MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 新年の旧正月は1月29日だ。中国では「春節」として国を挙げてお祝いするが、日本でも旧暦で暮らす所も残っている。故郷でもないのに「お正月は久高(くだか)に帰る」と言う大阪在住の知人に誘われ、沖縄の小さな島で旧正月を過ごしたことがあった。約20年前のことになったが、5日間を新しい年を祝う行事や、浜辺での祝宴にも加わった。島の人と交わった体験は脳裏に刻まれ、お正月が来るたびに思い起される。久高島は琉球開闢(かいびゃく)、五穀発祥の聖地とされる神秘に満ちた島だった。ここには都会人が忘れかけた文化本来の原型が息づいていた。

一年の健康祈願や大漁を願って祝事
 那覇空港から車で約1時間、那覇空港から沖縄本島南城市の安座真港へ。一日5便(現在は6便)の連絡船に乗って、30分足らずで久高島の徳仁港に着いた。旧暦の大晦日、島で唯一の宿である久高島宿泊交流館に泊まった。
 翌朝、宿の人や泊まり合わせた旅の人たちと、時期はずれの「明けましておめでとうございます」の挨拶。7時18分の初日の出は悪天候で断念、あまりの寒さに布団に逆戻りした。再び眠りについたが、どこからともなく流れてくる三線(さんしん)の音で目覚めた。
 その音に引き寄せられ赴いた所は、外間(ふかま)殿と呼ばれる祭場。そこでは島の人たちが一年の健康祈願をする盃事が行われていた。殿(トゥン)では、島びとたちが2人一組になり、祭事をつかさどる外間ヌル、根神(ニーガン)や居神(ギイガミ)らの前に進み、決まりごとに従い泡盛の盃を交わす。
 こうした神事が終わると、庭に出て来て、三線と太鼓の囃子に合わせ、手を振りかざしカチャーシー舞いをする。庭では島の人らが泡盛にイモと魚の料理を味わいながら、談笑し、舞いに合わせ手拍子を打つ。こうした島ぐるみの正月行事が延々と繰り広げられていた。私どもよそ者も歓迎され、ご相伴に預かった。
 正月2日には、島の神職の一人である真栄田苗さん(当時64歳)に案内していただき、最北端の岬までハイキング。集落を抜けると、海岸線を隠すようにアダンやビロウの樹林が続く。途中、五穀の種が入った黄金の壷が流れ着いたという伊敷浜で、太平洋に昇る朝日を拝した。伊敷浜は数ある遥拝所の一つだ。島の人はこの浜で3個の石を拾い、家に持ち帰ってお祈りをし、翌年に浜に返す習わしだ。3個は天と地と海を表し、自然の恵みに感謝の気持ち捧げるそうだ。

 アマミキヨが降臨して創った琉球開闢七御嶽(うたき)の第一の霊地とされるフボー御嶽は男子禁制の地だ。この島は「女が男を守るクニ」とされてきた。1978年を最後に途絶えた「イザイホー」は12年に一度、午年の旧暦11月15日から5日間かけて行われた神事とこと。30歳以上の女性が巫女(みこ)になる厳かなる儀式で、「神の島」と言われる由縁も納得がいく。島の人々の祈りは、まず地球上のすべてに、次に子孫の未来へ、そして最後に自分のことをお願いすると聞いた。
 浜辺では漁師たちが車座になって「初興(うく)し」といった祝事の習わしもある。新年の大漁を願っての行事だ。ここでも三線と太鼓、そして沖縄の祝い歌が披露されていた。昼前から集い始め夕刻まで飲み歌い踊る。近年はこうした島の行事に旅の人も参加する。一度訪れ忘れない思い出となった若い女性らがリピータとなるのだ。

