MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 朝日新聞社に在籍していた1996年9月、初めての海外出張がノルウェーだった。芸術活動の研修と展覧会などの催事支援を目的としていた。それから約20年後の2015年6月、スウェーデンとデンマークも含め北欧3ヵ国を旅した。とりわけオスロ市立ムンク美術館やオスロ国立美術館にはいずれの旅でも訪れた。名画《叫び》との″再会”の思い出を軸に、フィヨルドや氷河など大自然の魅力を伝えたい。

ムンクの《叫び》を本拠地で鑑賞
 最初の旅から30年になる。残暑厳しい日本を離れ約14時間かけ、ノルウェーのオスロ空港に降り立った。到着後3時間経た午後9時半過ぎになっても空は明るかった。まぎれもなく白夜の国だ。時差は7時間で、日本では深夜のはずだが、一向に眠くならず、夜なのに昼のような街を散策した。深まる秋の気配で肌寒かった。8日間の日程でオスロとベルゲンなどを巡った。
 オスロ市立ムンク美術館は、市内東部の植物や地質学博物館などと隣接する広大な緑地にあり、モダンな外観だった。生誕百年を記念して開館し、油彩画、版画、水彩、素描など2万点を超す寄贈を受け所蔵している。
 エドヴァルト・ムンク(1863~1944)は、81歳まで生涯に膨大な作品を遺している。1993年に大阪の出光美術館(現在は閉鎖)のムンク展で、《叫び》や《不安》、《マドンナ》などの代表作を見ていた。人間の魂を揺さぶる画家だと思っていただけに、本拠地での鑑賞が楽しみだった。
 現地での《叫び》は感動的だった。同名の《叫び》はオスロ国立美術館にもあり、こちらでは《マドンナ》などの名作もじっくり鑑賞した。ムンクは伝統破壊運動のたまり場となった「グラン・カフェ」にもよく顔を出し、哲学者や作家、他分野の芸術家らと交流している。その中に同世代の彫刻家、グスタフ・ヴィーゲラン(1869~1943)がいた。
 ムンクの作品に刺激を受けた翌日、美術館とは王宮を挟んで対極にある広大なヴィーゲラン公園を訪ねた。菩提樹が植えられた遊歩道を進むと、人造湖があり、橋の欄干にはブロンズ像が立ち並んでいた.
 代表作に人間の誕生から死までの人生における様々な場面を表現した彫刻があり、上に17メートルの塔《モノリッテン》がそびえ建っていた。この花崗岩の塔に刻まれた人体は、老若男女121体だそうだ。生涯の大半をかけて制作した公園全体には、200点以上の彫刻があり、壮大な生命の賛歌をうたいあげていた。
 9月のこの時期、オスロではイプセン・フェスティバルが催される。街角のいたるところにポスターや旗が見受けられた。私の泊ったホテルの斜め前が国立劇場で、夕刻から上演されていた「人形の家」(1879年)を観劇することができた。
 この「人形の家」によって、ヘンリク・イプセン(1828~1906)は近代劇の父とも呼ばれているのだ。小鳥のように愛され、平和の生活を送っている弁護士の妻ノラには秘密があった。夫が病気の時、父親の署名を偽造して借金をした。秘密を知った夫は社会的に葬られることを恐れ、ノラをののしる。事件は解決し、夫は再びノラの意を受け入れようとするが、人形のように生きるより人間として生きたいと願うノラは三人の子供も捨てて家を出る。
 ノルウェーといえば、男女共同参画の先進国として知られる。なるほど「人形の家」の影響が大きい。要するにイプセンの功績は、女は家庭で家事をして家を守り、子どもを育てるという従来の女性像を破壊したことだ。

世界遺産のベルゲンで観光と文化を満喫
 ベルゲンは、12~13世紀に首都であった。オスロからの機内で見たフィヨルドの美しさは鮮烈だった。三角形の屋根がひしめくブリッゲンの街並みはかつてドイツのハンザ商人たちが活躍した商館が再現され世界遺産の町並みだ。ここはエドヴァルト・グリーグ(1843~1907)を生み、毎年国際音楽祭が開かれている。
