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知覧、この美しい語感の名を持つ土地は、若い命を散らせた特攻の最前線基地だった。特攻はIS(イスラム国)の自爆テロにも通じる。いずれも大義あっての行為だが、自国防衛のために戦った特攻隊員と無差別攻撃のテロ犯は同列にできない。しかし人が人を殺す「戦争の狂気」がなせる業である。そうした思いを胸に2016年3月中旬、鹿児島県の知覧を訪ねた。
一式戦闘機「隼」型甲をモデルに復元
知覧は太平洋戦争が始まった1941年、陸軍飛行学校の分校として開設された。本土決戦となった沖縄戦における陸軍の特攻作戦は1945年3月から7月まで続いた。知覧を始め、宮崎県の都城、さらには統治下の台湾などからも出撃しているが、知覧基地が本土最南端だったということもあり、戦死した陸軍の特攻隊員1036名のうち、439名にも及ぶ。
知覧を訪ねるなら花見の季節と聞いていた。なるほど知覧特攻平和会館までの道の両側には桜並木が続く。花見には少し速すぎたが、桜を見に来たのではない。敷地内の一角に戦闘機が置かれていた。近づいてみると説明文があり、一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲をモデルに復元されたものとあった。
「隼」は太平洋戦争時、陸軍の主力戦闘機で、知覧の特攻基地からは九七戦闘機に次いで多く120機が飛び立っている。2007年に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(製作総指揮・脚本:石原慎太郎、監督:新城卓)の撮影に使われた「隼」という。
会館周辺には護国神社や1955年に建立された知覧特攻平和観音堂があり、浄財や篤志家によって建てられた特攻勇士の像「とこしえに」(1974年設置)と母の像「やすらかに」(1986年設置)が向かい合うように建っている。一帯にはいくつかの慰霊碑が設けられ、次第に数を増やした灯籠が並び、鎮魂の雰囲気を醸しだしていた。
MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
当時の生活の様子を伝える三角兵舎
会館は1985年から2年かけ工事費5億円を投じ建設された。延べ1600平方メートルの広さで、837平方メートルが遺品室に充てられている。中に入るや、目に飛び込んでくるのが特攻隊員の遺影だ。どの顔も10代と20代の青年の凛々しい顔立ちだ。その下の展示ケースには、死を覚悟した特攻隊員が、家族や友人に宛てた遺書や遺言、遺品などが所この兵舎の中で隊員たちは、日の丸に寄せ書きを書いたり、故郷へ送る遺書や手紙を書いたりしていた。
胸を打つ死を覚悟しての遺書、遺品の数々
知覧を訪ねると、戦闘機や兵舎に目を奪われる。しかし胸を打つのは死を覚悟して死の直前に綴った遺書だ。特攻隊には遺骨はなく、残されたのは遺書と遺品だ。会館に展示された遺書は一日かけても読めないほどだ。母への感謝が多いが、婚約者や恋人へのメッセージもある。そうした無念の心情が痛いほど伝わってくる。
当然ながら、「国(天皇)のために特攻す」と書かれた遺書もあり、最期まで勇敢な意志を誇示している。それが真情であったのか、特攻によって自身が死んでいく理不尽な現実に対し、国のためという言葉によって自分や家族に対し、言い訳や慰めにしていたのではなかったのかとも思える。
そんな一篇を、買い求めた図録冊子『陸軍特別攻撃隊の真実 只一筋に征く』から引用する。
御母様、いよいよこれが最後で御座います。
いよいよ一人前の戦闘操縦者として御役に立つときがきたのです。
御優しい、日本一の御母様。今日トランプ占をしたならば、御母様が一番よくて、将来、最も幸福な日を送ることが出来るそうです。(中略)
短いようで長い十九年間でした。いまはただ求艦必沈に力めます。(中略)
日本一の御母様、いつまでも御元気で居て下さい。(後略)
宇佐美輝夫 少尉(福島県出身、19歳で沖縄周辺にて戦死)
何という切ない言葉の羅列であろう。戦後、平和になった日本は、特攻隊員を祖国を守るために、自らの命を捧げた英霊として顕彰する。残された戦友や家族らは、そう信じなければ、納得がいかなかったのではなかろうか。
「出撃の日に大いなる喜びの日と書いた特攻隊員もいる。また天皇にこの身を捧げると書いた者もいる。そんな彼らは心情的には殉教的自爆テロのテロリストと同じです」との指摘に、「自爆テロの奴らは一般市民を殺戮の対象にしたものだ。無辜(むこ)の民の命を狙ったものだ。特攻で狙ったのは無辜の民が生活するビルではない。爆撃機や戦闘機を積んだ航空母艦だ」と反論する。
確かに特攻と自爆テロでは、自らの意志で志願し、命を賭して決行するが、軍隊や宗教という特殊な組織による洗脳がまったく無かったとは言い切れない。その現実は、英雄でもなければ、狂人でもない。あえていうなら、自らの生涯を意味深いものにしようと悩み苦しむ人間である。
かつて行き詰った日本の軍隊の究極の作戦として考えられた特攻だが、ISによる自爆テロは日常化している。昨今の平和日本では、集団的自衛権が成立し、平和憲法下で専守防衛のはずの自衛隊が他国との交戦の可能性も現実味を帯びてきた。特攻も自爆テロも、高邁な精神に裏打ちされるものではなく、戦争や戦闘の狂気の手段であることを胆に銘じておきたい。日本にとって戦後80年、世界各地で戦火は絶えない。特攻という戦争の愚かさを忘れてはならない。