無人資料館に作家たちの手書き文章
 正月3日は所在ないまま、島内を歩いていて、「世界一小さな資料館」の看板文字に目を止めた。古い民家の門をくぐると、「久高島無人民藝館」の木製看板がかかっていた。土間から見上げると、これも古ぼけたケースにほこりまみれの民具が置いてあった。とても上質のものとはいえないが、土着の臭いのする味わい深いものだった。
 座敷の4―5畳の部屋には神棚があり、正月飾りが供えられていた。みしみし音のする畳の部屋に上がりこみ、茶棚をのぞくと、この島に伝わる神事について書かれた本や写真集が数多く置かれてあった。無人なので、なんだか気が引けたが、さらに奥の部屋には、新聞の切抜きを貼ったスクラップブックや、ここを訪れた人たちの感想文などが見つかった。
 私はすっかり嬉しくなって、どっかり腰をおろして読み始めた。その中に作家たちの自筆の文章も交じっていた。

島の方々のこまやかな御心づかい、繊細な感受性をつよく感じました。イザイホウそのものはヤマトの者たちが失なった善き意味での文化の総結集の形であると見さていただきました。(中略)久高の言葉や昔語を伝承されますよう、いつまでも神の島でありますようお願いいたします。(石牟礼道子)

久高島のイザイホーや久高島の歴史は謎にみちているように思われます。(中略)テレビの「ふるさと祭り」式のようなものに、イザイホーなどを出演させるようなことは決してなさらないで下さい。神事は芸能ではないのですし、そういうことをなされるのなら、やがて人びとの足も久高島を離れるでありましょう。(色川大吉)
途絶えた神事「イザイホー」をしのぶ
 時間の経つのも忘れ読みふけった。私はこのちっぽけな資料館で、寒さも忘れるほどに、刺激を受け、心に残る大きな収穫を得ることができた。
 この島には画家の岡本太郎さんも生前、何度か訪れており、毎日出版文化賞を受賞した名著『沖縄文化論』(中公文庫)の中で取り上げていた。1966年のイザイホーを見聞した印象をこう記している。

女たちはゆるやかに進みながら、ときどきそろって半歩、左足をずらす。白砂の上に素足のなまなましさ。その肌の色が私にはこの祭りのカナメのように思えた。突然、頭の上に切り裂くような金属音.見上げると、キラッと光った三角形。鋭い刃をつらねた怪鳥のようなジェット編隊が、白い筋を引いて矢のように過ぎる。不協和なあいの手だ。だが白衣の踊りの輪は静かに流れてゆく。

 「イザイホー」はもう復活しないであろう。でも岡本さんの絵画的な描写に情景が思い浮かんだ。さらにこの島の神事を撮り続け61歳の生涯を閉じた比嘉康雄さんの残した写真で、その模様を伺い知ることができた。
 わずか5日間の生活だったが、この島には信号機が無ければ警察官も居ない。もっとも驚くべきことは、この島には、土地の私有は認められていない。相互扶助的な総有制度になっていて、細切れの畑は一定年齢期限だけ耕作権が与えられる地割り制度になっているのだ。島びとたちは、現代社会に失われたコミュニティ社会を築いている。
 島の大きな出来事は、正月をはじめ島ぐるみの年中行事なのだ。神事がすべてに優先する。「神の島」ならではのしきたりだ。困った時の神頼みで、神社でもお寺でも、自分の幸せだけを祈りがちな信仰心の薄い私たちとは雲泥の差だ。
 初めての地であったが、心をいやす不思議な魅力があった。何でもお金で買える時代に、もっと大切な精神世界があることを認識させてくれた。帰路、遠ざかる島に連絡船の甲板から「ありがとう」となんども声をかけずにいられなかった。
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■この指とまれ
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■ちょっとおじゃまします                   
■元気の出てくることばたち
 新年の旧正月は1月29日だ。中国では「春節」として国を挙げてお祝いするが、日本でも旧暦で暮らす所も残っている。故郷でもないのに「お正月は久高(くだか)に帰る」と言う大阪在住の知人に誘われ、沖縄の小さな島で旧正月を過ごしたことがあった。約20年前のことになったが、5日間を新しい年を祝う行事や、浜辺での祝宴にも加わった。島の人と交わった体験は脳裏に刻まれ、お正月が来るたびに思い起される。久高島は琉球開闢(かいびゃく)、五穀発祥の聖地とされる神秘に満ちた島だった。ここには都会人が忘れかけた文化本来の原型が息づいていた。