 グリーグが22年間、生活していた家がそのまま博物館となり、小さいながらも立派な音楽ホールもある。入り江の方に下りていくと、作曲の時にこもった小屋があり、別の道の崖には夫妻が眠る墓があった。「君を愛す」という歌曲があるが、ソプラノ歌手だった奥さんのために作曲したことを聞いて納得した。
 その翌日には国立コンサートホールで1775年に創設のベルゲン・フィルハーモニ管弦楽団の演奏によるグリーグの「ピアノ協奏曲イ短調」(1868年)などを拝聴した。指揮者は世界的に有名なロシアのドミトリー・キタエンコだった。演奏終了後、指揮者を囲む打ち上げ宴に招待されたが、7カ国の人たちが深夜まで料理とワインを味わい、ベッドに横たわったのは午前2時前になった。
 ベルゲンでは、文化施設の視察以外に、フィヨルド観光を楽しんだ。小型のプライベート船をチャーターしていただき、峡谷美の絶景を満喫した。
 19世紀の同時期に、ムンクやヴィーゲラン、イプセン、グリークらの傑出した芸術家を生んだ背景は、その歴史にあった。ノルウェーは、1380年から1814年まで4000年以上もデンマークの統治下に置かれた。国を建て直していこうとする気概が渦巻いていたのではないだろうか。
 現在、人口約560万人の小国だ。そのコンパクトさゆえ、文化政策を効果的に運用できるのかもしれない。しかし何より若い芸術家たちを育成しようとする熱意に感銘を受ける旅だった。
古い木造の教会など心に残る数々の風景
 2015年時は北欧3ヵ国を巡ったが、メインはノルウェーだった。オスロ市内の観光名所は再訪で懐かしめた。2006年の時は王宮近くのホテルに連泊していたので、朝の散歩道など思い出すことができた。
 お目当てのフィヨルドは、前回と別のハダンゲルフィヨルドを大型クルーズで堪能した。初めてのボイエ氷河には感激だった。山合の頂きから裾野にかけて巨大な「白亜の鎧」が覆っていた。「氷河は積雪と違ってブルーの筋が走っている」というガイダンスを眼前の光景で確認した。いずれも心に残る自然美であった。
 ノルウェーには庶民の芸術建築ともいうべき古い木造教会があった。スターブ(支柱式)チャーチと呼ばれ、三角錘形の屋根が幾層にも重なり、ヘビのうろこのような「こけら板」で覆われた屋根の棟木の上にはリュウの頭が突き出ている。1300年代には1000」棟以上もあったといわれるが、現存するのは約30。当時、世界では石造の教会が中心だったが、木の扱いに巧みだった国民の心意気だったのかもしれない。民俗博物館の建物も、構造が巧みで、興味を引いた。
 2度目の旅では、オスロ市内で自由行動の時間に《叫び》の舞台になったとされている場所を探し歩いた。 市中心部から路面電車で10分~15分程にあるエーケベルグ地区の公園だった。 小高い丘の上にあり、オスロ市街を一望できたが、絵に描かれた風景のような場所は見当たらなかった。ムンクが描いた光景は、まさに画家の心象風景だった、と確信した。
 ムンクは日記の中で「陽が沈むとき、空が血のように赤く染まり、青黒いフィヨルドと町の上に血のような雲が垂れかかった。私は恐怖におののいて、立ちすくんだ。そして大きく果てしない叫びが自然をつんざくのを感じた」と記している。北欧特有の暗く寒く長い冬の情景が投影されたインスピレーション作品だったのであろう。
 ノルウェーの旅は、ムンクの《叫び》とともにある。もう一度、オーロラの見られる季節に身を置きたいと願っている。
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■ちょっとおじゃまします                   
■元気の出てくることばたち
