ルソーは『社会契約論』の中で「一般意志」による社会契約を説き、カントは『実践理性批判』の中で「道徳律」による実践を説き、ともに隣人愛の実現を目指していたからです。つまりヘーゲルはこの事実に注目して、この『精神現象学』において、隣人愛による共存こそ人間の自由を豊かに発展させるものとしたのでした。端的にいえば、隣人愛を深め実践することこそ現代の哲学の課題だとしたのでした。
 しかしこう書いてきて思うのは、みなさんが変な気持ちになっているのではないかということです。中埜を誠実なヘーゲル研究者と言いながら、ヘーゲルの要の思想である隣人愛を曖昧にする中埜のどこが誠実なのかと。この問題は、私は先月号で「中埜の紹介は複雑とならざるを得ません」と書きましたが、この事と関係しているのです。
 中埜の研究書を読むと、中埜は分からなくて曖昧にしたのではなく、分かっていて曖昧にしているように読めるからです。
 中埜はこのヘーゲルの『精神現象学』の説明にあたって、『精神現象学』の中味を踏まえた説明はもちろん、ドイツでのヘーゲル研究の紹介や、ヘーゲル自身が書いた新聞広告文の説明を読むと、私が上で書いた説明とほとんど合致するのに、なぜかキリスト教との宥和、隣人愛との宥和だけを欠落させているという具合だからです。
 例えば『精神現象学』には、『意識の経験の学から精神の現象学」が書かれていると言われますが、ここの所を中埜は本当にきちんと説明しています。
 「意識の経験の学」とは対象認識のことです(端的にいえば自然科学のことです)が、人間はこの対象認識において生活の土台を築き生活を豊かにしていきます。ヘーゲルは、人間の意識はこの意識からはじまるとするだけでしたが、中埜はこの意識をわざわざ取り出して「対象意識」と説明してくれています。この説明はとても大切です。
 なぜなら、この自然科学の上において、人間は人間的自覚を深め、自己を意識し、真実に自由を求め良く生きようとする「自己意識」(哲学)の世界に入っていきますが、このことを明確にするために「対象意識」として示してくれたからです。そしてヘーゲルはこの自己意識の理性の世界のことを「精神の現象学」と言います。
 しかし、人間は人間的自覚において自由を求め、自由世界を実現しようとしますが、なぜか不自由になるのでした。「自由を求めて不自由になる」。先月号でもご説明致しました。ヘーゲルはこうなる関係を「人間疎外」と言います。中埜はここまでは正確に跡づけるのですが、ヘーゲルがこの「人間疎外」において、隣人愛による共存の必要に気づき、ルソーやカントに倣って隣人愛での宥和を説くのに、中埜はこれについては一切触れずに、曖昧にし無視するのでした。
 なぜ曖昧にするのか。意識的にしたとしか言いようがありません。
 来月号で書きますが、中埜は「コモンセンス」による世界統合を説きます。ということはキリスト教に触れたくなかったから曖昧にした。これが理由のようです。
 中埜はヘーゲルのことを「ヨハネ的哲学者」と評します。このヨハネとは聖書に出て来る「ヨハネ伝」のヨハネのことです。ご存知のように、ヨハネはヨハネ伝の筆者で、「神は以前にモーゼの十戒で、神の律法を伝えたが、人間は間違った理解をし、支配の道具に使っている。そこで神の教えは隣人愛なので、ひとり子のイエスを降誕させ、隣人愛を実践させた」と言います。なのにその隣人愛を無視。意識的としか言いようがありません。
(次号に続く)
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 ルソーは『社会契約論』の中で「一般意志」による社会契約を説き、カントは『実践理性批判』の中で「道徳律」による実践を説き、ともに隣人愛の実現を目指していたからです。つまりヘーゲルはこの事実に注目して、この『精神現象学』において、隣人愛による共存こそ人間の自由を豊かに発展させるものとしたのでした。端的にいえば、隣人愛を深め実践することこそ現代の哲学の課題だとしたのでした。
 しかしこう書いてきて思うのは、みなさんが変な気持ちになっているのではないかということです。中埜を誠実なヘーゲル研究者と言いながら、ヘーゲルの要の思想である隣人愛を曖昧にする中埜のどこが誠実なのかと。この問題は、私は先月号で「中埜の紹介は複雑とならざるを得ません」と書きましたが、この事と関係しているのです。
 中埜の研究書を読むと、中埜は分からなくて曖昧にしたのではなく、分かっていて曖昧にしているように読めるからです。
 中埜はこのヘーゲルの『精神現象学』の説明にあたって、『精神現象学』の中味を踏まえた説明はもちろん、ドイツでのヘーゲル研究の紹介や、ヘーゲル自身が書いた新聞広告文の説明を読むと、私が上で書いた説明とほとんど合致するのに、なぜかキリスト教との宥和、隣人愛との宥和だけを欠落させているという具合だからです。
 例えば『精神現象学』には、『意識の経験の学から精神の現象学」が書かれていると言われますが、ここの所を中埜は本当にきちんと説明しています。
 「意識の経験の学」とは対象認識のことです(端的にいえば自然科学のことです)が、人間はこの対象認識において生活の土台を築き生活を豊かにしていきます。ヘーゲルは、人間の意識はこの意識からはじまるとするだけでしたが、中埜はこの意識をわざわざ取り出して「対象意識」と説明してくれています。この説明はとても大切です。