一年の健康祈願や大漁を願って祝事
 那覇空港から車で約1時間、那覇空港から沖縄本島南城市の安座真港へ。一日5便(現在は6便)の連絡船に乗って、30分足らずで久高島の徳仁港に着いた。旧暦の大晦日、島で唯一の宿である久高島宿泊交流館に泊まった。
 翌朝、宿の人や泊まり合わせた旅の人たちと、時期はずれの「明けましておめでとうございます」の挨拶。7時18分の初日の出は悪天候で断念、あまりの寒さに布団に逆戻りした。再び眠りについたが、どこからともなく流れてくる三線(さんしん)の音で目覚めた。
 その音に引き寄せられ赴いた所は、外間(ふかま)殿と呼ばれる祭場。そこでは島の人たちが一年の健康祈願をする盃事が行われていた。殿(トゥン)では、島びとたちが2人一組になり、祭事をつかさどる外間ヌル、根神(ニーガン)や居神(ギイガミ)らの前に進み、決まりごとに従い泡盛の盃を交わす。
 こうした神事が終わると、庭に出て来て、三線と太鼓の囃子に合わせ、手を振りかざしカチャーシー舞いをする。庭では島の人らが泡盛にイモと魚の料理を味わいながら、談笑し、舞いに合わせ手拍子を打つ。こうした島ぐるみの正月行事が延々と繰り広げられていた。私どもよそ者も歓迎され、ご相伴に預かった。
 正月2日には、島の神職の一人である真栄田苗さん(当時64歳)に案内していただき、最北端の岬までハイキング。集落を抜けると、海岸線を隠すようにアダンやビロウの樹林が続く。途中、五穀の種が入った黄金の壷が流れ着いたという伊敷浜で、太平洋に昇る朝日を拝した。伊敷浜は数ある遥拝所の一つだ。島の人はこの浜で3個の石を拾い、家に持ち帰ってお祈りをし、翌年に浜に返す習わしだ。3個は天と地と海を表し、自然の恵みに感謝の気持ち捧げるそうだ。

MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 アマミキヨが降臨して創った琉球開闢七御嶽(うたき)の第一の霊地とされるフボー御嶽は男子禁制の地だ。この島は「女が男を守るクニ」とされてきた。1978年を最後に途絶えた「イザイホー」は12年に一度、午年の旧暦11月15日から5日間かけて行われた神事とこと。30歳以上の女性が巫女(みこ)になる厳かなる儀式で、「神の島」と言われる由縁も納得がいく。島の人々の祈りは、まず地球上のすべてに、次に子孫の未来へ、そして最後に自分のことをお願いすると聞いた。
 浜辺では漁師たちが車座になって「初興(うく)し」といった祝事の習わしもある。新年の大漁を願っての行事だ。ここでも三線と太鼓、そして沖縄の祝い歌が披露されていた。昼前から集い始め夕刻まで飲み歌い踊る。近年はこうした島の行事に旅の人も参加する。一度訪れ忘れない思い出となった若い女性らがリピータとなるのだ。

