MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 今年も大リーグ・ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手の破格の活躍が連日のようにニュースで伝えられたが、ニューヨーク郊外の野球発祥の地を訪れる日本人はほとんどいない。かつて野茂英雄やイチロー、松井秀喜選手らが活躍し、現在も10人を超す日本人大リーガーがプレーする。衛星放送でも見られるが、生の姿を見る大リーグ観戦ツアーも実施されている。すでに20年も前になるが、2003年の晩秋、「野球の原点を訪ねるツアーを」―とのユナイテッド航空の企画に参加した。野球文化の本場の様子と、定番の観光コースとは異なる旅の魅力を報告する。

約2300人の小さな町に野球の発祥地、「殿堂」も
 当時、ユナイテッド航空は新たな観光開拓を見込み、日本の旅行社を対象に格安の研修ツアーを組んだ。朝日新聞社に在籍していた筆者は、系列の旅行会社担当者からの誘いもあって、特別にメンバーに加えてもらった。実は2001年に同社の航空便がハイジャックされツインタワーのワールトレードセンターを直撃した「9・11」事件の現場を見ておきたかったこともあった。その「グラウンド・ゼロ」は、金網の塀に囲まれ空き地となっていた。現在は整備され、2700人以上となった犠牲者の名が刻まれた慰霊碑や博物館、新たな高層ビルが建ち整備されている。
 さてアメリカで生まれた野球の聖地は、マンハッタンから北西へ約400キロも離れたクーパーズタウンという森と湖に囲まれた大自然の中にぽつりとある。飛行場が無く鉄道も通らない。バスや車でしか行けず、一日がかりになる。そこには初めて野球場と呼ばれたフィールドや、「野球の殿堂」などがある。野球を愛するニューヨークっ子なら何度も足を運んでいるという。
 なぜここに「殿堂」ができたかというのは、初めて野球場と呼ばれるフィールドが出来たからだ。ちなみに町の名の由来は、1785年にウイリアム・クーパー判事がニュージャージー州からニューヨーク州北西部のある名前のない町の土地の権利を得て、そこに大通りを造った。地図作成時に記載される名前を求められた時、彼は自分の名前でもあるクーパーを取ってクーパーズタウンと名づけたそうだ。
 子どもたちはこの地の草原で、ただボールを投げ打ち走っていた。そんな子どもたちのボール遊びを見ていたアメリカ陸軍のダブルデイ将軍が1839年に、ベースを埋め込んだフィールドを使ってプレーすることを思いつき、ルールを作ったのが、今日の野球の始まりといわれる。
 世界で初めての野球場「ダブルデイフィールド」を訪ねた。一時は荒廃が進み、野球するのもおぼつかないほど荒地と化してしまっていたが、地元の有志団体が土地を買い上げ、外野を拡張しスタンドを設け、1934年に再オープンにこぎつけた。
 現在は収容観客数1万人が入れる野球場として整備されており、スタンドに入ることができた。少年野球や、一年に一度殿堂入り表彰の週に、メジャー1Aリーグの一試合が奉納試合として行われているという。
 もちろんアメリカの球場なので内野にも外野にもきれいな芝が植え込まれており、係員が手入れをしている。世界の野球の夢はここから始まったと思うと、しみじみ感動が涌いてきた。
 クーパーズタウンは、人口約2300人の小さな町だが、年間35~40万人もの人が訪れている。この地は野球天国の町なのだ。このためわずか100メートルそこそこの通りの両側には野球関連のギフトショップやベーカリーなどがずらりと並んでいる。
 コーヒーを飲むため入ったレストランには、テレビゲーム、ピンボールなどはすべて野球関係、レジのガラスケースには野球カード、サインボールが展示されている。しかしよく見ると値札がついている。これはみんな売り物だった。
