MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 新年を迎え平穏と安寧な日々を願うも、ウクライナ戦争に続き中東ガザでの中東の戦乱も越年してしまった。戦争といえば安保世代の筆者にとって、半世紀前に終結したベトナム戦争が頭をかすめる。ベトナムの地が南北に分断されて、東西陣営の軍事衝突が1960年代初頭から1975年まで10年以上も続いたのだった。日米安全保障の下、日本の米軍基地から爆撃機が飛び立った。ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)の「安保ハンタイ」のデモが鮮烈に思い出される。結局、近代兵器を駆使し、50万人以上の兵を投入したアメリカが、ベトナム民衆のゲリラ戦で敗れたのだから驚くべき史実となった。ベトナム戦後、分断国家は統一され、近代化への道を突き進んでいる。ベトナムと日本の国交正常化60周年の一昨年末、18年ぶりにハノイを訪れた。高層ビルが林立し近代化が進むベトナムについてリポートする。

消えてしまった世界遺産のハロン湾の水上生活者
 正式国名のベトナム社会主義共和国は、南北1650キロと長く、冬から春にかけて、北と南の地域では気温が極端に違うのが大きな特色だ。首都ハノイは、ベトナム北部に位置する首都で、南部のホーチミン市に次ぐ第2の都市であり、政治と文化の都である。
 関西空港を午前9時20分発。ベトジェットエア直行便で午後1時05分にハノイのノイバイ国際空港に着いた。日本との時差は2時間なので約6時間足らずの所要時間だった。再訪とはいえ、あの泥沼のような長期の戦争が続いていたベトナムへ簡便に旅ができるとは、感慨深いものがあった。
 この日の宿泊はベトナム北部ハロンで、ハノイからバスで約2時間かかった。1994年にユネスコの自然遺産に登録されたハロン湾は、今回の旅の観光目的地だった。ベトナム戦争のきっかけになったトンキン湾に連なるハロン湾には、1500平方キロにおよぶ海面に約3000もの奇岩の島がそびえ、「海の桂林」とも呼ばれている。翌日3時間のハロン湾クルーズを楽しんだ。
 この地は昔、海底にあり生物の死骸がうず高く積もって石灰岩が形成され、海底が隆起して石灰岩の山岳地帯となった。11万年前もの地球の氷河期に、山岳地帯は沈みはじめ、柔らかい地質の部分は海底に流された。高さがあり、硬い岩の部分だけが、浸食されずに海面に浮かんで残り、ハロン湾の景勝を形づくったという。
 ハロン湾の「ハ」は降りるで、「ロン」は龍の意味を持つ地名で、ベトナム建国にまつわる伝説から、名付けられたという。中国の侵略に苦しんでいた時代、空から舞い降りた龍が、火を吐いて中国船団を撃退し、龍の炎の舌が海に触れて、それが奇岩になったという伝説だ。
 緑豊かな島や、刃で切り裂いたような断崖絶壁の島などを眺めながら、観光船は滑るように走る。波が穏やかで心地よい風が吹き、クルーズには最高だ。途中、二匹の鶏が羽を膨らませて、激しく闘っているイメージの「闘鶏」と名付けられている島があった。また「天国の宮殿」との異名をもつ鍾乳洞に立ち寄った。世界遺産になって、歩道が整備され、ライトアップし幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 ただ水上生活村は世界遺産の海水を汚すとの理由で、10数年前から政府の方針で陸上に揚がって生活することを奨励し始めた。すでに学校は閉鎖され、住民はマンションなどに移住し、あの長閑な光景は見られなくなっていた。

旧大統領官邸が統一会堂と名を変え観光名所に
 私がベトナムを初めて訪れたのは、2006年2月末から3月初めにかけてのこと。この時はホーチミン市のタンソンニャット国際空港に到着した。南ベトナム時代の首都でサイゴンと呼ばれていた。サイゴン陥落から30年余、市街は社会主義国のイメージは無かった。高いビルが建ち外国企業の広告看板が目立ち、街は車やバイクであふれかえっていた。