 朝日新聞社に在籍していた1996年9月、初めての海外出張がノルウェーだった。芸術活動の研修と展覧会などの催事支援を目的としていた。それから約20年後の2015年6月、スウェーデンとデンマークも含め北欧3ヵ国を旅した。とりわけオスロ市立ムンク美術館やオスロ国立美術館にはいずれの旅でも訪れた。名画《叫び》との″再会”の思い出を軸に、フィヨルドや氷河など大自然の魅力を伝えたい。

ムンクの《叫び》を本拠地で鑑賞
 最初の旅から30年になる。残暑厳しい日本を離れ約14時間かけ、ノルウェーのオスロ空港に降り立った。到着後3時間経た午後9時半過ぎになっても空は明るかった。まぎれもなく白夜の国だ。時差は7時間で、日本では深夜のはずだが、一向に眠くならず、夜なのに昼のような街を散策した。深まる秋の気配で肌寒かった。8日間の日程でオスロとベルゲンなどを巡った。
 オスロ市立ムンク美術館は、市内東部の植物や地質学博物館などと隣接する広大な緑地にあり、モダンな外観だった。生誕百年を記念して開館し、油彩画、版画、水彩、素描など2万点を超す寄贈を受け所蔵している。
 エドヴァルト・ムンク(1863~1944)は、81歳まで生涯に膨大な作品を遺している。1993年に大阪の出光美術館(現在は閉鎖)のムンク展で、《叫び》や《不安》、《マドンナ》などの代表作を見ていた。人間の魂を揺さぶる画家だと思っていただけに、本拠地での鑑賞が楽しみだった。
 現地での《叫び》は感動的だった。同名の《叫び》はオスロ国立美術館にもあり、こちらでは《マドンナ》などの名作もじっくり鑑賞した。ムンクは伝統破壊運動のたまり場となった「グラン・カフェ」にもよく顔を出し、哲学者や作家、他分野の芸術家らと交流している。その中に同世代の彫刻家、グスタフ・ヴィーゲラン(1869~1943)がいた。
 ムンクの作品に刺激を受けた翌日、美術館とは王宮を挟んで対極にある広大なヴィーゲラン公園を訪ねた。菩提樹が植えられた遊歩道を進むと、人造湖があり、橋の欄干にはブロンズ像が立ち並んでいた.
MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 代表作に人間の誕生から死までの人生における様々な場面を表現した彫刻があり、上に17メートルの塔《モノリッテン》がそびえ建っていた。この花崗岩の塔に刻まれた人体は、老若男女121体だそうだ。生涯の大半をかけて制作した公園全体には、200点以上の彫刻があり、壮大な生命の賛歌をうたいあげていた。
 9月のこの時期、オスロではイプセン・フェスティバルが催される。街角のいたるところにポスターや旗が見受けられた。私の泊ったホテルの斜め前が国立劇場で、夕刻から上演されていた「人形の家」(1879年)を観劇することができた。
 この「人形の家」によって、ヘンリク・イプセン(1828~1906)は近代劇の父とも呼ばれているのだ。小鳥のように愛され、平和の生活を送っている弁護士の妻ノラには秘密があった。夫が病気の時、父親の署名を偽造して借金をした。秘密を知った夫は社会的に葬られることを恐れ、ノラをののしる。事件は解決し、夫は再びノラの意を受け入れようとするが、人形のように生きるより人間として生きたいと願うノラは三人の子供も捨てて家を出る。
 ノルウェーといえば、男女共同参画の先進国として知られる。なるほど「人形の家」の影響が大きい。要するにイプセンの功績は、女は家庭で家事をして家を守り、子どもを育てるという従来の女性像を破壊したことだ。

世界遺産のベルゲンで観光と文化を満喫
 ベルゲンは、12~13世紀に首都であった。オスロからの機内で見たフィヨルドの美しさは鮮烈だった。三角形の屋根がひしめくブリッゲンの街並みはかつてドイツのハンザ商人たちが活躍した商館が再現され世界遺産の町並みだ。ここはエドヴァルト・グリーグ(1843~1907)を生み、毎年国際音楽祭が開かれている。