 レストランの隣の建物は野球グッズの店だった。中に入ると有名選手のユニフォームが天井に吊るされている。店員に尋ねるとすべて使用済みの本物なので販売はしていないという。しかし選手仕様のユニフォームは80~100ドルで買える。
 野球グッズは、サインボールやユニフォーム、野球帽、Tシャツなどが売れ筋というが、選手の人形、野球カード、コップ、キーホルダー、本、ビデオ、カレンダーなど盛りだくさんだ。見て回るだけでも楽しくなる。

野茂の記念ボールや松井・イチローの記念バット
 野球場に次いで訪ねたのが本場の「殿堂」だ。あまり目立たないがレンガ作りの二階建ての建物がお目当ての「ホールオブフェーム」である。見た目には二階建てに見えるが実は内部は三層作りなっていた。
 野球誕生1 0 0 周年を記念して、1938年に完成した「野球の殿堂」は、日本の倍近くの145年の球史を誇る大リーグだけに、多くのヒーローを出しアメリカンドリームの象徴としての野球のすべてが詰まった建物だ。
 膨大な記録はもちろん棒のようなバットや単なる手袋のようなグローブなど用具の発展などに関する実物や資料、映像や図書館施設もあり、野球に関する幅広い文化が理解できる。もちろん有名選手のユニフォームはじめ、記録達成時のサイン入りバットやボール、数々の貴重品が展示されていた。
 入ってすぐ目に止まるのが、打撃の神様、ベーブ・ルースの等身大のロウ人形だ。ベーブ・ルースの本名は、ジョージ・ハーマン・ルースだが、その童顔と子供のような行動からべーブ・ルースというニックネームがついたという。714本の本塁打を放ったベーブの生い立ちからメジャーリーグ入り、ヤンキースでの黄金時代などが展示されていた。病気の少年のために打った約束のホームランや、電車にぶち当てた特大ホームランなどベーブに関する逸話が紹介され、人気は抜群だ。
 500本塁打以上打った選手たちの展示では、メジャー通算755本のハンクアーロンを称えている。ここには本塁打世界記録の王貞治の写真もひっそり展示してあった。ファンであった私は、世界の王の扱いが小さく不平等と思ったが、球場の広さ、投手の質を考えると仕方はないかもしれない。
 わが松井がヤンキー・スタジアムでの開幕戦で放った満塁本塁打のバットや、ワールド・シリーズでの本塁打でひび割れたバットも飾られていた。もちろん野茂投手が1996年に達成したノーヒットノーランの直筆サインボールや、首位打者になったイチロー外野手のバットなども展示されていた。イチローと言えば2025年に日本人初の殿堂入りが確実視されている。
 イチローに次ぐ松井には、こんな忘れられない記憶がある。朝日新聞金沢支局長に在任の時、松井が星稜高校(石川)にいた。甲子園の全国大会の明徳義塾戦で、5打席連続敬遠があって、読者から多くの主催への抗議を受けた苦い思い出がよぎる。挨拶のため支局を訪れた松井君と握手をしたのが、ついこの間のような気がする。その松井が、大リーガーとして世界の野球少年に夢を与えたのだから感慨深い。
 ニューヨーク・ヤンキースの本拠地、ヤンキー・スタジアムを地下鉄に乗って訪れた。ベーブ・ルースが入団した1923年に開設され、数々のドラマを繰り広げた由緒ある球場だ。5万7500余人が収容でき、三階席上段からハドソンリバーやマンハッタンの摩天楼も眺められた。
 日本にも数多くの野球少年や愛好者がいる。大谷選手の活躍を現地で見たいものだ。本場のヤンキー・スタジアムなどで日本人大リーガーの試合を観戦し、クーパーズタウンの「野球の殿堂」の見学や、聖地グラウンドでの体験野球などを盛り込んだツアーが企画されたら一層楽しいだろうと、思い描く。草野球の少年たちにとって夢の舞台ヤンキー・スタジアムで見た、「私たちは忘れない」の「9・11」記念碑を心に刻み、球場を後にした。
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■ちょっとおじゃまします                   