 到着後真っ先に訪ねたのが南ベトナム時代の大統領官邸だった統一会堂だ。解放軍の戦車がこの官邸を突破し、無血入城した報道写真を見ていただけに、歴史の舞台に立つことに感動した。 南ベトナム政権時代に独立宮殿とよばれた旧大統領官邸で、この建物は、1962年から4年間にわたり建造され、大小1000以上の部屋と、内閣会議室、応接室、宴会室などがある。1975年4月に南ベトナム解放軍の戦車がフェンスを乗り越え、大統領官邸に突入したことにより、ベトナム戦争は終結を迎えた。そして南北の分断国家が統一され、統一会堂と名付けられたわけだ。
 フランス統治のもと、壮麗精緻な彫刻と絢爛豪華の装飾で彩られたコロニアル建築が建てられた。現在もホーチミン市内には、サイゴン中央郵便局や、サイゴン大教会(聖マリア教会)などコロニアル建築が残され、往時の華やかな雰囲気の余韻を今に漂わせている。
 夕刻に街に出た。街角には自転車の前に人力車の着いた乗り物が客を待ち受ける。かつて統治していたフランスからの観光客も多い。通りで果物を売る出稼ぎも見かけた。ベンタイン市場を散策した。肉や魚、野菜、フルーツなどの食材を扱う屋台で賑わい、場内には生活用品店に衣類、雑貨など多彩な小売店が軒を連ね、東南アジアならではの喧騒と活気を感じたのだった。
 翌朝、ホーチミンから車で1時間30分ほど走った場所にあるミトーの船着場からメコン川クルーズに出向いた。メコン川はチベット高原に源流を発し、タイ、ラオスカンボジアを経てベトナム南部のデルタに抜ける4000キロに及ぶ。マングローブの森が広がるメコン川を手こぎボートでゆっくりと移動し、トイソン島へ。かつてゲリラ戦が繰り広げられたメコン川で、平和な時代になったこその光景に浸った。
経済発展の最中、枯葉剤など戦争後遺症なお
 ベトナムはいま経済発展の最中にあり、日本からの企業進出も顕著だ。2022年のGDP経済成長は、国内外の変動にも関わらず8.02パーセントにも達している。東日本大震災に伴う原発事故後も、日本からの原発を輸入する方針に変わりない。
 インドシナ半島にあって、長く戦火にまみれてきたベトナム会主義国。長い国境線を接し、東西のイデオロギーや大国のエゴに翻弄されてきた。ベトナム戦争が「民主主義」と「共産主義」のイデオロギーの戦いであったことは事実だ。
 しかしアメリカ映画の『地獄の黙示録』のように、戦争とは狂気であり、戦地は地獄なのだ。北ベトナムが母国を守る戦いであっても、アメリカは「共産主義」イデオロギーに基づいた抗戦であるから民主主義の敵であり"悪である"とする理論付けて、徹底的な化学兵器攻撃を用いて、無差別に人民を殺した。
 この化学兵器の影響に受けて、身体に障害を持つ人たちが刺?工場で働いていた。この人たちは当然、ベトナム戦争を体験していない。撒かれた枯葉剤によって胎内で影響を受け生まれたのだ。地雷で身体に傷がついた人も見かけた。しかし街には活力があふれ、ベトナム人の持つ特有の明るさに救われる思いがした。
 ベトナムを旅して、かつてこの土地であの「理解し難い戦争」が行われたとは思えないほどだった。現在、日本で働く海外の労働者で一番多いのがベトナム人で、46万人以上を数える。日本の米軍基地から空爆の戦闘機が発進していたこともあり、日本は経済や文化の発展に寄与することに罪滅ぼしの感もぬぐえない。
 ベトナムと同様に、ウクライナも一方的に侵攻され、多くの国民が犠牲になっている図式は変わらない。アメリカやNATO加盟各国から軍事支援を受けるウクライナが、ベトナム戦争同様、大国のロシアに勝てるかもしれない。ウクライナに一日も早い平和と、戦後の経済発展を祈らずにはいられない。