 なぜなら、この自然科学の上において、人間は人間的自覚を深め、自己を意識し、真実に自由を求め良く生きようとする「自己意識」(哲学)の世界に入っていきますが、このことを明確にするために「対象意識」として示してくれたからです。そしてヘーゲルはこの自己意識の理性の世界のことを「精神の現象学」と言います。
 しかし、人間は人間的自覚において自由を求め、自由世界を実現しようとしますが、なぜか不自由になるのでした。「自由を求めて不自由になる」。先月号でもご説明致しました。ヘーゲルはこうなる関係を「人間疎外」と言います。中埜はここまでは正確に跡づけるのですが、ヘーゲルがこの「人間疎外」において、隣人愛による共存の必要に気づき、ルソーやカントに倣って隣人愛での宥和を説くのに、中埜はこれについては一切触れずに、曖昧にし無視するのでした。
 なぜ曖昧にするのか。意識的にしたとしか言いようがありません。
 来月号で書きますが、中埜は「コモンセンス」による世界統合を説きます。ということはキリスト教に触れたくなかったから曖昧にした。これが理由のようです。
 中埜はヘーゲルのことを「ヨハネ的哲学者」と評します。このヨハネとは聖書に出て来る「ヨハネ伝」のヨハネのことです。ご存知のように、ヨハネはヨハネ伝の筆者で、「神は以前にモーゼの十戒で、神の律法を伝えたが、人間は間違った理解をし、支配の道具に使っている。そこで神の教えは隣人愛なので、ひとり子のイエスを降誕させ、隣人愛を実践させた」と言います。なのにその隣人愛を無視。意識的としか言いようがありません。
(次号に続く)
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 ルソーは『社会契約論』の中で「一般意志」による社会契約を説き、カントは『実践理性批判』の中で「道徳律」による実践を説き、ともに隣人愛の実現を目指していたからです。つまりヘーゲルはこの事実に注目して、この『精神現象学』において、隣人愛による共存こそ人間の自由を豊かに発展させるものとしたのでした。端的にいえば、隣人愛を深め実践することこそ現代の哲学の課題だとしたのでした。
 しかしこう書いてきて思うのは、みなさんが変な気持ちになっているのではないかということです。中埜を誠実なヘーゲル研究者と言いながら、ヘーゲルの要の思想である隣人愛を曖昧にする中埜のどこが誠実なのかと。この問題は、私は先月号で「中埜の紹介は複雑とならざるを得ません」と書きましたが、この事と関係しているのです。
 中埜の研究書を読むと、中埜は分からなくて曖昧にしたのではなく、分かっていて曖昧にしているように読めるからです。
 中埜はこのヘーゲルの『精神現象学』の説明にあたって、『精神現象学』の中味を踏まえた説明はもちろん、ドイツでのヘーゲル研究の紹介や、ヘーゲル自身が書いた新聞広告文の説明を読むと、私が上で書いた説明とほとんど合致するのに、なぜかキリスト教との宥和、隣人愛との宥和だけを欠落させているという具合だからです。
 例えば『精神現象学』には、『意識の経験の学から精神の現象学」が書かれていると言われますが、ここの所を中埜は本当にきちんと説明しています。
 「意識の経験の学」とは対象認識のことです(端的にいえば自然科学のことです)が、人間はこの対象認識において生活の土台を築き生活を豊かにしていきます。ヘーゲルは、人間の意識はこの意識からはじまるとするだけでしたが、中埜はこの意識をわざわざ取り出して「対象意識」と説明してくれています。この説明はとても大切です。
 なぜなら、この自然科学の上において、人間は人間的自覚を深め、自己を意識し、真実に自由を求め良く生きようとする「自己意識」(哲学)の世界に入っていきますが、このことを明確にするために「対象意識」として示してくれたからです。そしてヘーゲルはこの自己意識の理性の世界のことを「精神の現象学」と言います。
 しかし、人間は人間的自覚において自由を求め、自由世界を実現しようとしますが、なぜか不自由になるのでした。「自由を求めて不自由になる」。先月号でもご説明致しました。ヘーゲルはこうなる関係を「人間疎外」と言います。中埜はここまでは正確に跡づけるのですが、ヘーゲルがこの「人間疎外」において、隣人愛による共存の必要に気づき、ルソーやカントに倣って隣人愛での宥和を説くのに、中埜はこれについては一切触れずに、曖昧にし無視するのでした。
 なぜ曖昧にするのか。意識的にしたとしか言いようがありません。
 来月号で書きますが、中埜は「コモンセンス」による世界統合を説きます。ということはキリスト教に触れたくなかったから曖昧にした。これが理由のようです。
 中埜はヘーゲルのことを「ヨハネ的哲学者」と評します。このヨハネとは聖書に出て来る「ヨハネ伝」のヨハネのことです。ご存知のように、ヨハネはヨハネ伝の筆者で、「神は以前にモーゼの十戒で、神の律法を伝えたが、人間は間違った理解をし、支配の道具に使っている。そこで神の教えは隣人愛なので、ひとり子のイエスを降誕させ、隣人愛を実践させた」と言います。なのにその隣人愛を無視。意識的としか言いようがありません。
(次号に続く)