■元気の出てくることばたち
 今年も大リーグ・ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手の破格の活躍が連日のようにニュースで伝えられたが、ニューヨーク郊外の野球発祥の地を訪れる日本人はほとんどいない。かつて野茂英雄やイチロー、松井秀喜選手らが活躍し、現在も10人を超す日本人大リーガーがプレーする。衛星放送でも見られるが、生の姿を見る大リーグ観戦ツアーも実施されている。すでに20年も前になるが、2003年の晩秋、「野球の原点を訪ねるツアーを」―とのユナイテッド航空の企画に参加した。野球文化の本場の様子と、定番の観光コースとは異なる旅の魅力を報告する。

約2300人の小さな町に野球の発祥地、「殿堂」も
 当時、ユナイテッド航空は新たな観光開拓を見込み、日本の旅行社を対象に格安の研修ツアーを組んだ。朝日新聞社に在籍していた筆者は、系列の旅行会社担当者からの誘いもあって、特別にメンバーに加えてもらった。実は2001年に同社の航空便がハイジャックされツインタワーのワールトレードセンターを直撃した「9・11」事件の現場を見ておきたかったこともあった。その「グラウンド・ゼロ」は、金網の塀に囲まれ空き地となっていた。現在は整備され、2700人以上となった犠牲者の名が刻まれた慰霊碑や博物館、新たな高層ビルが建ち整備されている。
 さてアメリカで生まれた野球の聖地は、マンハッタンから北西へ約400キロも離れたクーパーズタウンという森と湖に囲まれた大自然の中にぽつりとある。飛行場が無く鉄道も通らない。バスや車でしか行けず、一日がかりになる。そこには初めて野球場と呼ばれたフィールドや、「野球の殿堂」などがある。野球を愛するニューヨークっ子なら何度も足を運んでいるという。
 なぜここに「殿堂」ができたかというのは、初めて野球場と呼ばれるフィールドが出来たからだ。ちなみに町の名の由来は、1785年にウイリアム・クーパー判事がニュージャージー州からニューヨーク州北西部のある名前のない町の土地の権利を得て、そこに大通りを造った。地図作成時に記載される名前を求められた時、彼は自分の名前でもあるクーパーを取ってクーパーズタウンと名づけたそうだ。
 子どもたちはこの地の草原で、ただボールを投げ打ち走っていた。そんな子どもたちのボール遊びを見ていたアメリカ陸軍のダブルデイ将軍が1839年に、ベースを埋め込んだフィールドを使ってプレーすることを思いつき、ルールを作ったのが、今日の野球の始まりといわれる。
 世界で初めての野球場「ダブルデイフィールド」を訪ねた。一時は荒廃が進み、野球するのもおぼつかないほど荒地と化してしまっていたが、地元の有志団体が土地を買い上げ、外野を拡張しスタンドを設け、1934年に再オープンにこぎつけた。

MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
 現在は収容観客数1万人が入れる野球場として整備されており、スタンドに入ることができた。少年野球や、一年に一度殿堂入り表彰の週に、メジャー1Aリーグの一試合が奉納試合として行われているという。
 もちろんアメリカの球場なので内野にも外野にもきれいな芝が植え込まれており、係員が手入れをしている。世界の野球の夢はここから始まったと思うと、しみじみ感動が涌いてきた。
 クーパーズタウンは、人口約2300人の小さな町だが、年間35~40万人もの人が訪れている。この地は野球天国の町なのだ。このためわずか100メートルそこそこの通りの両側には野球関連のギフトショップやベーカリーなどがずらりと並んでいる。
 コーヒーを飲むため入ったレストランには、テレビゲーム、ピンボールなどはすべて野球関係、レジのガラスケースには野球カード、サインボールが展示されている。しかしよく見ると値札がついている。これはみんな売り物だった。