Copyright©2003-2024 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
■この指とまれ
■PDFインデックス
■ちょっとおじゃまします                   
■元気の出てくることばたち
 新年を迎え平穏と安寧な日々を願うも、ウクライナ戦争に続き中東ガザでの中東の戦乱も越年してしまった。戦争といえば安保世代の筆者にとって、半世紀前に終結したベトナム戦争が頭をかすめる。ベトナムの地が南北に分断されて、東西陣営の軍事衝突が1960年代初頭から1975年まで10年以上も続いたのだった。日米安全保障の下、日本の米軍基地から爆撃機が飛び立った。ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)の「安保ハンタイ」のデモが鮮烈に思い出される。結局、近代兵器を駆使し、50万人以上の兵を投入したアメリカが、ベトナム民衆のゲリラ戦で敗れたのだから驚くべき史実となった。ベトナム戦後、分断国家は統一され、近代化への道を突き進んでいる。ベトナムと日本の国交正常化60周年の一昨年末、18年ぶりにハノイを訪れた。高層ビルが林立し近代化が進むベトナムについてリポートする。

消えてしまった世界遺産のハロン湾の水上生活者
 正式国名のベトナム社会主義共和国は、南北1650キロと長く、冬から春にかけて、北と南の地域では気温が極端に違うのが大きな特色だ。首都ハノイは、ベトナム北部に位置する首都で、南部のホーチミン市に次ぐ第2の都市であり、政治と文化の都である。
 関西空港を午前9時20分発。ベトジェットエア直行便で午後1時05分にハノイのノイバイ国際空港に着いた。日本との時差は2時間なので約6時間足らずの所要時間だった。再訪とはいえ、あの泥沼のような長期の戦争が続いていたベトナムへ簡便に旅ができるとは、感慨深いものがあった。
 この日の宿泊はベトナム北部ハロンで、ハノイからバスで約2時間かかった。1994年にユネスコの自然遺産に登録されたハロン湾は、今回の旅の観光目的地だった。ベトナム戦争のきっかけになったトンキン湾に連なるハロン湾には、1500平方キロにおよぶ海面に約3000もの奇岩の島がそびえ、「海の桂林」とも呼ばれている。翌日3時間のハロン湾クルーズを楽しんだ。
 この地は昔、海底にあり生物の死骸がうず高く積もって石灰岩が形成され、海底が隆起して石灰岩の山岳地帯となった。11万年前もの地球の氷河期に、山岳地帯は沈みはじめ、柔らかい地質の部分は海底に流された。高さがあり、硬い岩の部分だけが、浸食されずに海面に浮かんで残り、ハロン湾の景勝を形づくったという。
 ハロン湾の「ハ」は降りるで、「ロン」は龍の意味を持つ地名で、ベトナム建国にまつわる伝説から、名付けられたという。中国の侵略に苦しんでいた時代、空から舞い降りた龍が、火を吐いて中国船団を撃退し、龍の炎の舌が海に触れて、それが奇岩になったという伝説だ。
 緑豊かな島や、刃で切り裂いたような断崖絶壁の島などを眺めながら、観光船は滑るように走る。波が穏やかで心地よい風が吹き、クルーズには最高だ。途中、二匹の鶏が羽を膨らませて、激しく闘っているイメージの「闘鶏」と名付けられている島があった。また「天国の宮殿」との異名をもつ鍾乳洞に立ち寄った。世界遺産になって、歩道が整備され、ライトアップし幻想的な雰囲気を醸し出していた。
MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 ただ水上生活村は世界遺産の海水を汚すとの理由で、10数年前から政府の方針で陸上に揚がって生活することを奨励し始めた。すでに学校は閉鎖され、住民はマンションなどに移住し、あの長閑な光景は見られなくなっていた。

旧大統領官邸が統一会堂と名を変え観光名所に
