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紀元後79年、イタリア、ナポリのヴェスヴィオ山噴火により、厚い火山灰の下に埋もれた都市ポンペイは、約1万人が暮らした都市の賑わいをそのまま封じ込めたタイムカプセルともいえる遺跡だ。そのポンペイを訪れたのは、20年以上前の2004年4月だった。遺跡の街を歩き、古代ローマ人の豊かで快適な暮らしを求めていた痕跡に驚愕し、一方で自然災害のすさまじさに戦慄を覚えた。ポンペイは2000年の時を経て掘り出された「人類の宝もの」であり、ポンペイと周辺地域の遺跡は1997年、ユネスコの世界遺産に登録されている。
石畳や柱列…タイムカプセルの世界
まずポンペイの史実をひも解いておこう。79年8月24日午後1時に、300年の眠りから目覚めたヴェスヴィオ火山が大音響とともに噴火した。ポンペイ市民の頭上に、火山灰や焼けた小石が降り注いだ。さらに火砕流や火山灰に混じった高熱の有毒ガスは、逃げ惑う人々に襲い掛かり、2000人以上の命を奪った。その後3日間にわたって、6メートル以上もの火山灰が降り積り、ポンペイの街は、灰の下に埋もれてしまったのだ。
以上のような記録は文献や碑文にはっきり銘記されているにもかかわらず、次第に人々の記憶から忘れ去られた。ところが18世紀に入って、ここに別荘が建てられるようになり、井戸を掘っていて、古代の彫像や円柱などを発見する。1748年になると、ナポリのカルロ王(後のスペイン王カルロスⅢ世)が発掘物を王宮に運ばせ、注目を集める。以来、発掘は2000年以上経た今日まで様々な形で引き継がれている。近年は考古学だけでなく、火山学や人類学の視点もまじえ総合的な調査が行われ、古代の史実に科学的な分析が進んでいる。
ポンペイのことは、「日本におけるイタリア年」が開かれた2001年に開催された「世界遺産 ポンペイ 古代ローマの輝き」を見て、現地を旅したいとの思いを募らせていた。高度な文明を持った都市が、邪馬台国の卑弥呼が登場する前の倭の時代に、こつ然と消滅したのだ。帰国前日、ローマのホテルを早朝5時過ぎに出発した。ナポリから南へ20キロ走ると,やがて車窓の右側にティレニア海、左方に問題の火山が見えてきた。風光明媚なリゾート地として、ローマの貴族たちが別荘を求めたのもうなずける。
青く輝くナポリ湾に臨み、背後に火山がそびえる大地に、古代ローマ時代の都市遺跡ポンペイが広がっていた。豊かな自然と肥沃な土地に恵まれたこの地が、紀元直後の大噴火で、一瞬にして埋没してしまったのだ。その後1700年近くも歴史に埋もれていた。
MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
遺跡はサルノ川の河口近く、海抜約40メートルの高さにある古い溶岩で出来た岸壁の上にあった。石畳を敷き詰めた急な坂道が上の方に続いていた。かつてはここまで海が迫っていたのだろう。坂を上りつめたところに二つの石組のアーチがあった。歩行者のためと、海から魚や塩を運んだ荷車用だ。
マリーナと呼ばれるその海の門をくぐると、遺跡が目の前に開けた。何と石畳で舗装された道が延びていた。芝に覆われた広場の緑がくっきりと目に映えた。在りし日には、ポンペイの全市民が集まることができた公共の広場(フォロ)だ。広場を取り囲んでいる美しい柱列は柱の上に台輪を載せ、さらにその上に柱を建てた2層式の壮麗なものだ。
広場の正面に今は凱旋門と台座しか残ってはいないが、ジュピター神殿の跡である。神殿の背後にヴェスヴィオが位置しているのは、山を崇めての都市設計がなされたためと思われる。悲劇の起こった日も、人々はここに集まってきて火を噴き上げる山を恐ろしい思いで見上げたことだろう。その真後ろから立ち昇る火柱を見ながら、神の怒りと受け止めたのではないかと、想像された。
今もヨーロッパの街を訪ねると、必ずと言っていいほど、広場を取り囲むように市庁舎や教会が建っている。その原型は早くもポンペイに出来あがっていたのだ。広場には時計塔が付き物だが、ここにもあった。西側にアポロ神殿があり、中央祭壇脇に白大理石の円柱の上で日時計が今も時を刻んでいる。アポロのブロンズ像も建っていたが、これはレプリカで、本物はナポリの博物館にあるという。
公共浴場や居酒屋、市民生活生々しく
当時の街の区画がそのまま掘り出されており、過去にタイムスリップした錯覚に陥る。マリーナ門からサルノ門まで約1キロ、広場を突き抜けてほぼ真っ直ぐに道が貫いている。それが当時の目抜き通りのアボンダンツァ通りである。