 グリーグが22年間、生活していた家がそのまま博物館となり、小さいながらも立派な音楽ホールもある。入り江の方に下りていくと、作曲の時にこもった小屋があり、別の道の崖には夫妻が眠る墓があった。「君を愛す」という歌曲があるが、ソプラノ歌手だった奥さんのために作曲したことを聞いて納得した。
 その翌日には国立コンサートホールで1775年に創設のベルゲン・フィルハーモニ管弦楽団の演奏によるグリーグの「ピアノ協奏曲イ短調」(1868年)などを拝聴した。指揮者は世界的に有名なロシアのドミトリー・キタエンコだった。演奏終了後、指揮者を囲む打ち上げ宴に招待されたが、7カ国の人たちが深夜まで料理とワインを味わい、ベッドに横たわったのは午前2時前になった。
 ベルゲンでは、文化施設の視察以外に、フィヨルド観光を楽しんだ。小型のプライベート船をチャーターしていただき、峡谷美の絶景を満喫した。
 19世紀の同時期に、ムンクやヴィーゲラン、イプセン、グリークらの傑出した芸術家を生んだ背景は、その歴史にあった。ノルウェーは、1380年から1814年まで4000年以上もデンマークの統治下に置かれた。国を建て直していこうとする気概が渦巻いていたのではないだろうか。
 現在、人口約560万人の小国だ。そのコンパクトさゆえ、文化政策を効果的に運用できるのかもしれない。しかし何より若い芸術家たちを育成しようとする熱意に感銘を受ける旅だった。

古い木造の教会など心に残る数々の風景
 2015年時は北欧3ヵ国を巡ったが、メインはノルウェーだった。オスロ市内の観光名所は再訪で懐かしめた。2006年の時は王宮近くのホテルに連泊していたので、朝の散歩道など思い出すことができた。
 お目当てのフィヨルドは、前回と別のハダンゲルフィヨルドを大型クルーズで堪能した。初めてのボイエ氷河には感激だった。山合の頂きから裾野にかけて巨大な「白亜の鎧」が覆っていた。「氷河は積雪と違ってブルーの筋が走っている」というガイダンスを眼前の光景で確認した。いずれも心に残る自然美であった。
 ノルウェーには庶民の芸術建築ともいうべき古い木造教会があった。スターブ(支柱式)チャーチと呼ばれ、三角錘形の屋根が幾層にも重なり、ヘビのうろこのような「こけら板」で覆われた屋根の棟木の上にはリュウの頭が突き出ている。1300年代には1000」棟以上もあったといわれるが、現存するのは約30。当時、世界では石造の教会が中心だったが、木の扱いに巧みだった国民の心意気だったのかもしれない。民俗博物館の建物も、構造が巧みで、興味を引いた。
 2度目の旅では、オスロ市内で自由行動の時間に《叫び》の舞台になったとされている場所を探し歩いた。 市中心部から路面電車で10分~15分程にあるエーケベルグ地区の公園だった。 小高い丘の上にあり、オスロ市街を一望できたが、絵に描かれた風景のような場所は見当たらなかった。ムンクが描いた光景は、まさに画家の心象風景だった、と確信した。
 ムンクは日記の中で「陽が沈むとき、空が血のように赤く染まり、青黒いフィヨルドと町の上に血のような雲が垂れかかった。私は恐怖におののいて、立ちすくんだ。そして大きく果てしない叫びが自然をつんざくのを感じた」と記している。北欧特有の暗く寒く長い冬の情景が投影されたインスピレーション作品だったのであろう。
 ノルウェーの旅は、ムンクの《叫び》とともにある。もう一度、オーロラの見られる季節に身を置きたいと願っている。
Copyright©2003-2025 Akai Newspaper dealer
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新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