 私がベトナムを初めて訪れたのは、2006年2月末から3月初めにかけてのこと。この時はホーチミン市のタンソンニャット国際空港に到着した。南ベトナム時代の首都でサイゴンと呼ばれていた。サイゴン陥落から30年余、市街は社会主義国のイメージは無かった。高いビルが建ち外国企業の広告看板が目立ち、街は車やバイクであふれかえっていた。
 到着後真っ先に訪ねたのが南ベトナム時代の大統領官邸だった統一会堂だ。解放軍の戦車がこの官邸を突破し、無血入城した報道写真を見ていただけに、歴史の舞台に立つことに感動した。 南ベトナム政権時代に独立宮殿とよばれた旧大統領官邸で、この建物は、1962年から4年間にわたり建造され、大小1000以上の部屋と、内閣会議室、応接室、宴会室などがある。1975年4月に南ベトナム解放軍の戦車がフェンスを乗り越え、大統領官邸に突入したことにより、ベトナム戦争は終結を迎えた。そして南北の分断国家が統一され、統一会堂と名付けられたわけだ。
 フランス統治のもと、壮麗精緻な彫刻と絢爛豪華の装飾で彩られたコロニアル建築が建てられた。現在もホーチミン市内には、サイゴン中央郵便局や、サイゴン大教会(聖マリア教会)などコロニアル建築が残され、往時の華やかな雰囲気の余韻を今に漂わせている。
 夕刻に街に出た。街角には自転車の前に人力車の着いた乗り物が客を待ち受ける。かつて統治していたフランスからの観光客も多い。通りで果物を売る出稼ぎも見かけた。ベンタイン市場を散策した。肉や魚、野菜、フルーツなどの食材を扱う屋台で賑わい、場内には生活用品店に衣類、雑貨など多彩な小売店が軒を連ね、東南アジアならではの喧騒と活気を感じたのだった。
 翌朝、ホーチミンから車で1時間30分ほど走った場所にあるミトーの船着場からメコン川クルーズに出向いた。メコン川はチベット高原に源流を発し、タイ、ラオスカンボジアを経てベトナム南部のデルタに抜ける4000キロに及ぶ。マングローブの森が広がるメコン川を手こぎボートでゆっくりと移動し、トイソン島へ。かつてゲリラ戦が繰り広げられたメコン川で、平和な時代になったこその光景に浸った。
経済発展の最中、枯葉剤など戦争後遺症なお
 ベトナムはいま経済発展の最中にあり、日本からの企業進出も顕著だ。2022年のGDP経済成長は、国内外の変動にも関わらず8.02パーセントにも達している。東日本大震災に伴う原発事故後も、日本からの原発を輸入する方針に変わりない。
 インドシナ半島にあって、長く戦火にまみれてきたベトナム会主義国。長い国境線を接し、東西のイデオロギーや大国のエゴに翻弄されてきた。ベトナム戦争が「民主主義」と「共産主義」のイデオロギーの戦いであったことは事実だ。
 しかしアメリカ映画の『地獄の黙示録』のように、戦争とは狂気であり、戦地は地獄なのだ。北ベトナムが母国を守る戦いであっても、アメリカは「共産主義」イデオロギーに基づいた抗戦であるから民主主義の敵であり"悪である"とする理論付けて、徹底的な化学兵器攻撃を用いて、無差別に人民を殺した。
 この化学兵器の影響に受けて、身体に障害を持つ人たちが刺?工場で働いていた。この人たちは当然、ベトナム戦争を体験していない。撒かれた枯葉剤によって胎内で影響を受け生まれたのだ。地雷で身体に傷がついた人も見かけた。しかし街には活力があふれ、ベトナム人の持つ特有の明るさに救われる思いがした。
 ベトナムを旅して、かつてこの土地であの「理解し難い戦争」が行われたとは思えないほどだった。現在、日本で働く海外の労働者で一番多いのがベトナム人で、46万人以上を数える。日本の米軍基地から空爆の戦闘機が発進していたこともあり、日本は経済や文化の発展に寄与することに罪滅ぼしの感もぬぐえない。
 ベトナムと同様に、ウクライナも一方的に侵攻され、多くの国民が犠牲になっている図式は変わらない。アメリカやNATO加盟各国から軍事支援を受けるウクライナが、ベトナム戦争同様、大国のロシアに勝てるかもしれない。ウクライナに一日も早い平和と、戦後の経済発展を祈らずにはいられない。