無人資料館に作家たちの手書き文章
 正月3日は所在ないまま、島内を歩いていて、「世界一小さな資料館」の看板文字に目を止めた。古い民家の門をくぐると、「久高島無人民藝館」の木製看板がかかっていた。土間から見上げると、これも古ぼけたケースにほこりまみれの民具が置いてあった。とても上質のものとはいえないが、土着の臭いのする味わい深いものだった。
 座敷の4―5畳の部屋には神棚があり、正月飾りが供えられていた。みしみし音のする畳の部屋に上がりこみ、茶棚をのぞくと、この島に伝わる神事について書かれた本や写真集が数多く置かれてあった。無人なので、なんだか気が引けたが、さらに奥の部屋には、新聞の切抜きを貼ったスクラップブックや、ここを訪れた人たちの感想文などが見つかった。
 私はすっかり嬉しくなって、どっかり腰をおろして読み始めた。その中に作家たちの自筆の文章も交じっていた。
島の方々のこまやかな御心づかい、繊細な感受性をつよく感じました。イザイホウそのものはヤマトの者たちが失なった善き意味での文化の総結集の形であると見さていただきました。(中略)久高の言葉や昔語を伝承されますよう、いつまでも神の島でありますようお願いいたします。(石牟礼道子)

久高島のイザイホーや久高島の歴史は謎にみちているように思われます。(中略)テレビの「ふるさと祭り」式のようなものに、イザイホーなどを出演させるようなことは決してなさらないで下さい。神事は芸能ではないのですし、そういうことをなされるのなら、やがて人びとの足も久高島を離れるでありましょう。(色川大吉)

途絶えた神事「イザイホー」をしのぶ
 時間の経つのも忘れ読みふけった。私はこのちっぽけな資料館で、寒さも忘れるほどに、刺激を受け、心に残る大きな収穫を得ることができた。
 この島には画家の岡本太郎さんも生前、何度か訪れており、毎日出版文化賞を受賞した名著『沖縄文化論』(中公文庫)の中で取り上げていた。1966年のイザイホーを見聞した印象をこう記している。

女たちはゆるやかに進みながら、ときどきそろって半歩、左足をずらす。白砂の上に素足のなまなましさ。その肌の色が私にはこの祭りのカナメのように思えた。突然、頭の上に切り裂くような金属音.見上げると、キラッと光った三角形。鋭い刃をつらねた怪鳥のようなジェット編隊が、白い筋を引いて矢のように過ぎる。不協和なあいの手だ。だが白衣の踊りの輪は静かに流れてゆく。

 「イザイホー」はもう復活しないであろう。でも岡本さんの絵画的な描写に情景が思い浮かんだ。さらにこの島の神事を撮り続け61歳の生涯を閉じた比嘉康雄さんの残した写真で、その模様を伺い知ることができた。
 わずか5日間の生活だったが、この島には信号機が無ければ警察官も居ない。もっとも驚くべきことは、この島には、土地の私有は認められていない。相互扶助的な総有制度になっていて、細切れの畑は一定年齢期限だけ耕作権が与えられる地割り制度になっているのだ。島びとたちは、現代社会に失われたコミュニティ社会を築いている。
 島の大きな出来事は、正月をはじめ島ぐるみの年中行事なのだ。神事がすべてに優先する。「神の島」ならではのしきたりだ。困った時の神頼みで、神社でもお寺でも、自分の幸せだけを祈りがちな信仰心の薄い私たちとは雲泥の差だ。
 初めての地であったが、心をいやす不思議な魅力があった。何でもお金で買える時代に、もっと大切な精神世界があることを認識させてくれた。帰路、遠ざかる島に連絡船の甲板から「ありがとう」となんども声をかけずにいられなかった。
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 いくつもの文化・文明が交差し重層化してきた遺跡の宝庫、トルコへの旅は宿願だった。ギリシャの詩人、ホメロスの叙事詩『イーリアス』の舞台となったトロイの遺跡や、凝灰岩の台地が侵食されてできたカッパドキアの奇観は一度目にしておきたかった。そしてシルクロード踏査の夢を実現するためにも、アジアとヨーロッパの二つの大陸を結ぶトルコは要所なのだ。2006年12月、16日間かけて19を数える世界遺産の8つを中心に巡ってきた。2024年、日本とトルコは外交関係樹立100周年を迎えた。親日的なトルコとの友好の原点は和歌山にある。両国の絆をつないだ物語にも触れておく。