大きめの平石を敷き詰めた通りには、石と石の隙間に猫目石と呼ばれる白い石が埋め込まれている。それが夜目に光って車道であることを示していたという。車道の両側には歩道も整備され、一階は店舗、二階は住居という商店街が続いていた。店の壁には所々に四角な穴が残っているが、ガイドによると当時そこに松明をかざし、夜の街を照らしていたそうだ。
アボンダンツァ通りを南に折れ、だらだら坂を下りていくと小さな広場が現れる。大きな木がつくる陰の中に高い壁があった。入り口を抜けるとそこは馬蹄形をしたギリシャ様式の大劇場だ。紀元前3世紀から2世紀のもので5000人の観客が収容できるという。
ポンペイは他の遺跡と異なり、市民の生々しい生活の場が見て取れるのが特徴だ。大劇場から東に進んだ辺りで一軒のかつて別荘であった住宅に入った。そこには随所に壁画があったそうで、今は博物館に保存されている。奥の部屋には朱色で壁一面に動物の姿が描かれていた。
アボンダンツァ通りとスタビア通りが交差する位置に公共浴場跡が残る。三方を柱廊が囲み、芝生の運動場まである豪勢なものだ。個人の家には浴室がなかったことから、貧富にかかわらず浴場に通ったようだ。おそらく社交場として、団欒や商売の話しがなされたのであろう。
衝撃的な被災した人間の石膏像多数
ポンペイの遺跡でもっとも衝撃的だったのは、被災した人間の石膏の姿だ。火山灰に埋まった犠牲者の遺体が朽ちると、骨だけ残るが遺骸の中が空洞になっていた。そこへ石膏を流し込むと、当時の遺体の様子が石膏型となって再現される。この方法は1860年代に発掘を指揮していた者が取り入れた。
火山灰から逃げるのをあきらめ横たわっていたり前かがみになった被災者の姿が当時の惨劇をリアルに伝える。ある建物の中では、避難していた50数人が折り重なって見つかった。妊婦の石膏像もあり、いたたまれない気持ちになった。これはポンペイの人たちの人生の最後にして最も悲劇的な瞬間の姿がそっくりそのまま刻印されることを意味していた。運命の日も変わらぬ日常があり、突如襲ってきた惨劇に自分ならどうするだろうか。暗澹たる思いがした。
約2時間かけて、かつての街の遺構が残る「過去の世界」を歩いた。その保存状態の良さに感嘆するばかりだ。さらに2000年も前に水道や舗装道路などの公共施設を設け、建物を整備し、都市を形成、豊かな社会を求めた古代人の知恵に驚かされ通しだった。その建物跡から一日の労働の疲れを浴場でいやし、劇場で芝居を楽しみ、絵画などの芸術を好み、市場で買い物をした市民生活の様子を十分知ることが出来た。
日本も阪神淡路大震災や東日本大震災など自然災害の怖さを経験した。文明の便利さがより被害を過大にする。この旅を通じ、家族との絆や地域社会との共生、文化的な豊かさとは……などを顧みるきっかけを与えてもらった。
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石畳や柱列…タイムカプセルの世界
まずポンペイの史実をひも解いておこう。79年8月24日午後1時に、300年の眠りから目覚めたヴェスヴィオ火山が大音響とともに噴火した。ポンペイ市民の頭上に、火山灰や焼けた小石が降り注いだ。さらに火砕流や火山灰に混じった高熱の有毒ガスは、逃げ惑う人々に襲い掛かり、2000人以上の命を奪った。その後3日間にわたって、6メートル以上もの火山灰が降り積り、ポンペイの街は、灰の下に埋もれてしまったのだ。
以上のような記録は文献や碑文にはっきり銘記されているにもかかわらず、次第に人々の記憶から忘れ去られた。ところが18世紀に入って、ここに別荘が建てられるようになり、井戸を掘っていて、古代の彫像や円柱などを発見する。1748年になると、ナポリのカルロ王(後のスペイン王カルロスⅢ世)が発掘物を王宮に運ばせ、注目を集める。以来、発掘は2000年以上経た今日まで様々な形で引き継がれている。近年は考古学だけでなく、火山学や人類学の視点もまじえ総合的な調査が行われ、古代の史実に科学的な分析が進んでいる。
ポンペイのことは、「日本におけるイタリア年」が開かれた2001年に開催された「世界遺産 ポンペイ 古代ローマの輝き」を見て、現地を旅したいとの思いを募らせていた。高度な文明を持った都市が、邪馬台国の卑弥呼が登場する前の倭の時代に、こつ然と消滅したのだ。帰国前日、ローマのホテルを早朝5時過ぎに出発した。ナポリから南へ20キロ走ると,やがて車窓の右側にティレニア海、左方に問題の火山が見えてきた。風光明媚なリゾート地として、ローマの貴族たちが別荘を求めたのもうなずける。
青く輝くナポリ湾に臨み、背後に火山がそびえる大地に、古代ローマ時代の都市遺跡ポンペイが広がっていた。豊かな自然と肥沃な土地に恵まれたこの地が、紀元直後の大噴火で、一瞬にして埋没してしまったのだ。その後1700年近くも歴史に埋もれていた。