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 朝日新聞社に在籍していた1996年9月、初めての海外出張がノルウェーだった。芸術活動の研修と展覧会などの催事支援を目的としていた。それから約20年後の2015年6月、スウェーデンとデンマークも含め北欧3ヵ国を旅した。とりわけオスロ市立ムンク美術館やオスロ国立美術館にはいずれの旅でも訪れた。名画《叫び》との″再会”の思い出を軸に、フィヨルドや氷河など大自然の魅力を伝えたい。

ムンクの《叫び》を本拠地で鑑賞
 最初の旅から30年になる。残暑厳しい日本を離れ約14時間かけ、ノルウェーのオスロ空港に降り立った。到着後3時間経た午後9時半過ぎになっても空は明るかった。まぎれもなく白夜の国だ。時差は7時間で、日本では深夜のはずだが、一向に眠くならず、夜なのに昼のような街を散策した。深まる秋の気配で肌寒かった。8日間の日程でオスロとベルゲンなどを巡った。
 オスロ市立ムンク美術館は、市内東部の植物や地質学博物館などと隣接する広大な緑地にあり、モダンな外観だった。生誕百年を記念して開館し、油彩画、版画、水彩、素描など2万点を超す寄贈を受け所蔵している。
 エドヴァルト・ムンク(1863~1944)は、81歳まで生涯に膨大な作品を遺している。1993年に大阪の出光美術館(現在は閉鎖)のムンク展で、《叫び》や《不安》、《マドンナ》などの代表作を見ていた。人間の魂を揺さぶる画家だと思っていただけに、本拠地での鑑賞が楽しみだった。
 現地での《叫び》は感動的だった。同名の《叫び》はオスロ国立美術館にもあり、こちらでは《マドンナ》などの名作もじっくり鑑賞した。ムンクは伝統破壊運動のたまり場となった「グラン・カフェ」にもよく顔を出し、哲学者や作家、他分野の芸術家らと交流している。その中に同世代の彫刻家、グスタフ・ヴィーゲラン(1869~1943)がいた。
 ムンクの作品に刺激を受けた翌日、美術館とは王宮を挟んで対極にある広大なヴィーゲラン公園を訪ねた。菩提樹が植えられた遊歩道を進むと、人造湖があり、橋の欄干にはブロンズ像が立ち並んでいた.
 代表作に人間の誕生から死までの人生における様々な場面を表現した彫刻があり、上に17メートルの塔《モノリッテン》がそびえ建っていた。この花崗岩の塔に刻まれた人体は、老若男女121体だそうだ。生涯の大半をかけて制作した公園全体には、200点以上の彫刻があり、壮大な生命の賛歌をうたいあげていた。
 9月のこの時期、オスロではイプセン・フェスティバルが催される。街角のいたるところにポスターや旗が見受けられた。私の泊ったホテルの斜め前が国立劇場で、夕刻から上演されていた「人形の家」(1879年)を観劇することができた。
 この「人形の家」によって、ヘンリク・イプセン(1828~1906)は近代劇の父とも呼ばれているのだ。小鳥のように愛され、平和の生活を送っている弁護士の妻ノラには秘密があった。夫が病気の時、父親の署名を偽造して借金をした。秘密を知った夫は社会的に葬られることを恐れ、ノラをののしる。事件は解決し、夫は再びノラの意を受け入れようとするが、人形のように生きるより人間として生きたいと願うノラは三人の子供も捨てて家を出る。
 ノルウェーといえば、男女共同参画の先進国として知られる。なるほど「人形の家」の影響が大きい。要するにイプセンの功績は、女は家庭で家事をして家を守り、子どもを育てるという従来の女性像を破壊したことだ。

《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
世界遺産のベルゲンで観光と文化を満喫