 レストランの隣の建物は野球グッズの店だった。中に入ると有名選手のユニフォームが天井に吊るされている。店員に尋ねるとすべて使用済みの本物なので販売はしていないという。しかし選手仕様のユニフォームは80~100ドルで買える。
 野球グッズは、サインボールやユニフォーム、野球帽、Tシャツなどが売れ筋というが、選手の人形、野球カード、コップ、キーホルダー、本、ビデオ、カレンダーなど盛りだくさんだ。見て回るだけでも楽しくなる。

野茂の記念ボールや松井・イチローの記念バット
 野球場に次いで訪ねたのが本場の「殿堂」だ。あまり目立たないがレンガ作りの二階建ての建物がお目当ての「ホールオブフェーム」である。見た目には二階建てに見えるが実は内部は三層作りなっていた。
 野球誕生1 0 0 周年を記念して、1938年に完成した「野球の殿堂」は、日本の倍近くの145年の球史を誇る大リーグだけに、多くのヒーローを出しアメリカンドリームの象徴としての野球のすべてが詰まった建物だ。
 膨大な記録はもちろん棒のようなバットや単なる手袋のようなグローブなど用具の発展などに関する実物や資料、映像や図書館施設もあり、野球に関する幅広い文化が理解できる。もちろん有名選手のユニフォームはじめ、記録達成時のサイン入りバットやボール、数々の貴重品が展示されていた。
 入ってすぐ目に止まるのが、打撃の神様、ベーブ・ルースの等身大のロウ人形だ。ベーブ・ルースの本名は、ジョージ・ハーマン・ルースだが、その童顔と子供のような行動からべーブ・ルースというニックネームがついたという。714本の本塁打を放ったベーブの生い立ちからメジャーリーグ入り、ヤンキースでの黄金時代などが展示されていた。病気の少年のために打った約束のホームランや、電車にぶち当てた特大ホームランなどベーブに関する逸話が紹介され、人気は抜群だ。
 500本塁打以上打った選手たちの展示では、メジャー通算755本のハンクアーロンを称えている。ここには本塁打世界記録の王貞治の写真もひっそり展示してあった。ファンであった私は、世界の王の扱いが小さく不平等と思ったが、球場の広さ、投手の質を考えると仕方はないかもしれない。
 わが松井がヤンキー・スタジアムでの開幕戦で放った満塁本塁打のバットや、ワールド・シリーズでの本塁打でひび割れたバットも飾られていた。もちろん野茂投手が1996年に達成したノーヒットノーランの直筆サインボールや、首位打者になったイチロー外野手のバットなども展示されていた。イチローと言えば2025年に日本人初の殿堂入りが確実視されている。
 イチローに次ぐ松井には、こんな忘れられない記憶がある。朝日新聞金沢支局長に在任の時、松井が星稜高校(石川)にいた。甲子園の全国大会の明徳義塾戦で、5打席連続敬遠があって、読者から多くの主催への抗議を受けた苦い思い出がよぎる。挨拶のため支局を訪れた松井君と握手をしたのが、ついこの間のような気がする。その松井が、大リーガーとして世界の野球少年に夢を与えたのだから感慨深い。
 ニューヨーク・ヤンキースの本拠地、ヤンキー・スタジアムを地下鉄に乗って訪れた。ベーブ・ルースが入団した1923年に開設され、数々のドラマを繰り広げた由緒ある球場だ。5万7500余人が収容でき、三階席上段からハドソンリバーやマンハッタンの摩天楼も眺められた。
 日本にも数多くの野球少年や愛好者がいる。大谷選手の活躍を現地で見たいものだ。本場のヤンキー・スタジアムなどで日本人大リーガーの試合を観戦し、クーパーズタウンの「野球の殿堂」の見学や、聖地グラウンドでの体験野球などを盛り込んだツアーが企画されたら一層楽しいだろうと、思い描く。草野球の少年たちにとって夢の舞台ヤンキー・スタジアムで見た、「私たちは忘れない」の「9・11」記念碑を心に刻み、球場を後にした。