伝説の地トロイや、巨大な遺跡ベルガモ
 トルコへは関西空港からソウルの仁川空港を経由して、深夜にイスタンブールに到着した。歴代スルタンの居城であったトプカプ宮殿の観光は最終日になった。到着の翌朝、黒海とマルマラ海をつなぐボスポラス海峡を渡りヨーロッパ圏からアジア圏へ。
 ホメロスの叙事詩に名高いトロイの遺跡は、ダーダネルス海峡の港町チャナッカレ郊外の丘にあり、世界遺産(1998年登録)の一つだ。トロイは長い間、ホメロスのフィクションの都市と思われていた。しかし実在すると信じてやまなかったドイツ人シュリーマンによって1873年に発掘され、脚光を浴びることになったのだ。
 遺跡に着くと、入口に置いてある大きな木馬が目に飛び込んできた。もちろんレプリカで、古代の記録やトロイア(古代名)戦争時の城壁の規模などから推定し復元されたものだ。この辺は風が強く、木馬はシーズンオフに修理するため、観光客に人気の腹部に上れなかった。
 トロイから南へ、松の生い茂る山地を下ると、オリーブの繊細な葉が波打ち、ギリシャ・ローマ時代の壮麗な列柱が印象的なエーゲ海に面したベルガモへ。前3~2世紀に栄えたアッタロス朝のべルガモン王国の都だ。高さ300メートルほどのアクロポリスの丘に王宮、神殿、劇場、図書館などの遺跡がひしめく。急斜面を利用した大劇場の客席からは、医術の神アスクレピアスの神殿を中心とした医療都市遺跡などのある広大な平地が見下せ、王国の文化の栄華を偲ぶことができる。2014年に世界遺産に登録された。
 帝政ローマ期の隆盛を彷彿とさせるエフェソスは、トルコ有数の都市遺跡群だ。何本かの大通りの両側に崩れ落ちたままの神殿、公共施設、劇場、商店、邸宅から公衆トイレまでが、まるで大災害直後の都市を見るように広がっている。また裕福な市民の邸宅前には美しいタイルで飾られた歩道も見ることができた。

