Copyright©2003-2024 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
いくつもの文化・文明が交差し重層化してきた遺跡の宝庫、トルコへの旅は宿願だった。ギリシャの詩人、ホメロスの叙事詩『イーリアス』の舞台となったトロイの遺跡や、凝灰岩の台地が侵食されてできたカッパドキアの奇観は一度目にしておきたかった。そしてシルクロード踏査の夢を実現するためにも、アジアとヨーロッパの二つの大陸を結ぶトルコは要所なのだ。2006年12月、16日間かけて19を数える世界遺産の8つを中心に巡ってきた。2024年、日本とトルコは外交関係樹立100周年を迎えた。親日的なトルコとの友好の原点は和歌山にある。両国の絆をつないだ物語にも触れておく。
伝説の地トロイや、巨大な遺跡ベルガモ
トルコへは関西空港からソウルの仁川空港を経由して、深夜にイスタンブールに到着した。歴代スルタンの居城であったトプカプ宮殿の観光は最終日になった。到着の翌朝、黒海とマルマラ海をつなぐボスポラス海峡を渡りヨーロッパ圏からアジア圏へ。
ホメロスの叙事詩に名高いトロイの遺跡は、ダーダネルス海峡の港町チャナッカレ郊外の丘にあり、世界遺産(1998年登録)の一つだ。トロイは長い間、ホメロスのフィクションの都市と思われていた。しかし実在すると信じてやまなかったドイツ人シュリーマンによって1873年に発掘され、脚光を浴びることになったのだ。
遺跡に着くと、入口に置いてある大きな木馬が目に飛び込んできた。もちろんレプリカで、古代の記録やトロイア(古代名)戦争時の城壁の規模などから推定し復元されたものだ。この辺は風が強く、木馬はシーズンオフに修理するため、観光客に人気の腹部に上れなかった。
トロイから南へ、松の生い茂る山地を下ると、オリーブの繊細な葉が波打ち、ギリシャ・ローマ時代の壮麗な列柱が印象的なエーゲ海に面したベルガモへ。前3~2世紀に栄えたアッタロス朝のべルガモン王国の都だ。高さ300メートルほどのアクロポリスの丘に王宮、神殿、劇場、図書館などの遺跡がひしめく。急斜面を利用した大劇場の客席からは、医術の神アスクレピアスの神殿を中心とした医療都市遺跡などのある広大な平地が見下せ、王国の文化の栄華を偲ぶことができる。2014年に世界遺産に登録された。
帝政ローマ期の隆盛を彷彿とさせるエフェソスは、トルコ有数の都市遺跡群だ。何本かの大通りの両側に崩れ落ちたままの神殿、公共施設、劇場、商店、邸宅から公衆トイレまでが、まるで大災害直後の都市を見るように広がっている。また裕福な市民の邸宅前には美しいタイルで飾られた歩道も見ることができた。
MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
キノコ岩の奇景と洞窟内に教会や住居…
広大なアナトリアの大地には所々に息を呑む自然景観が出現する。エフェソスの東、200キロの内陸部にあるパムッカレもその一つだ。石灰台地を温泉が流れ下って純白の岩壁となった。斜面の途中に出来た無数のプールはまるで棚田のようだ。この地域は昔から綿の産地であったことに加え、雪のように白い大きな石灰棚が広がっていることから、トルコ語で「綿の城砦」を意味するパムッカレと呼ばれている。
台地上には、神託を授かる聖なる都市として栄えたヒエラポリスの遺跡が広がる。パムッカレとヒエラポリスは、複合遺産として1873年に世界遺産に登録されている。アポロ神殿やローマ劇場・浴場などの遺跡が残る。
パムッカレから約300キロ、地中海に面するトルコ最大の観光都市アンタルヤは見どころが盛りだくさん。絶景のリゾート地で、可愛い古い建物が並ぶ旧市街はもちろん、周りには遺跡も多い。とりわけ高さ38メートルのイヴリ・ミナーレは、束ね柱のような特異な姿で印象的だった。