Copyright©2003-2024 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
 今年も大リーグ・ロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手の破格の活躍が連日のようにニュースで伝えられたが、ニューヨーク郊外の野球発祥の地を訪れる日本人はほとんどいない。かつて野茂英雄やイチロー、松井秀喜選手らが活躍し、現在も10人を超す日本人大リーガーがプレーする。衛星放送でも見られるが、生の姿を見る大リーグ観戦ツアーも実施されている。すでに20年も前になるが、2003年の晩秋、「野球の原点を訪ねるツアーを」―とのユナイテッド航空の企画に参加した。野球文化の本場の様子と、定番の観光コースとは異なる旅の魅力を報告する。

約2300人の小さな町に
野球の発祥地、「殿堂」も

 当時、ユナイテッド航空は新たな観光開拓を見込み、日本の旅行社を対象に格安の研修ツアーを組んだ。朝日新聞社に在籍していた筆者は、系列の旅行会社担当者からの誘いもあって、特別にメンバーに加えてもらった。実は2001年に同社の航空便がハイジャックされツインタワーのワールトレードセンターを直撃した「9・11」事件の現場を見ておきたかったこともあった。その「グラウンド・ゼロ」は、金網の塀に囲まれ空き地となっていた。現在は整備され、2700人以上となった犠牲者の名が刻まれた慰霊碑や博物館、新たな高層ビルが建ち整備されている。
 さてアメリカで生まれた野球の聖地は、マンハッタンから北西へ約400キロも離れたクーパーズタウンという森と湖に囲まれた大自然の中にぽつりとある。飛行場が無く鉄道も通らない。バスや車でしか行けず、一日がかりになる。そこには初めて野球場と呼ばれたフィールドや、「野球の殿堂」などがある。野球を愛するニューヨークっ子なら何度も足を運んでいるという。
 なぜここに「殿堂」ができたかというのは、初めて野球場と呼ばれるフィールドが出来たからだ。ちなみに町の名の由来は、1785年にウイリアム・クーパー判事がニュージャージー州からニューヨーク州北西部のある名前のない町の土地の権利を得て、そこに大通りを造った。地図作成時に記載される名前を求められた時、彼は自分の名前でもあるクーパーを取ってクーパーズタウンと名づけたそうだ。
 子どもたちはこの地の草原で、ただボールを投げ打ち走っていた。そんな子どもたちのボール遊びを見ていたアメリカ陸軍のダブルデイ将軍が1839年に、ベースを埋め込んだフィールドを使ってプレーすることを思いつき、ルールを作ったのが、今日の野球の始まりといわれる。
 世界で初めての野球場「ダブルデイフィールド」を訪ねた。一時は荒廃が進み、野球するのもおぼつかないほど荒地と化してしまっていたが、地元の有志団体が土地を買い上げ、外野を拡張しスタンドを設け、1934年に再オープンにこぎつけた。
 現在は収容観客数1万人が入れる野球場として整備されており、スタンドに入ることができた。少年野球や、一年に一度殿堂入り表彰の週に、メジャー1Aリーグの一試合が奉納試合として行われているという。
 もちろんアメリカの球場なので内野にも外野にもきれいな芝が植え込まれており、係員が手入れをしている。世界の野球の夢はここから始まったと思うと、しみじみ感動が涌いてきた。
 クーパーズタウンは、人口約2300人の小さな町だが、年間35~40万人もの人が訪れている。この地は野球天国の町なのだ。このためわずか100メートルそこそこの通りの両側には野球関連のギフトショップやベーカリーなどがずらりと並んでいる。
 コーヒーを飲むため入ったレストランには、テレビゲーム、ピンボールなどはすべて野球関係、レジのガラスケースには野球カード、サインボールが展示されている。しかしよく見ると値札がついている。これはみんな売り物だった。