Copyright©2003-2024 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
 新年を迎え平穏と安寧な日々を願うも、ウクライナ戦争に続き中東ガザでの中東の戦乱も越年してしまった。戦争といえば安保世代の筆者にとって、半世紀前に終結したベトナム戦争が頭をかすめる。ベトナムの地が南北に分断されて、東西陣営の軍事衝突が1960年代初頭から1975年まで10年以上も続いたのだった。日米安全保障の下、日本の米軍基地から爆撃機が飛び立った。ベ平連(ベトナムに平和を市民連合)の「安保ハンタイ」のデモが鮮烈に思い出される。結局、近代兵器を駆使し、50万人以上の兵を投入したアメリカが、ベトナム民衆のゲリラ戦で敗れたのだから驚くべき史実となった。ベトナム戦後、分断国家は統一され、近代化への道を突き進んでいる。ベトナムと日本の国交正常化60周年の一昨年末、18年ぶりにハノイを訪れた。高層ビルが林立し近代化が進むベトナムについてリポートする。

消えてしまった世界遺産のハロン湾の水上生活者
 正式国名のベトナム社会主義共和国は、南北1650キロと長く、冬から春にかけて、北と南の地域では気温が極端に違うのが大きな特色だ。首都ハノイは、ベトナム北部に位置する首都で、南部のホーチミン市に次ぐ第2の都市であり、政治と文化の都である。
 関西空港を午前9時20分発。ベトジェットエア直行便で午後1時05分にハノイのノイバイ国際空港に着いた。日本との時差は2時間なので約6時間足らずの所要時間だった。再訪とはいえ、あの泥沼のような長期の戦争が続いていたベトナムへ簡便に旅ができるとは、感慨深いものがあった。
 この日の宿泊はベトナム北部ハロンで、ハノイからバスで約2時間かかった。1994年にユネスコの自然遺産に登録されたハロン湾は、今回の旅の観光目的地だった。ベトナム戦争のきっかけになったトンキン湾に連なるハロン湾には、1500平方キロにおよぶ海面に約3000もの奇岩の島がそびえ、「海の桂林」とも呼ばれている。翌日3時間のハロン湾クルーズを楽しんだ。
 この地は昔、海底にあり生物の死骸がうず高く積もって石灰岩が形成され、海底が隆起して石灰岩の山岳地帯となった。11万年前もの地球の氷河期に、山岳地帯は沈みはじめ、柔らかい地質の部分は海底に流された。高さがあり、硬い岩の部分だけが、浸食されずに海面に浮かんで残り、ハロン湾の景勝を形づくったという。
 ハロン湾の「ハ」は降りるで、「ロン」は龍の意味を持つ地名で、ベトナム建国にまつわる伝説から、名付けられたという。中国の侵略に苦しんでいた時代、空から舞い降りた龍が、火を吐いて中国船団を撃退し、龍の炎の舌が海に触れて、それが奇岩になったという伝説だ。
 緑豊かな島や、刃で切り裂いたような断崖絶壁の島などを眺めながら、観光船は滑るように走る。波が穏やかで心地よい風が吹き、クルーズには最高だ。途中、二匹の鶏が羽を膨らませて、激しく闘っているイメージの「闘鶏」と名付けられている島があった。また「天国の宮殿」との異名をもつ鍾乳洞に立ち寄った。世界遺産になって、歩道が整備され、ライトアップし幻想的な雰囲気を醸し出していた。
 ただ水上生活村は世界遺産の海水を汚すとの理由で、10数年前から政府の方針で陸上に揚がって生活することを奨励し始めた。すでに学校は閉鎖され、住民はマンションなどに移住し、あの長閑な光景は見られなくなっていた。

旧大統領官邸が統一会堂と名を変え観光名所に
 私がベトナムを初めて訪れたのは、2006年2月末から3月初めにかけてのこと。この時はホーチミン市のタンソンニャット国際空港に到着した。南ベトナム時代の首都でサイゴンと呼ばれていた。サイゴン陥落から30年余、市街は社会主義国のイメージは無かった。高いビルが建ち外国企業の広告看板が目立ち、街は車やバイクであふれかえっていた。