知覧を飛び立った特攻隊員が、機上から見納めた富士山のように美しい開門岳を、私は池田湖から眺め、平和がどれほど大切なことかの思いを深くした。
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知覧は太平洋戦争が始まった1941年、陸軍飛行学校の分校として開設された。本土決戦となった沖縄戦における陸軍の特攻作戦は1945年3月から7月まで続いた。知覧を始め、宮崎県の都城、さらには統治下の台湾などからも出撃しているが、知覧基地が本土最南端だったということもあり、戦死した陸軍の特攻隊員1036名のうち、439名にも及ぶ。
知覧を訪ねるなら花見の季節と聞いていた。なるほど知覧特攻平和会館までの道の両側には桜並木が続く。花見には少し速すぎたが、桜を見に来たのではない。敷地内の一角に戦闘機が置かれていた。近づいてみると説明文があり、一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲をモデルに復元されたものとあった。
「隼」は太平洋戦争時、陸軍の主力戦闘機で、知覧の特攻基地からは九七戦闘機に次いで多く120機が飛び立っている。2007年に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」(製作総指揮・脚本:石原慎太郎、監督:新城卓)の撮影に使われた「隼」という。
会館周辺には護国神社や1955年に建立された知覧特攻平和観音堂があり、浄財や篤志家によって建てられた特攻勇士の像「とこしえに」(1974年設置)と母の像「やすらかに」(1986年設置)が向かい合うように建っている。一帯にはいくつかの慰霊碑が設けられ、次第に数を増やした灯籠が並び、鎮魂の雰囲気を醸しだしていた。
当時の生活の様子を伝える三角兵舎
会館は1985年から2年かけ工事費5億円を投じ建設された。延べ1600平方メートルの広さで、837平方メートルが遺品室に充てられている。
中に入るや、目に飛び込んでくるのが特攻隊員の遺影だ。どの顔も10代と20代の青年の凛々しい顔立ちだ。その下の展示ケースには、死を覚悟した特攻隊員が、家族や友人に宛てた遺書や遺言、遺品などが所この兵舎の中で隊員たちは、日の丸に寄せ書きを書いたり、故郷へ送る遺書や手紙を書いたりしていた。
胸を打つ死を覚悟しての遺書、遺品の数々
知覧を訪ねると、戦闘機や兵舎に目を奪われる。しかし胸を打つのは死を覚悟して死の直前に綴った遺書だ。特攻隊には遺骨はなく、残されたのは遺書と遺品だ。会館に展示された遺書は一日かけても読めないほどだ。母への感謝が多いが、婚約者や恋人へのメッセージもある。そうした無念の心情が痛いほど伝わってくる。
当然ながら、「国(天皇)のために特攻す」と書かれた遺書もあり、最期まで勇敢な意志を誇示している。それが真情であったのか、特攻によって自身が死んでいく理不尽な現実に対し、国のためという言葉によって自分や家族に対し、言い訳や慰めにしていたのではなかったのかとも思える。
そんな一篇を、買い求めた図録冊子『陸軍特別攻撃隊の真実 只一筋に征く』から引用する。
御母様、いよいよこれが最後で御座います。
いよいよ一人前の戦闘操縦者として御役に立つときがきたのです。
御優しい、日本一の御母様。今日トランプ占をしたならば、御母様が一番よくて、将来、最も幸福な日を送ることが出来るそうです。(中略)
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
短いようで長い十九年間でした。いまはただ求艦必沈に力めます。(中略)
日本一の御母様、いつまでも御元気で居て下さい。(後略)
宇佐美輝夫 少尉(福島県出身、19歳で沖縄周辺にて戦死)
何という切ない言葉の羅列であろう。戦後、平和になった日本は、特攻隊員を祖国を守るために、自らの命を捧げた英霊として顕彰する。残された戦友や家族らは、そう信じなければ、納得がいかなかったのではなかろうか。
「出撃の日に大いなる喜びの日と書いた特攻隊員もいる。また天皇にこの身を捧げると書いた者もいる。そんな彼らは心情的には殉教的自爆テロのテロリストと同じです」との指摘に、「自爆テロの奴らは一般市民を殺戮の対象にしたものだ。無辜(むこ)の民の命を狙ったものだ。特攻で狙ったのは無辜の民が生活するビルではない。爆撃機や戦闘機を積んだ航空母艦だ」と反論する。
確かに特攻と自爆テロでは、自らの意志で志願し、命を賭して決行するが、軍隊や宗教という特殊な組織による洗脳がまったく無かったとは言い切れない。その現実は、英雄でもなければ、狂人でもない。あえていうなら、自らの生涯を意味深いものにしようと悩み苦しむ人間である。
かつて行き詰った日本の軍隊の究極の作戦として考えられた特攻だが、ISによる自爆テロは日常化している。昨今の平和日本では、集団的自衛権が成立し、平和憲法下で専守防衛のはずの自衛隊が他国との交戦の可能性も現実味を帯びてきた。特攻も自爆テロも、高邁な精神に裏打ちされるものではなく、戦争や戦闘の狂気の手段であることを胆に銘じておきたい。日本にとって戦後80年、世界各地で戦火は絶えない。特攻という戦争の愚かさを忘れてはならない。
知覧を飛び立った特攻隊員が、機上から見納めた富士山のように美しい開門岳を、私は池田湖から眺め、平和がどれほど大切なことかの思いを深くした。