念願のシルクロードも通過した。コンヤからカッパドキアに向かう途中のキャラバンサライ(隊商宿)は大きな建物で当時の様子を伺うことができた。またアスベントスの円形劇場がほぼ完全な形で残っているのはキャラバンサライとして活用されていたからだと知り、隊商の旅を彷彿させた。
「美しい馬の地」を意味するカッパドキアを初めて目にした時は、実物の迫力に目を見張った。紛れもなく世界遺産にふさわしい光景だ。標高1000メートルを超えるアナトリア高原中央部に、約100キロ平方にわたって岩石地帯が広がる台地だ。柔らかい凝灰岩が侵食されてできたのだが、まるでキノコが大地からニョキニョキ生えたように奇岩が林立し、巨岩がそびえる景観は驚異であり、自然が創った芸術の趣だった。「三姉妹」と呼ばれる奇岩もあり、興味深く見入った。
カッパドキア全体には、何百もの洞窟教会があるとされているが、30余の教会が集結するギョレメ野外博物館を訪ねた。入り口のすぐ近くにバシル教会があり、岩肌には赤い塗料でキリストやマリアの肖像画、馬に乗って大蛇を退治している聖人の姿、幾何学模様などが描かれていた。光がささないため残ったと思われる。
洞窟をくりぬき移り住んだ生活者が今もいる。急斜面に洞窟とテラスを組み合わせ暮らしている。1970年代に政府は洞窟の家の住民にヨーロッパ風の家に移り住むように勧めたが、冬には暖かい洞窟で暮らし、暑い夏になると明るく開放的なテラスで過ごし快適だという。洞窟住居だけではなく、観光用のホテルやレストランもある。
トルコにかつて存在したヒッタイト帝国の首都ハットゥシャの遺跡は、1986年にユネスコの世界遺産に登録された。人類初の鉄の帝国といわれ、宮殿、神殿、倉庫などの立ち並ぶ広大な遺跡だが、建物の上部がほとんど残っていないため、往時の姿を思い描くことは難しい。
語り継がれる日本とトルコの絆の物語
イスタンブール歴史地区には、ビザンチィン建築の最高傑作とされているアヤ・ソフィアはじめ歴史的建造物が数多くあり、1985年に世界遺産登録されている。アヤ・ソフィアは、アタテュルクの改革で聖堂が宗教と切り離され、博物館となった。トプカプ宮殿も博物館になっており、その秘宝の数々に堪能した。宮殿のハーレムには、宦官や女性の部屋があり、300~500人の女性たちがいたという。
アジア大陸とユーラシア大陸にまたがる特異な国土を持つトルコは「東西文明の十字路」あるいは「東洋と西洋を結ぶ文化の架け橋」ともいわれ、近世まで常に歴史の表舞台にあった。それだけ興亡の荒波に翻弄されてきたともいえる。
トルコの旅を通して、ヒッタイト帝国から現共和国の時代までに幾重にも積み重なった文明の生々しい露頭を目の当りにした感動は忘れがたい。各時代の支配民族がこの大地の歴史を刻んだ主要な文字だけでも、楔形文字、ギリシャ文字、ラテン文字、アラビア文字、現代トルコ文字という多彩さだ。文化遺産の価値、文明共存の可能性などに思いを廻らせる上でも、触発されることの多い旅であった。豊かな歴史遺産を生かした国づくりをしてほしいと願わずにいられない。
最後に、日本とトルコの絆をつなぐ物語に触れておこう。イラン・イラク戦争さ中の1985年、48時間後に迫ったイラクの攻撃。イランに取り残された日本人215名。その時、トルコから駆けつけた救援機2機により、全員が脱出できた。それは約100年前の、1890年に起こったトルコ軍艦エルトゥールル号の悲劇から始まる。
訪日していたトルコ親善使節団が帰国のため串本町大島樫野崎沖を航海していたが台風に遭遇し、岩礁に激突した。オスマン海軍少将以下587名が殉職し、生存者わずかに69名という大海難事故となった。この遭難に際し、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護や、殉難者の遺体捜索、引き上げにあたり、日本全国からも多くの義金、物資が寄せられた。現地にはトルコ記念館があり、野埼の丘にトルコ軍艦遭難慰霊碑が建っている。
