なぜ中埜は意識的に隣人愛との宥和を曖昧にしたのでしょうか。これを知った当初の私は、キリスト教との宥和はある意味でキリスト教批判の挫折を意味します、つまりそれは宗教への屈服を意味します、そこで、ヘーゲル研究者のリーダーとして、中埜はそれは認められないとして曖昧にしたと思いました。しかしこの理解は子どもじみています。負けたのを認めるのが嫌で曖昧にしたとなるからです。
 しかし、『精神現象学』を何度も読み返すうちに、ヘーゲルがキリスト教との宥和を説いたのは、キリスト教批判に挫折したからではなく、隣人愛を実践するために宥和したということが分かって来たのでした。この宥和論が、隣人愛を信仰するための「実体」として大切にするだけでなく、隣人愛の心で実践する「主体」の大切さを説くための宥和であることが分かって来たのでした。奴隷を強いる支配と隷属の社会や闘争にあけくれる社会を克服して、人間本来の自由を謳歌する社会を創造するには、すべての人が共存の隣人愛の心を持つのでないと、それは実現しないよと主張したことが。
 私は先月号で、中埜が「コモンセンス」による共存の世界統合を主張したと言いましたが、この目で見ると、この主張は、中埜がヘーゲルの隣人愛の思想の上に立っての提案であることがよく分かります。

 中埜はコモンセンスを以下のような理解で主張したのでした。

 コモンセンスとは「それなしには人間が人間として生きることができず、人間の具体的生存によって不可欠なもの」としての理念であって、この理念を共有して、戦争のない世界を統合していこう。

 中埜はこの提案を、『歴史と文明の論理ーヘーゲル哲学で読む現代世界』(中公叢書、1994)でしています。それゆえ私は、意識的無視ではなく、書く必要がなかったから、中埜は書かなかった。これを私の結論とします。しかしこのコモンセンスの理念は、隣人愛による共存ですので、中埜には、曖昧にせずしっかり書いてほしかったと言っておきます。

 さて、ここからは私のモノローグです。

 私は先々月号で、『精神現象学』の紹介で、キリスト教との宥和を書かないで曖昧にしたのを中埜の欠点と書きましたが、この評価は今も変える気はありません。この宥和の語を除いたらヘーゲルの思想は、真実には生きてこないと思うからです。繰り返しになりますが。私は、ルソーの一般意志での社会契約説の表明や、カントの普遍的立法の精神での道徳律の表明は、隣人愛思想の社会での実現を目指した画期的な思想と考えます。そして、そのルソーとカントが到達した隣人愛思想の実現の課題を、これこそが今日の哲学の課題と言った所にヘーゲル哲学の本領があると思うからです。

 最後に、本文で書こうとして書かなかった「媒介」について書きます。

 媒介はヘーゲルによく出てくる語です。中埜は「個と全体との媒介」という形でこの語を使用しますが、これは個を無視した全体主義でもない、逆に全体と対立する個人主義でもない、一人はみんなのために、みんなは一人のために(one for all, allfor one)で、個と全体が媒介しあう関係を意味していますので、私には隣人愛の別語のように思われます。この語の使用からも中埜がヘーゲル哲学を、隣人愛実現の思想と理解していたと考えて間違いないと思います。媒介の原語はMitteです。
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 なぜ中埜は意識的に隣人愛との宥和を曖昧にしたのでしょうか。これを知った当初の私は、キリスト教との宥和はある意味でキリスト教批判の挫折を意味します、つまりそれは宗教への屈服を意味します、そこで、ヘーゲル研究者のリーダーとして、中埜はそれは認められないとして曖昧にしたと思いました。しかしこの理解は子どもじみています。負けたのを認めるのが嫌で曖昧にしたとなるからです。
 しかし、『精神現象学』を何度も読み返すうちに、ヘーゲルがキリスト教との宥和を説いたのは、キリスト教批判に挫折したからではなく、隣人愛を実践するために宥和したということが分かって来たのでした。この宥和論が、隣人愛を信仰するための「実体」として大切にするだけでなく、隣人愛の心で実践する「主体」の大切さを説くための宥和であることが分かって来たのでした。奴隷を強いる支配と隷属の社会や闘争にあけくれる社会を克服して、人間本来の自由を謳歌する社会を創造するには、すべての人が共存の隣人愛の心を持つのでないと、それは実現しないよと主張したことが。
 私は先月号で、中埜が「コモンセンス」による共存の世界統合を主張したと言いましたが、この目で見ると、この主張は、中埜がヘーゲルの隣人愛の思想の上に立っての提案であることがよく分かります。
 中埜はコモンセンスを以下のような理解で主張したのでした。

   コモンセンスとは「それなしには人間が人間として生きることができず、人間の具体
   的生存によって不可欠なもの」としての理念であって、この理念を共有して、戦争の
   ない世界を統合していこう。