キノコ岩の奇景と洞窟内に教会や住居…
 広大なアナトリアの大地には所々に息を呑む自然景観が出現する。エフェソスの東、200キロの内陸部にあるパムッカレもその一つだ。石灰台地を温泉が流れ下って純白の岩壁となった。斜面の途中に出来た無数のプールはまるで棚田のようだ。この地域は昔から綿の産地であったことに加え、雪のように白い大きな石灰棚が広がっていることから、トルコ語で「綿の城砦」を意味するパムッカレと呼ばれている。
 台地上には、神託を授かる聖なる都市として栄えたヒエラポリスの遺跡が広がる。パムッカレとヒエラポリスは、複合遺産として1873年に世界遺産に登録されている。アポロ神殿やローマ劇場・浴場などの遺跡が残る。 
 パムッカレから約300キロ、地中海に面するトルコ最大の観光都市アンタルヤは見どころが盛りだくさん。絶景のリゾート地で、可愛い古い建物が並ぶ旧市街はもちろん、周りには遺跡も多い。とりわけ高さ38メートルのイヴリ・ミナーレは、束ね柱のような特異な姿で印象的だった。
 念願のシルクロードも通過した。コンヤからカッパドキアに向かう途中のキャラバンサライ(隊商宿)は大きな建物で当時の様子を伺うことができた。またアスベントスの円形劇場がほぼ完全な形で残っているのはキャラバンサライとして活用されていたからだと知り、隊商の旅を彷彿させた。
 「美しい馬の地」を意味するカッパドキアを初めて目にした時は、実物の迫力に目を見張った。紛れもなく世界遺産にふさわしい光景だ。標高1000メートルを超えるアナトリア高原中央部に、約100キロ平方にわたって岩石地帯が広がる台地だ。柔らかい凝灰岩が侵食されてできたのだが、まるでキノコが大地からニョキニョキ生えたように奇岩が林立し、巨岩がそびえる景観は驚異であり、自然が創った芸術の趣だった。「三姉妹」と呼ばれる奇岩もあり、興味深く見入った。
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
 カッパドキア全体には、何百もの洞窟教会があるとされているが、30余の教会が集結するギョレメ野外博物館を訪ねた。入り口のすぐ近くにバシル教会があり、岩肌には赤い塗料でキリストやマリアの肖像画、馬に乗って大蛇を退治している聖人の姿、幾何学模様などが描かれていた。光がささないため残ったと思われる。
 洞窟をくりぬき移り住んだ生活者が今もいる。急斜面に洞窟とテラスを組み合わせ暮らしている。1970年代に政府は洞窟の家の住民にヨーロッパ風の家に移り住むように勧めたが、冬には暖かい洞窟で暮らし、暑い夏になると明るく開放的なテラスで過ごし快適だという。洞窟住居だけではなく、観光用のホテルやレストランもある。
 トルコにかつて存在したヒッタイト帝国の首都ハットゥシャの遺跡は、1986年にユネスコの世界遺産に登録された。人類初の鉄の帝国といわれ、宮殿、神殿、倉庫などの立ち並ぶ広大な遺跡だが、建物の上部がほとんど残っていないため、往時の姿を思い描くことは難しい。

語り継がれる日本とトルコの絆の物語
 イスタンブール歴史地区には、ビザンチィン建築の最高傑作とされているアヤ・ソフィアはじめ歴史的建造物が数多くあり、1985年に世界遺産登録されている。アヤ・ソフィアは、アタテュルクの改革で聖堂が宗教と切り離され、博物館となった。トプカプ宮殿も博物館になっており、その秘宝の数々に堪能した。宮殿のハーレムには、宦官や女性の部屋があり、300~500人の女性たちがいたという。
 アジア大陸とユーラシア大陸にまたがる特異な国土を持つトルコは「東西文明の十字路」あるいは「東洋と西洋を結ぶ文化の架け橋」ともいわれ、近世まで常に歴史の表舞台にあった。それだけ興亡の荒波に翻弄されてきたともいえる。
 トルコの旅を通して、ヒッタイト帝国から現共和国の時代までに幾重にも積み重なった文明の生々しい露頭を目の当りにした感動は忘れがたい。各時代の支配民族がこの大地の歴史を刻んだ主要な文字だけでも、楔形文字、ギリシャ文字、ラテン文字、アラビア文字、現代トルコ文字という多彩さだ。文化遺産の価値、文明共存の可能性などに思いを廻らせる上でも、触発されることの多い旅であった。豊かな歴史遺産を生かした国づくりをしてほしいと願わずにいられない。
 最後に、日本とトルコの絆をつなぐ物語に触れておこう。イラン・イラク戦争さ中の1985年、48時間後に迫ったイラクの攻撃。イランに取り残された日本人215名。その時、トルコから駆けつけた救援機2機により、全員が脱出できた。それは約100年前の、1890年に起こったトルコ軍艦エルトゥールル号の悲劇から始まる。
 訪日していたトルコ親善使節団が帰国のため串本町大島樫野崎沖を航海していたが台風に遭遇し、岩礁に激突した。オスマン海軍少将以下587名が殉職し、生存者わずかに69名という大海難事故となった。この遭難に際し、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護や、殉難者の遺体捜索、引き上げにあたり、日本全国からも多くの義金、物資が寄せられた。現地にはトルコ記念館があり、野埼の丘にトルコ軍艦遭難慰霊碑が建っている。