遺跡はサルノ川の河口近く、海抜約40メートルの高さにある古い溶岩で出来た岸壁の上にあった。石畳を敷き詰めた急な坂道が上の方に続いていた。かつてはここまで海が迫っていたのだろう。坂を上りつめたところに二つの石組のアーチがあった。歩行者のためと、海から魚や塩を運んだ荷車用だ。
マリーナと呼ばれるその海の門をくぐると、遺跡が目の前に開けた。何と石畳で舗装された道が延びていた。芝に覆われた広場の緑がくっきりと目に映えた。在りし日には、ポンペイの全市民が集まることができた公共の広場(フォロ)だ。広場を取り囲んでいる美しい柱列は柱の上に台輪を載せ、さらにその上に柱を建てた2層式の壮麗なものだ。
広場の正面に今は凱旋門と台座しか残ってはいないが、ジュピター神殿の跡である。神殿の背後にヴェスヴィオが位置しているのは、山を崇めての都市設計がなされたためと思われる。悲劇の起こった日も、人々はここに集まってきて火を噴き上げる山を恐ろしい思いで見上げたことだろう。その真後ろから立ち昇る火柱を見ながら、神の怒りと受け止めたのではないかと、想像された。
今もヨーロッパの街を訪ねると、必ずと言っていいほど、広場を取り囲むように市庁舎や教会が建っている。その原型は早くもポンペイに出来あがっていたのだ。広場には時計塔が付き物だが、ここにもあった。西側にアポロ神殿があり、中央祭壇脇に白
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
大理石の円柱の上で日時計が今も時を刻んでいる。アポロのブロンズ像も建っていたが、これはレプリカで、本物はナポリの博物館にあるという。
公共浴場や居酒屋、市民生活生々しく
当時の街の区画がそのまま掘り出されており、過去にタイムスリップした錯覚に陥る。マリーナ門からサルノ門まで約1キロ、広場を突き抜けてほぼ真っ直ぐに道が貫いている。それが当時の目抜き通りのアボンダンツァ通りである。
大きめの平石を敷き詰めた通りには、石と石の隙間に猫目石と呼ばれる白い石が埋め込まれている。それが夜目に光って車道であることを示していたという。車道の両側には歩道も整備され、一階は店舗、二階は住居という商店街が続いていた。店の壁には所々に四角な穴が残っているが、ガイドによると当時そこに松明をかざし、夜の街を照らしていたそうだ。
アボンダンツァ通りを南に折れ、だらだら坂を下りていくと小さな広場が現れる。大きな木がつくる陰の中に高い壁があった。入り口を抜けるとそこは馬蹄形をしたギリシャ様式の大劇場だ。紀元前3世紀から2世紀のもので5000人の観客が収容できるという。
ポンペイは他の遺跡と異なり、市民の生々しい生活の場が見て取れるのが特徴だ。大劇場から東に進んだ辺りで一軒のかつて別荘であった住宅に入った。そこには随所に壁画があったそうで、今は博物館に保存されている。奥の部屋には朱色で壁一面に動物の姿が描かれていた。
アボンダンツァ通りとスタビア通りが交差する位置に公共浴場跡が残る。三方を柱廊が囲み、芝生の運動場まである豪勢なものだ。個人の家には浴室がなかったことから、貧富にかかわらず浴場に通ったようだ。おそらく社交場として、団欒や商売の話しがなされたのであろう。
衝撃的な被災した人間の石膏像多数
ポンペイの遺跡でもっとも衝撃的だったのは、被災した人間の石膏の姿だ。火山灰に埋まった犠牲者の遺体が朽ちると、骨だけ残るが遺骸の中が空洞になっていた。そこへ石膏を流し込むと、当時の遺体の様子が石膏型となって再現される。この方法は1860年代に発掘を指揮していた者が取り入れた。
火山灰から逃げるのをあきらめ横たわっていたり前かがみになった被災者の姿が当時の惨劇をリアルに伝える。ある建物の中では、避難していた50数人が折り重なって見つかった。妊婦の石膏像もあり、いたたまれない気持ちになった。これはポンペイの人たちの人生の最後にして最も悲劇的な瞬間の姿がそっくりそのまま刻印されることを意味していた。運命の日も変わらぬ日常があり、突如襲ってきた惨劇に自分ならどうするだろうか。暗澹たる思いがした。
約2時間かけて、かつての街の遺構が残る「過去の世界」を歩いた。その保存状態の良さに感嘆するばかりだ。さらに2000年も前に水道や舗装道路などの公共施設を設け、建物を整備し、都市を形成、豊かな社会を求めた古代人の知恵に驚かされ通しだった。その建物跡から一日の労働の疲れを浴場でいやし、劇場で芝居を楽しみ、絵画などの芸術を好み、市場で買い物をした市民生活の様子を十分知ることが出来た。
日本も阪神淡路大震災や東日本大震災など自然災害の怖さを経験した。文明の便利さがより被害を過大にする。この旅を通じ、家族との絆や地域社会との共生、文化的な豊かさとは……などを顧みるきっかけを与えてもらった。