 ベルゲンは、12~13世紀に首都であった。オスロからの機内で見たフィヨルドの美しさは鮮烈だった。三角形の屋根がひしめくブリッゲンの街並みはかつてドイツのハンザ商人たちが活躍した商館が再現され世界遺産の町並みだ。ここはエドヴァルト・グリーグ(1843~1907)を生み、毎年国際音楽祭が開かれている。
 グリーグが22年間、生活していた家がそのまま博物館となり、小さいながらも立派な音楽ホールもある。入り江の方に下りていくと、作曲の時にこもった小屋があり、別の道の崖には夫妻が眠る墓があった。「君を愛す」という歌曲があるが、ソプラノ歌手だった奥さんのために作曲したことを聞いて納得した。
 その翌日には国立コンサートホールで1775年に創設のベルゲン・フィルハーモニ管弦楽団の演奏によるグリーグの「ピアノ協奏曲イ短調」(1868年)などを拝聴した。指揮者は世界的に有名なロシアのドミトリー・キタエンコだった。演奏終了後、指揮者を囲む打ち上げ宴に招待されたが、7カ国の人たちが深夜まで料理とワインを味わい、ベッドに横たわったのは午前2時前になった。
 ベルゲンでは、文化施設の視察以外に、フィヨルド観光を楽しんだ。小型のプライベート船をチャーターしていただき、峡谷美の絶景を満喫した。
 19世紀の同時期に、ムンクやヴィーゲラン、イプセン、グリークらの傑出した芸術家を生んだ背景は、その歴史にあった。ノルウェーは、1380年から1814年まで4000年以上もデンマークの統治下に置かれた。国を建て直していこうとする気概が渦巻いていたのではないだろうか。
 現在、人口約560万人の小国だ。そのコンパクトさゆえ、文化政策を効果的に運用できるのかもしれない。しかし何より若い芸術家たちを育成しようとする熱意に感銘を受ける旅だった。

古い木造の教会など心に残る数々の風景
 2015年時は北欧3ヵ国を巡ったが、メインはノルウェーだった。オスロ市内の観光名所は再訪で懐かしめた。2006年の時は王宮近くのホテルに連泊していたので、朝の散歩道など思い出すことができた。
 お目当てのフィヨルドは、前回と別のハダンゲルフィヨルドを大型クルーズで堪能した。初めてのボイエ氷河には感激だった。山合の頂きから裾野にかけて巨大な「白亜の鎧」が覆っていた。「氷河は積雪と違ってブルーの筋が走っている」というガイダンスを眼前の光景で確認した。いずれも心に残る自然美であった。
 ノルウェーには庶民の芸術建築ともいうべき古い木造教会があった。スターブ(支柱式)チャーチと呼ばれ、三角錘形の屋根が幾層にも重なり、ヘビのうろこのような「こけら板」で覆われた屋根の棟木の上にはリュウの頭が突き出ている。1300年代には1000」棟以上もあったといわれるが、現存するのは約30。当時、世界では石造の教会が中心だったが、木の扱いに巧みだった国民の心意気だったのかもしれない。民俗博物館の建物も、構造が巧みで、興味を引いた。
 2度目の旅では、オスロ市内で自由行動の時間に《叫び》の舞台になったとされている場所を探し歩いた。 市中心部から路面電車で10分~15分程にあるエーケベルグ地区の公園だった。 小高い丘の上にあり、オスロ市街を一望できたが、絵に描かれた風景のような場所は見当たらなかった。ムンクが描いた光景は、まさに画家の心象風景だった、と確信した。
 ムンクは日記の中で「陽が沈むとき、空が血のように赤く染まり、青黒いフィヨルドと町の上に血のような雲が垂れかかった。私は恐怖におののいて、立ちすくんだ。そして大きく果てしない叫びが自然をつんざくのを感じた」と記している。北欧特有の暗く寒く長い冬の情景が投影されたインスピレーション作品だったのであろう。
 ノルウェーの旅は、ムンクの《叫び》とともにある。もう一度、オーロラの見られる季節に身を置きたいと願っている。