80年前の1945年1月13日午前3時38分M6.8震度7相当(武豊は6相当)、東南海地震からわずか37日後。
 武豊国民学校の当時4年生が、中学卒業後50年経って集い地震の思い出を語った。

▼夜中に地震が起きて、それから余震が続いたので、もうみんながびっくりしてしまったものね。
▼あのころは、家の中に寝れなくて、みんな外に(小屋を作って)寝たもんね。
▼そう余震がひどかったもんね。
▼うちには帆布が沢山あって、それで小屋掛けの屋根に使ったけど。
▼私のうちでは、ろく(大きなみそ樽)を横にして使ったよ。
▼竹を組んで、わら囲いをして(前の庭に)わらの上に茣蓙を敷いて、布団を敷いてそこで寝たのね。朝起きると霜が降りていて、布団の襟が真っ白になっていてさあ。
▼子供たちだけは、わら小屋の中へ寝かせてくれたんだわね。
▼親たちの苦労をよそに、「竹の柱に、わらの屋根」とか言って・・・。
▼上は空襲下は地獄と続いて、「まあ、この世の地獄だわね」と言っていたね。
▼阪神大震災が起きたとき、すぐに、あの戦争中の地震を思い出しちゃったもんね。
▼あれが都会だったからああなっちゃったと思うけど、ここらだったら何もそう心配しなくても、杭の二、三本とシートがあればね、一週間くらい何とかやれると思うね。 このあとさらに・・
▼(7月24日武豊空襲)すぐ西の新婚の親子4人即死、家の片づけに母親が行ったら可愛い人形の手が。赤ちゃんの手だったって。
▼『故郷を離るる歌』初めて二部合唱を教えてくれた先生が出征したことを聞いて、歌の題名を結び付けたら、胸がキュウンとなってね。先生はどんな気持ちでその歌を教えておられたのかと思ったね。
▼(この年に終戦)教科書に、明けても暮れても墨を塗っていたもんね。

激動の中に育った皆さん、なんと力強い・・。感服。

 武豊中学校の最初の一年生たちが卒業50年後に発行した本『想い出さまざま 激動の中に育ちて(平成9年)』。その中の「語り継ごう 思い出は 私たちの宝もの」という収録・書き起こしたページから、地震当時の思い出を引用させて頂きました。
 「最後の一冊です」と、下さった山田ミギハ氏に感謝いたします。


                                       伊藤 明德
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 80年前の1945年1月13日午前3時38分M6.8震度7相当(武豊は6相当)、東南海地震からわずか37日後。
 武豊国民学校の当時4年生が、中学卒業後50年経って集い地震の思い出を語った。

▼夜中に地震が起きて、それから余震が続いたので、もうみんながびっくりしてしまったものね。
▼あのころは、家の中に寝れなくて、みんな外に(小屋を作って)寝たもんね。
▼そう余震がひどかったもんね。
▼うちには帆布が沢山あって、それで小屋掛けの屋根に使ったけど。
▼私のうちでは、ろく(大きなみそ樽)を横にして使ったよ。
▼竹を組んで、わら囲いをして(前の庭に)わらの上に茣蓙を敷いて、布団を敷いてそこで寝たのね。朝起きると霜が降りていて、布団の襟が真っ白になっていてさあ。
▼子供たちだけは、わら小屋の中へ寝かせてくれたんだわね。
▼親たちの苦労をよそに、「竹の柱に、わらの屋根」とか言って・・・。
▼上は空襲下は地獄と続いて、「まあ、この世の地獄だわね」と言っていたね。
▼阪神大震災が起きたとき、すぐに、あの戦争中の地震を思い出しちゃったもんね。
▼あれが都会だったからああなっちゃったと思うけど、ここらだったら何もそう心配しなくても、杭の二、三本とシートがあればね、一週間くらい何とかやれると思うね。 このあとさらに・・
▼(7月24日武豊空襲)すぐ西の新婚の親子4人即死、家の片づけに母親が行ったら可愛い人形の手が。赤ちゃんの手だったって。
▼『故郷を離るる歌』初めて二部合唱を教えてくれた先生が出征したことを聞いて、歌の題名を結び付けたら、胸がキュウンとなってね。先生はどんな気持ちでその歌を教えておられたのかと思ったね。
▼(この年に終戦)教科書に、明けても暮れても墨を塗っていたもんね。

激動の中に育った皆さん、なんと力強い・・。感服。

 
武豊中学校の最初の一年生たちが卒業50年後に発行した本『想い出さまざま 激動の中に育ちて(平成9年)』。その中の「語り継ごう 思い出は 私たちの宝もの」という収録・書き起こしたページから、地震当時の思い出を引用させて頂きました。
 「最後の一冊です」と、下さった山田ミギハ氏に感謝いたします。


                         伊藤 明德
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 80年前の1945年1月13日午前3時38分M6.8震度7相当(武豊は6相当)、東南海地震からわずか37日後。
 武豊国民学校の当時4年生が、中学卒業後50年経って集い地震の思い出を語った。
▼夜中に地震が起きて、それから余震が続いたので、もうみんながびっくりしてしまったものね。
▼あのころは、家の中に寝れなくて、みんな外に(小屋を作って)寝たもんね。
▼そう余震がひどかったもんね。
▼うちには帆布が沢山あって、それで小屋掛けの屋根に使ったけど。
▼私のうちでは、ろく(大きなみそ樽)を横にして使ったよ。
▼竹を組んで、わら囲いをして(前の庭に)わらの上に茣蓙を敷いて、布団を敷いてそこで寝たのね。朝起きると霜が降りていて、布団の襟が真っ白になっていてさあ。
▼子供たちだけは、わら小屋の中へ寝かせてくれたんだわね。
▼親たちの苦労をよそに、「竹の柱に、わらの屋根」とか言って・・・。
▼上は空襲下は地獄と続いて、「まあ、この世の地獄だわね」と言っていたね。
▼阪神大震災が起きたとき、すぐに、あの戦争中の地震を思い出しちゃったもんね。
▼あれが都会だったからああなっちゃったと思うけど、ここらだったら何もそう心配しなくても、杭の二、三本とシートがあればね、一週間くらい何とかやれると思うね。 このあとさらに・・
▼(7月24日武豊空襲)すぐ西の新婚の親子4人即死、家の片づけに母親が行ったら可愛い人形の手が。赤ちゃんの手だったって。
▼『故郷を離るる歌』初めて二部合唱を教えてくれた先生が出征したことを聞いて、歌の題名を結び付けたら、胸がキュウンとなってね。先生はどんな気持ちでその歌を教えておられたのかと思ったね。
▼(この年に終戦)教科書に、明けても暮れても墨を塗っていたもんね。

激動の中に育った皆さん、なんと力強い・・。感服。

 武豊中学校の最初の一年生たちが卒業50年後に発行した本『想い出さまざま 激動の中に育ちて(平成9年)』。その中の「語り継ごう 思い出は 私たちの宝もの」という収録・書き起こしたページから、地震当時の思い出を引用させて頂きました。
 「最後の一冊です」と、下さった山田ミギハ氏に感謝いたします。

                    伊藤 明德