 レストランの隣の建物は野球グッズの店だった。中に入ると有名選手のユニフォームが天井に吊るされている。店員に尋ねるとすべて使用済みの本物なので販売はしていないという。しかし選手仕様のユニフォームは80~100ドルで買える。
 野球グッズは、サインボールやユニフォーム、野球帽、Tシャツなどが売れ筋というが、選手の人形、野球カード、コップ、キーホルダー、本、ビデオ、カレンダーなど盛りだくさんだ。見て回るだけでも楽しくなる。

《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
野茂の記念ボールや松井・イチローの記念バット
 野球場に次いで訪ねたのが本場の「殿堂」だ。あまり目立たないがレンガ作りの二階建ての建物がお目当ての「ホールオブフェーム」である。見た目には二階建てに見えるが実は内部は三層作りなっていた。
 野球誕生1 0 0 周年を記念して、1938年に完成した「野球の殿堂」は、日本の倍近くの145年の球史を誇る大リーグだけに、多くのヒーローを出しアメリカンドリームの象徴としての野球のすべてが詰まった建物だ。
 膨大な記録はもちろん棒のようなバットや単なる手袋のようなグローブなど用具の発展などに関する実物や資料、映像や図書館施設もあり、野球に関する幅広い文化が理解できる。もちろん有名選手のユニフォームはじめ、記録達成時のサイン入りバットやボール、数々の貴重品が展示されていた。
 入ってすぐ目に止まるのが、打撃の神様、ベーブ・ルースの等身大のロウ人形だ。ベーブ・ルースの本名は、ジョージ・ハーマン・ルースだが、その童顔と子供のような行動からべーブ・ルースというニックネームがついたという。714本の本塁打を放ったベーブの生い立ちからメジャーリーグ入り、ヤンキースでの黄金時代などが展示されていた。病気の少年のために打った約束のホームランや、電車にぶち当てた特大ホームランなどベーブに関する逸話が紹介され、人気は抜群だ。
 500本塁打以上打った選手たちの展示では、メジャー通算755本のハンクアーロンを称えている。ここには本塁打世界記録の王貞治の写真もひっそり展示してあった。ファンであった私は、世界の王の扱いが小さく不平等と思ったが、球場の広さ、投手の質を考えると仕方はないかもしれない。
 わが松井がヤンキー・スタジアムでの開幕戦で放った満塁本塁打のバットや、ワールド・シリーズでの本塁打でひび割れたバットも飾られていた。もちろん野茂投手が1996年に達成したノーヒットノーランの直筆サインボールや、首位打者になったイチロー外野手のバットなども展示されていた。イチローと言えば2025年に日本人初の殿堂入りが確実視されている。
 イチローに次ぐ松井には、こんな忘れられない記憶がある。朝日新聞金沢支局長に在任の時、松井が星稜高校(石川)にいた。甲子園の全国大会の明徳義塾戦で、5打席連続敬遠があって、読者から多くの主催への抗議を受けた苦い思い出がよぎる。挨拶のため支局を訪れた松井君と握手をしたのが、ついこの間のような気がする。その松井が、大リーガーとして世界の野球少年に夢を与えたのだから感慨深い。
 ニューヨーク・ヤンキースの本拠地、ヤンキー・スタジアムを地下鉄に乗って訪れた。ベーブ・ルースが入団した1923年に開設され、数々のドラマを繰り広げた由緒ある球場だ。5万7500余人が収容でき、三階席上段からハドソンリバーやマンハッタンの摩天楼も眺められた。
 日本にも数多くの野球少年や愛好者がいる。大谷選手の活躍を現地で見たいものだ。本場のヤンキー・スタジアムなどで日本人大リーガーの試合を観戦し、クーパーズタウンの「野球の殿堂」の見学や、聖地グラウンドでの体験野球などを盛り込んだツアーが企画されたら一層楽しいだろうと、思い描く。草野球の少年たちにとって夢の舞台ヤンキー・スタジアムで見た、「私たちは忘れない」の「9・11」記念碑を心に刻み、球場を後にした。