ちょうど80年前の1944年12月7日13時36分M7.9、震度6+。
▼講堂(武豊国民学校)でみんなが紙芝居を見とってねえ。
▼ガタガタッーって揺れて来てね。
▼講堂にぶら下がっていた電灯が、ぶらんぶらんと揺れだして、生徒が総立ちになったので、先生が「座れ!」と言って、みんな出ようとするのがいったん止まったんだわね。ところが、電灯が回り出して天井に当たって電球がバーンとはぜたの。で、みんなが、ワーッと言って外へ出たんだよね。
▼あの時先生が、「運動場へ逃げろ」って言われなかったあ?
▼入口(講堂の出入り口)にみんな殺到したんだよね。
▼講堂の東の出入り口のところでさ、階段(二段)で、誰か転んで一番下になったんだね。悲鳴を上げていたもんね。
▼悲鳴を上げているのなんか、おかまいなしで這って出て行ったんだよね。今でも、その友達に申し訳なかったと思っているけど・・・。
▼とにかく外へ出て二宮金次郎の柵の所まで転げるようにして行ったら、運動場の真ん中からビビビッとひびが入って「運動場が危ないっ。土手に上がれ」って言われて、みんながワーワー泣いてさあ。
▼運動場はひび割れて、危なかったよ。
▼だから、上へ上がって並んだ。
▼私ね、あの二宮金次郎の所の木に掴まっていたもんね。
▼職員室の前で学年別の点呼があって、それから分団別で帰って行ったと思うよ。
▼途中で家がつぶれていたりしてね。
▼あの時火事があったよね。
▼私は、小学校の裏にある幼稚園(学校の敷地内に併設)に妹がいたので妹は大丈夫かしら、それに堀川を通って帰るので、堀川は大丈夫かしらと思ったら、オロオロして、泣けて泣けて困っちゃったのよね。家に帰ったら妹はルンルンで元気に帰っていて一安心したのよね。幼稚園は少し早く帰っていたんだよね。

上は空襲、下はこのひと月後にまた地震。その2に続く・・。

 武豊中学校の最初の一年生たちが50年後に発行した本『想い出さまざま激動の中に育ちて(平成9年)』。その中の「語り継ごう 思い出は 私たちの宝もの」という収録・書き起こしたページから、地震当日の想い出を抜粋して時系列に並び変えて引用させて頂きました。

                                       
伊藤明德
Copyright©2003-2024 Akai Newspaper dealer
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新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
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■元気の出てくることばたち
 ちょうど80年前の1944年12月7日13時36分M7.9、震度6+。
▼講堂(武豊国民学校)でみんなが紙芝居を見とってねえ。
▼ガタガタッーって揺れて来てね。
▼講堂にぶら下がっていた電灯が、ぶらんぶらんと揺れだして、生徒が総立ちになったので、先生が「座れ!」と言って、みんな出ようとするのがいったん止まったんだわね。ところが、電灯が回り出して天井に当たって電球がバーンとはぜたの。で、みんなが、ワーッと言って外へ出たんだよね。
▼あの時先生が、「運動場へ逃げろ」って言われなかったあ?
▼入口(講堂の出入り口)にみんな殺到したんだよね。
▼講堂の東の出入り口のところでさ、階段(二段)で、誰か転んで一番下になったんだね。悲鳴を上げていたもんね。
▼悲鳴を上げているのなんか、おかまいなしで這って出て行ったんだよね。今でも、その友達に申し訳なかったと思っているけど・・・。
▼とにかく外へ出て二宮金次郎の柵の所まで転げるようにして行ったら、運動場の真ん中からビビビッとひびが入って「運動場が危ないっ。土手に上がれ」って言われて、みんながワーワー泣いてさあ。
▼運動場はひび割れて、危なかったよ。
▼だから、上へ上がって並んだ。
▼私ね、あの二宮金次郎の所の木に掴まっていたもんね。
▼職員室の前で学年別の点呼があって、それから分団別で帰って行ったと思うよ。
▼途中で家がつぶれていたりしてね。
▼あの時火事があったよね。
▼私は、小学校の裏にある幼稚園(学校の敷地内に併設)に妹がいたので妹は大丈夫かしら、それに堀川を通って帰るので、堀川は大丈夫かしらと思ったら、オロオロして、泣けて泣けて困っちゃったのよね。家に帰ったら妹はルンルンで元気に帰っていて一安心したのよね。幼稚園は少し早く帰っていたんだよね。

上は空襲、下はこのひと月後にまた地震。その2に続く・・。

 武豊中学校の最初の一年生たちが50年後に発行した本『想い出さまざま激動の中に育ちて(平成9年)』。その中の「語り継ごう 思い出は 私たちの宝もの」という収録・書き起こしたページから、地震当日の想い出を抜粋して時系列に並び変えて引用させて頂きました。
                          伊藤明德
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 ちょうど80年前の1944年12月7日13時36分M7.9、震度6+。
▼講堂(武豊国民学校)でみんなが紙芝居を見とってねえ。
▼ガタガタッーって揺れて来てね。
▼講堂にぶら下がっていた電灯が、ぶらんぶらんと揺れだして、生徒が総立ちになったので、先生が「座れ!」と言って、みんな出ようとするのがいったん止まったんだわね。ところが、電灯が回り出して天井に当たって電球がバーンとはぜたの。で、みんなが、ワーッと言って外へ出たんだよね。
▼あの時先生が、「運動場へ逃げろ」って言われなかったあ?
▼入口(講堂の出入り口)にみんな殺到したんだよね。
▼講堂の東の出入り口のところでさ、階段(二段)で、誰か転んで一番下になったんだね。悲鳴を上げていたもんね。
▼悲鳴を上げているのなんか、おかまいなしで這って出て行ったんだよね。今でも、その友達に申し訳なかったと思っているけど・・・。
▼とにかく外へ出て二宮金次郎の柵の所まで転げるようにして行ったら、運動場の真ん中からビビビッとひびが入って「運動場が危ないっ。土手に上がれ」って言われて、みんながワーワー泣いてさあ。
▼運動場はひび割れて、危なかったよ。
▼だから、上へ上がって並んだ。
▼私ね、あの二宮金次郎の所の木に掴まっていたもんね。
▼職員室の前で学年別の点呼があって、それから分団別で帰って行ったと思うよ。
▼途中で家がつぶれていたりしてね。
▼あの時火事があったよね。
▼私は、小学校の裏にある幼稚園(学校の敷地内に併設)に妹がいたので妹は大丈夫かしら、それに堀川を通って帰るので、堀川は大丈夫かしらと思ったら、オロオロして、泣けて泣けて困っちゃったのよね。家に帰ったら妹はルンルンで元気に帰っていて一安心したのよね。幼稚園は少し早く帰っていたんだよね。

上は空襲、下はこのひと月後にまた地震。その2に続く・・。

 武豊中学校の最初の一年生たちが50年後に発行した本『想い出さまざま激動の中に育ちて(平成9年)』。その中の「語り継ごう 思い出は 私たちの宝もの」という収録・書き起こしたページから、地震当日の想い出を抜粋して時系列に並び変えて引用させて頂きました。

                      
伊藤明德