 到着後真っ先に訪ねたのが南ベトナム時代の大統領官邸だった統一会堂だ。解放軍の戦車がこの官邸を突破し、無血入城した報道写真を見ていただけに、歴史の舞台に立つことに感動した。 南ベトナム政権時代に独立宮殿とよばれた旧大統領官邸で、この建物は、1962年から4年間にわたり建造され、大小1000以上の部屋と、内閣会議室、応接室、宴会室などがある。1975年4月に南ベトナム解放軍の戦車がフェンスを乗り越え、大統領官邸に突入したことにより、ベトナム戦争は終結を迎えた。そして南北の分断国家が統一され、統一会堂と名付けられたわけだ。
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
 フランス統治のもと、壮麗精緻な彫刻と絢爛豪華の装飾で彩られたコロニアル建築が建てられた。現在もホーチミン市内には、サイゴン中央郵便局や、サイゴン大教会(聖マリア教会)などコロニアル建築が残され、往時の華やかな雰囲気の余韻を今に漂わせている。
 夕刻に街に出た。街角には自転車の前に人力車の着いた乗り物が客を待ち受ける。かつて統治していたフランスからの観光客も多い。通りで果物を売る出稼ぎも見かけた。ベンタイン市場を散策した。肉や魚、野菜、フルーツなどの食材を扱う屋台で賑わい、場内には生活用品店に衣類、雑貨など多彩な小売店が軒を連ね、東南アジアならではの喧騒と活気を感じたのだった。
 翌朝、ホーチミンから車で1時間30分ほど走った場所にあるミトーの船着場からメコン川クルーズに出向いた。メコン川はチベット高原に源流を発し、タイ、ラオスカンボジアを経てベトナム南部のデルタに抜ける4000キロに及ぶ。マングローブの森が広がるメコン川を手こぎボートでゆっくりと移動し、トイソン島へ。かつてゲリラ戦が繰り広げられたメコン川で、平和な時代になったこその光景に浸った。

経済発展の最中、枯葉剤など戦争後遺症なお
 ベトナムはいま経済発展の最中にあり、日本からの企業進出も顕著だ。2022年のGDP経済成長は、国内外の変動にも関わらず8.02パーセントにも達している。東日本大震災に伴う原発事故後も、日本からの原発を輸入する方針に変わりない。
 インドシナ半島にあって、長く戦火にまみれてきたベトナム会主義国。長い国境線を接し、東西のイデオロギーや大国のエゴに翻弄されてきた。ベトナム戦争が「民主主義」と「共産主義」のイデオロギーの戦いであったことは事実だ。
 しかしアメリカ映画の『地獄の黙示録』のように、戦争とは狂気であり、戦地は地獄なのだ。北ベトナムが母国を守る戦いであっても、アメリカは「共産主義」イデオロギーに基づいた抗戦であるから民主主義の敵であり"悪である"とする理論付けて、徹底的な化学兵器攻撃を用いて、無差別に人民を殺した。
 この化学兵器の影響に受けて、身体に障害を持つ人たちが刺?工場で働いていた。この人たちは当然、ベトナム戦争を体験していない。撒かれた枯葉剤によって胎内で影響を受け生まれたのだ。地雷で身体に傷がついた人も見かけた。しかし街には活力があふれ、ベトナム人の持つ特有の明るさに救われる思いがした。
 ベトナムを旅して、かつてこの土地であの「理解し難い戦争」が行われたとは思えないほどだった。現在、日本で働く海外の労働者で一番多いのがベトナム人で、46万人以上を数える。日本の米軍基地から空爆の戦闘機が発進していたこともあり、日本は経済や文化の発展に寄与することに罪滅ぼしの感もぬぐえない。
 ベトナムと同様に、ウクライナも一方的に侵攻され、多くの国民が犠牲になっている図式は変わらない。アメリカやNATO加盟各国から軍事支援を受けるウクライナが、ベトナム戦争同様、大国のロシアに勝てるかもしれない。ウクライナに一日も早い平和と、戦後の経済発展を祈らずにはいられない。