 中埜はこの提案を、『歴史と文明の論理ーヘーゲル哲学で読む現代世界』(中公叢書、1994)でしています。それゆえ私は、意識的無視ではなく、書く必要がなかったから、中埜は書かなかった。これを私の結論とします。しかしこのコモンセンスの理念は、隣人愛による共存ですので、中埜には、曖昧にせずしっかり書いてほしかったと言っておきます。

 さて、ここからは私のモノローグです。
   私は先々月号で、『精神現象学』の紹介で、キリスト教との宥和を書かないで曖昧に
   したのを中埜の欠点と書きましたが、この評価は今も変える気はありません。この宥
   和の語を除いたらヘーゲルの思想は、真実には生きてこないと思うからです。繰り
   返しになりますが。私は、ルソーの一般意志での社会契約説の表明や、カントの普
   遍的立法の精神での道徳律の表明は、隣人愛思想の社会での実現を目指した画
   期的な思想と考えます。そして、そのルソーとカントが到達した隣人愛思想の実現
   の課題を、これこそが今日の哲学の課題と言った所にヘーゲル哲学の本領がある
   と思うからです。

 最後に、本文で書こうとして書かなかった「媒介」について書きます。
   媒介はヘーゲルによく出てくる語です。中埜は「個と全体との媒介」という形でこの
   語を使用しますが、これは個を無視した全体主義でもない、逆に全体と対立する個
   人主義でもない、一人はみんなのために、みんなは一人のために(one for all, all
   for one)で、個と全体が媒介しあう関係を意味していますので、私には隣人愛の別
   語のように思われます。この語の使用からも中埜がヘーゲル哲学を、隣人愛実現の
   思想と理解していたと考えて間違いないと思います。媒介の原語はMitteです。
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 なぜ中埜は意識的に隣人愛との宥和を曖昧にしたのでしょうか。これを知った当初の私は、キリスト教との宥和はある意味でキリスト教批判の挫折を意味します、つまりそれは宗教への屈服を意味します、そこで、ヘーゲル研究者のリーダーとして、中埜はそれは認められないとして曖昧にしたと思いました。しかしこの理解は子どもじみています。負けたのを認めるのが嫌で曖昧にしたとなるからです。
 しかし、『精神現象学』を何度も読み返すうちに、ヘーゲルがキリスト教との宥和を説いたのは、キリスト教批判に挫折したからではなく、隣人愛を実践するために宥和したということが分かって来たのでした。この宥和論が、隣人愛を信仰するための「実体」として大切にするだけでなく、隣人愛の心で実践する「主体」の大切さを説くための宥和であることが分かって来たのでした。奴隷を強いる支配と隷属の社会や闘争にあけくれる社会を克服して、人間本来の自由を謳歌する社会を創造するには、すべての人が共存の隣人愛の心を持つのでないと、それは実現しないよと主張したことが。
 私は先月号で、中埜が「コモンセンス」による共存の世界統合を主張したと言いましたが、この目で見ると、この主張は、中埜がヘーゲルの隣人愛の思想の上に立っての提案であることがよく分かります。

 中埜はコモンセンスを以下のような理解で主張したのでした。

 コモンセンスとは「それなしには人間が人間として生きることができず、人間の具体的生存によって不可欠なもの」としての理念であって、この理念を共有して、戦争のない世界を統合していこう。

 中埜はこの提案を、『歴史と文明の論理ーヘーゲル哲学で読む現代世界』(中公叢書、1994)でしています。それゆえ私は、意識的無視ではなく、書く必要がなかったから、中埜は書かなかった。これを私の結論とします。しかしこのコモンセンスの理念は、隣人愛による共存ですので、中埜には、曖昧にせずしっかり書いてほしかったと言っておきます。

 さて、ここからは私のモノローグです。

 私は先々月号で、『精神現象学』の紹介で、キリスト教との宥和を書かないで曖昧にしたのを中埜の欠点と書きましたが、この評価は今も変える気はありません。この宥和の語を除いたらヘーゲルの思想は、真実には生きてこないと思うからです。繰り返しになりますが。私は、ルソーの一般意志での社会契約説の表明や、カントの普遍的立法の精神での道徳律の表明は、隣人愛思想の社会での実現を目指した画期的な思想と考えます。そして、そのルソーとカントが到達した隣人愛思想の実現の課題を、これこそが今日の哲学の課題と言った所にヘーゲル哲学の本領があると思うからです。

 最後に、本文で書こうとして書かなかった「媒介」について書きます。

 媒介はヘーゲルによく出てくる語です。中埜は「個と全体との媒介」という形でこの語を使用しますが、これは個を無視した全体主義でもない、逆に全体と対立する個人主義でもない、一人はみんなのために、みんなは一人のために(one for all, all
for one)で、個と全体が媒介しあう関係を意味していますので、私には隣人愛の別語のように思われます。この語の使用からも中埜がヘーゲル哲学を、隣人愛実現の思想と理解していたと考えて間違いないと思います。媒介の原語はMitteです。