Copyright©2003-2024 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
いくつもの文化・文明が交差し重層化してきた遺跡の宝庫、トルコへの旅は宿願だった。ギリシャの詩人、ホメロスの叙事詩『イーリアス』の舞台となったトロイの遺跡や、凝灰岩の台地が侵食されてできたカッパドキアの奇観は一度目にしておきたかった。そしてシルクロード踏査の夢を実現するためにも、アジアとヨーロッパの二つの大陸を結ぶトルコは要所なのだ。2006年12月、16日間かけて19を数える世界遺産の8つを中心に巡ってきた。2024年、日本とトルコは外交関係樹立100周年を迎えた。親日的なトルコとの友好の原点は和歌山にある。両国の絆をつないだ物語にも触れておく。
伝説の地トロイや、巨大な遺跡ベルガモ
トルコへは関西空港からソウルの仁川空港を経由して、深夜にイスタンブールに到着した。歴代スルタンの居城であったトプカプ宮殿の観光は最終日になった。到着の翌朝、黒海とマルマラ海をつなぐボスポラス海峡を渡りヨーロッパ圏からアジア圏へ。
ホメロスの叙事詩に名高いトロイの遺跡は、ダーダネルス海峡の港町チャナッカレ郊外の丘にあり、世界遺産(1998年登録)の一つだ。トロイは長い間、ホメロスのフィクションの都市と思われていた。しかし実在すると信じてやまなかったドイツ人シュリーマンによって1873年に発掘され、脚光を浴びることになったのだ。
遺跡に着くと、入口に置いてある大きな木馬が目に飛び込んできた。もちろんレプリカで、古代の記録やトロイア(古代名)戦争時の城壁の規模などから推定し復元されたものだ。この辺は風が強く、木馬はシーズンオフに修理するため、観光客に人気の腹部に上れなかった。
トロイから南へ、松の生い茂る山地を下ると、オリーブの繊細な葉が波打ち、ギリシャ・ローマ時代の壮麗な列柱が印象的なエーゲ海に面したベルガモへ。前3~2世紀に栄えたアッタロス朝のべルガモン王国の都だ。高さ300メートルほどのアクロポリスの丘に王宮、神殿、劇場、図書館などの遺跡がひしめく。急斜面を利用した大劇場の客席からは、医術の神アスクレピアスの神殿を中心とした医療都市遺跡などのある広大な平地が見下せ、王国の文化の栄華を偲ぶことができる。2014年に世界遺産に登録された。
帝政ローマ期の隆盛を彷彿とさせるエフェソスは、トルコ有数の都市遺跡群だ。何本かの大通りの両側に崩れ落ちたままの神殿、公共施設、劇場、商店、邸宅から公衆トイレまでが、まるで大災害直後の都市を見るように広がっている。また裕福な市民の邸宅前には美しいタイルで飾られた歩道も見ることができた。
キノコ岩の奇景と洞窟内に教会や住居…
広大なアナトリアの大地には所々に息を呑む自然景観が出現する。エフェソスの東、200キロの内陸部にあるパムッカレもその一つだ。石灰台地を温泉が流れ下って純白の岩壁となった。斜面の途中に出来た無数のプールはまるで棚田のようだ。この地域は昔から綿の産地であったことに加え、雪のように白い大きな石灰棚が広がっていることから、トルコ語で「綿の城砦」を意味するパムッカレと呼ばれている。
台地上には、神託を授かる聖なる都市として栄えたヒエラポリスの遺跡が広がる。パムッカレとヒエラポリスは、複合遺産として1873年に世界遺産に登録されている。アポロ神殿やローマ劇場・浴場などの遺跡が残る。
パムッカレから約300キロ、地中海に面するトルコ最大の観光都市アンタルヤは見どころが盛りだくさん。絶景のリゾート地で、可愛い古い建物が並ぶ旧市街はもちろん、周りには遺跡も多い。とりわけ高さ38メートルのイヴリ・ミナーレは、束ね柱のような特異な姿で印象的だった。
