持ち帰った私の書いたこれらの新聞記事を、色褪せても大事に手元に置いていた。そして死を待つ床で、「戦争は絶対あかん。お前を新聞社にやれて、ほんとに良かった」と、ぽつり呟いたのが忘れられない。
 特ダネは、1970年当時、会議所の近くにあった西警察署回りを兼ねていたため、市内の建設現場から何体分かの人骨が発掘された情報を聞き込んだ。原爆によって一瞬、死の町と化した広島にとって、それほどのニュース性はないと言われたが、私にとっては、四半世紀も経ってこうしたことが起こることに驚き、取材を進めた結果、被爆時に軍事用病院の跡地であることが判明し、社会面に大きく報じられた。
 また住友銀行広島支店入口に腰をかけ開店を待っていた人は、被爆の熱線によって人影が刻印されました。1971年の建て替え時に切り取られ、平和記念資料館に展示されている。その被爆者は原爆の閃光で死亡したとされていたが、「もしかすれば私だったかもしれない」との名乗りがあり、記事にした。

「ヒロシマ」テーマに企画展を巡回開催
 それから私はいくつかの任地を経て、編集から企画に籍を置き、広島をしばしば訪ねることになる。戦後50年企画の実務責任者になったからだ。その都度、ドームの姿を網膜に留めてきた。
 その一つが広島で開かれた1994年のアジア競技大会の芸術展示だった。広島市現代美術館と共催して「アジアの創造力」と題した展覧会では、中国人作家の蔡國強(ツァイ・グオチャン)が実施した被爆の鎮魂を願い、導火線を通じ花火の閃光が地下へ吸い込まれるプロジェクトなどに関わった。
 また広島市現代美術館所蔵作品を中心とした「ヒロシマ―21世紀へのメッセージ」の展覧会を企画し、1994年9月から翌年12月まで、熊本を皮切りに大阪、郡山、広島で巡回展示した。ヒロシマの心を題材にした美術品を中心に、朝日新聞社で保存してきた被爆直後の写真と、その写真の中から選定したいくつかをコンパクトディスクにし、影像ディスプレイで見せた。

《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
 この展覧会のもう一つの特徴がヒロシマをテーマにした美術作品と合わせ、「市民が描いた原爆の絵」100点を展示したことだ。1974年に放映されたNHK番組「鳩子の海」を見て寄せられた一枚の絵がきっかけになって、一年間に2225枚もの絵が寄せられ、平和記念資料館で所蔵されている。
 さらに広島への日参は続いた。朝日新聞社の戦後50年企画にヒロシマをテーマにした映画製作を企画したからだ。「原爆の子」や「第五福竜丸」「さくら隊散る」などの反核作品などで評価の高い新藤兼人監督に依頼して進めた。しかし経費面でのリスクが大き過ぎ、途中で断念することになる。スクリーンにドームが映し出され、悲惨な実相を世に問い、人類への戒めにする夢はしぼんだのだ。
 映画は日の目を見なかったが、新藤兼人監督との交流が続き、100歳で他界した映画人生を、亡くなった翌年の命日に『幻の創作ノート「太陽はのぼるか」(2013年、三五館)を出版することができた。「核廃絶までピカドンは語り継ぎ、ヒロシマは生き証人となって戦争の愚かさを問いかけなければならない」。新藤監督が私に遺した言葉だ。

世界へ発信する「負の遺産」の原爆ドーム
 広島平和記念公園の敷地内にあるセンターへの道すがら、1967年に建てられた原爆ドームの碑の文言をあらためて読んだ。「昭和20年8月6日 史上はじめての原子爆弾によって破壊された旧広島産業館の残骸である(中略)その1個の爆弾によって20万人をこえる人々の生命がうしなわれ(中略)この悲痛な事実を後世に伝え 人類の戒めとする」と刻印されている。
 「原爆ドームを世界遺産に」という気運が盛り上がったのは、1992年に日本が世界遺産条約へ加盟したのがきっかけ。この市民の声を受けて、広島市議会で登録を求める意見書が採択され取り組みは本格化した。翌年には、市長が世界遺産としてユネスコへ推薦するように国へ要望した。
 その後、「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」が発足し、遺産化を求める全国的な署名運動が始められ、165万人余りの署名を集まった。遅ればせながら1995年、文化庁は文化財保護法の史跡指定基準を改正し、原爆ドームを国の史跡に指定して、ユネスコへ世界遺産に登録するよう推薦したのだった。1996年12月5日、多くの人の悲願が実って世界遺産委員会の登録が決まった。
 そして原爆ドームの碑の横に、1996年12月に新たな碑が加わった。「人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として(中略)世界遺産一覧表に記載された」と銘記されている。原爆ドームは、人類の文化の創造性や自然のすばらしい景観とは異なり「負の遺産」ではあるが、普遍的な価値を持った貴重な遺産だ。このことは、「核兵器を二度と使用してはならない」ということが国際社会の共通認識にならなければならないことを表している。
 この原爆ドームの世界遺産登録の貢献者は、15歳の時に勤労動員先で被爆し、ユネスコ親善大使でもあった平山郁夫画伯だ。朝日新聞創刊120周年にプロジェクトに「シルクロード 三蔵法師の道」を提案した私は平山画伯の指導を受け、画伯の死後、平山郁夫美術館の企画展コーディネーターを委嘱された。
 新居浜を皮切りに名古屋、瀬戸内、明石、京都、北九州、南陽、八王子、長崎、熊本、田辺、朝来、大阪、富岡、三重へ全国15都市を巡回した。長崎県美術館には、平山画伯の代表作《広島生変図》(1979年、広島県立美術館蔵)を出品した。この作品は、原爆によって一面火の海に化した広島の街の中に原爆ドームがシルエットのように浮かび、天空には不動明王が描かれた構図だ。
 被爆者たちは、ロシアのウクライナ侵攻という現実が、「再び核を使用し、過ちは繰返す」ことを危惧している。だからこそ、条約の発効で生まれた核廃絶への機運を絶対に絶やしてはならないと危機感を強めているのだ。
 広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれた言葉は重い。被爆者の「『核兵器をなくせ』という『血の出るような叫び』」を風化させてはならない。戦争は私たちにとって日常のテーマなのだ。