念願のシルクロードも通過した。コンヤからカッパドキアに向かう途中のキャラバンサライ(隊商宿)は大きな建物で当時の様子を伺うことができた。またアスベントスの円形劇場がほぼ完全な形で残っているのはキャラバンサライとして活用されていたからだと知り、隊商の旅を彷彿させた。
「美しい馬の地」を意味するカッパドキアを初めて目にした時は、実物の迫力に目を見張った。紛れもなく世界遺産にふさわしい光景だ。標高1000メートルを超えるアナトリア高原中央部に、約100キロ平方にわたって岩石地帯が広がる台地だ。柔らかい凝灰岩が侵食されてできたのだが、まるでキノコが大地からニョキニョキ生えたように奇岩が林立し、巨岩がそびえる景観は驚異であり、自然が創った芸術の趣だった。「三姉妹」と呼ばれる奇岩もあり、興味深く見入った。
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
カッパドキア全体には、何百もの洞窟教会があるとされているが、30余の教会が集結するギョレメ野外博物館を訪ねた。入り口のすぐ近くにバシル教会があり、岩肌には赤い塗料でキリストやマリアの肖像画、馬に乗って大蛇を退治している聖人の姿、幾何学模様などが描かれていた。光がささないため残ったと思われる。
洞窟をくりぬき移り住んだ生活者が今もいる。急斜面に洞窟とテラスを組み合わせ暮らしている。1970年代に政府は洞窟の家の住民にヨーロッパ風の家に移り住むように勧めたが、冬には暖かい洞窟で暮らし、暑い夏になると明るく開放的なテラスで過ごし快適だという。洞窟住居だけではなく、観光用のホテルやレストランもある。
トルコにかつて存在したヒッタイト帝国の首都ハットゥシャの遺跡は、1986年にユネスコの世界遺産に登録された。人類初の鉄の帝国といわれ、宮殿、神殿、倉庫などの立ち並ぶ広大な遺跡だが、建物の上部がほとんど残っていないため、往時の姿を思い描くことは難しい。
語り継がれる日本とトルコの絆の物語
イスタンブール歴史地区には、ビザンチィン建築の最高傑作とされているアヤ・ソフィアはじめ歴史的建造物が数多くあり、1985年に世界遺産登録されている。アヤ・ソフィアは、アタテュルクの改革で聖堂が宗教と切り離され、博物館となった。トプカプ宮殿も博物館になっており、その秘宝の数々に堪能した。宮殿のハーレムには、宦官や女性の部屋があり、300~500人の女性たちがいたという。
アジア大陸とユーラシア大陸にまたがる特異な国土を持つトルコは「東西文明の十字路」あるいは「東洋と西洋を結ぶ文化の架け橋」ともいわれ、近世まで常に歴史の表舞台にあった。それだけ興亡の荒波に翻弄されてきたともいえる。
トルコの旅を通して、ヒッタイト帝国から現共和国の時代までに幾重にも積み重なった文明の生々しい露頭を目の当りにした感動は忘れがたい。各時代の支配民族がこの大地の歴史を刻んだ主要な文字だけでも、楔形文字、ギリシャ文字、ラテン文字、アラビア文字、現代トルコ文字という多彩さだ。文化遺産の価値、文明共存の可能性などに思いを廻らせる上でも、触発されることの多い旅であった。豊かな歴史遺産を生かした国づくりをしてほしいと願わずにいられない。
最後に、日本とトルコの絆をつなぐ物語に触れておこう。イラン・イラク戦争さ中の1985年、48時間後に迫ったイラクの攻撃。イランに取り残された日本人215名。その時、トルコから駆けつけた救援機2機により、全員が脱出できた。それは約100年前の、1890年に起こったトルコ軍艦エルトゥールル号の悲劇から始まる。
訪日していたトルコ親善使節団が帰国のため串本町大島樫野崎沖を航海していたが台風に遭遇し、岩礁に激突した。オスマン海軍少将以下587名が殉職し、生存者わずかに69名という大海難事故となった。この遭難に際し、当時の大島島民は不眠不休で生存者の救助、介護や、殉難者の遺体捜索、引き上げにあたり、日本全国からも多くの義金、物資が寄せられた。現地にはトルコ記念館があり、野埼の丘にトルコ軍艦遭難慰霊碑が建っている。