中埜肇は、ドイツ観念論哲学者ヘーゲルの本格的研究者です。しかも、ヘーゲル哲学の先駆的研究者で、日本でヘーゲル研究の土台を築いた第一級の研究者と言って過言ではありません。ヘーゲル哲学を世界最高の哲学者と考える私にとって、中埜は私の先輩にあたり、とても大切な人です。生没年は1922年-1997年。
 中埜は、「中野」でなく「中埜」ですので、 中埜半左衛門家の一統ですが、父は半左衛門家の次男の嫡男ですので、本家でなく分家となります。優秀な家系で父は東京帝国大学法学部出身。中埜は京都大学文学部哲学科卒業です。
 中埜は誠実な人でした。研究はもちろんですが、生活においても。中埜は尊厳死を選び、死の前に半田市成岩本町にある無量寿寺に中埜家のお墓をつくり、逝去されました。
 研究も誠に誠実そのもので、ヘーゲル哲学の根本をしっかり理解した研究を残されています。
 しかし現代の研究から言えば、というよりも私の研究から言えば、いろいろ問題があり、すべてOKというわけにはまいりません。その私が中埜を紹介するのですから、紹介は複雑とならざるを得ません。でも私は紹介したいのです。先輩として尊敬しているので。こういうことですので、読者の皆様には我慢して読んでいただかねばなりません。このことをお願いした上で書くことにします。
 中埜が京都大学、私は愛知教育大学ですから、先輩と言っても学歴的先輩ではありません。ヘーゲル研究ということでの先輩です。
 私は大同高校の教員でしたが、退職後、ヘーゲルの『精神現象学』が読めるようになりたくて、名古屋市立大学に入学し、福吉勝男教授の指導を受けて読めるようになりましたが、その目で見ると、中埜のヘーゲル研究の深さと欠点が見えて来るのでした。この点からの中埜の紹介となります。
 さて、中埜はなぜか、ヘーゲルが『精神現象学』において、哲学の宗教(キリスト教)への宥和を述べているのに、それを曖昧にするのです。宥和の事実に触れない形で。これが中埜の研究の一番の欠点なのです。
 『精神現象学』を何度も読み返しましたが、この本は、人間が自由を求めるも、自分だけの自由を求めていては自由は実現できず、共存の心を持たないと真実の自由は実現できないと自覚するに至る人間の自己陶冶の物語として書かれています。その要となる共存の心の自覚と関係するのがキリスト教との宥和ですが、中埜はこのことに触れないで曖昧にするのです。
 人間は共存を求め、自分だけの物でなく、他者に役立つ物をもつくり出します。つまり分業です。なのに、現実には貧富の差が生み出され、支配と隷属の関係がつくり出され、人間の社会は動物界のような弱肉強食の社会になり、共存の社会とはほど遠い社会になっています。ヘーゲルはこれを、人間は自由を求め不自由になったと言います。なぜこうなるのか。これを問い、これの解決を求めたのがこの『精神現象学』だったのです。そして、その解決の道はキリスト教の隣人愛の思想を身につけることだとヘーゲルは覚ります。
 しかしこの思想をヘーゲルは、頭の中で考えて言ったのではありません。この『精神現象学』は、ある意味で哲学史として書かれていますが、この隣人愛の心で共存しようとの自覚を、ルソーやカントがすでに説いていますが、これを踏まえて言ったのでした。
(次号に続く)
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 中埜肇は、ドイツ観念論哲学者ヘーゲルの本格的研究者です。しかも、ヘーゲル哲学の先駆的研究者で、日本でヘーゲル研究の土台を築いた第一級の研究者と言って過言ではありません。ヘーゲル哲学を世界最高の哲学者と考える私にとって、中埜は私の先輩にあたり、とても大切な人です。生没年は1922年-1997年。
 中埜は、「中野」でなく「中埜」ですので、 中埜半左衛門家の一統ですが、父は半左衛門家の次男の嫡男ですので、本家でなく分家となります。優秀な家系で父は東京帝国大学法学部出身。中埜は京都大学文学部哲学科卒業です。
 中埜は誠実な人でした。研究はもちろんですが、生活においても。中埜は尊厳死を選び、死の前に半田市成岩本町にある無量寿寺に中埜家のお墓をつくり、逝去されました。
 研究も誠に誠実そのもので、ヘーゲル哲学の根本をしっかり理解した研究を残されています。
 しかし現代の研究から言えば、というよりも私の研究から言えば、いろいろ問題があり、すべてOKというわけにはまいりません。その私が中埜を紹介するのですから、紹介は複雑とならざるを得ません。でも私は紹介したいのです。先輩として尊敬しているので。こういうことですので、読者の皆様には我慢して読んでいただかねばなりません。このことをお願いした上で書くことにします。
 中埜が京都大学、私は愛知教育大学ですから、先輩と言っても学歴的先輩ではありません。ヘーゲル研究ということでの先輩です。
 私は大同高校の教員でしたが、退職後、ヘーゲルの『精神現象学』が読めるようになりたくて、名古屋市立大学に入学し、福吉勝男教授の指導を受けて読めるようになりましたが、その目で見ると、中埜のヘーゲル研究の深さと欠点が見えて来るのでした。この点からの中埜の紹介となります。
 さて、中埜はなぜか、ヘーゲルが『精神現象学』において、哲学の宗教(キリスト教)への宥和を述べているのに、それを曖昧にするのです。宥和の事実に触れない形で。これが中埜の研究の一番の欠点なのです。
 『精神現象学』を何度も読み返しましたが、この本は、人間が自由を求めるも、自分だけの自由を求めていては自由は実現できず、共存の心を持たないと真実の自由は実現できないと自覚するに至る人間の自己陶冶の物語として書かれています。その要となる共存の心の自覚と関係するのがキリスト教との宥和ですが、中埜はこのことに触れないで曖昧にするのです。
 人間は共存を求め、自分だけの物でなく、他者に役立つ物をもつくり出します。つまり分業です。なのに、現実には貧富の差が生み出され、支配と隷属の関係がつくり出され、人間の社会は動物界のような弱肉強食の社会になり、共存の社会とはほど遠い社会になっています。ヘーゲルはこれを、人間は自由を求め不自由になったと言います。なぜこうなるのか。これを問い、これの解決を求めたのがこの『精神現象学』だったのです。そして、その解決の道はキリスト教の隣人愛の思想を身につけることだとヘーゲルは覚ります。
 しかしこの思想をヘーゲルは、頭の中で考えて言ったのではありません。この『精神現象学』は、ある意味で哲学史として書かれていますが、この隣人愛の心で共存しようとの自覚を、ルソーやカントがすでに説いていますが、これを踏まえて言ったのでした。
(次号に続く)
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 中埜肇は、ドイツ観念論哲学者ヘーゲルの本格的研究者です。しかも、ヘーゲル哲学の先駆的研究者で、日本でヘーゲル研究の土台を築いた第一級の研究者と言って過言ではありません。ヘーゲル哲学を世界最高の哲学者と考える私にとって、中埜は私の先輩にあたり、とても大切な人です。生没年は1922年-1997年。
 中埜は、「中野」でなく「中埜」ですので、 中埜半左衛門家の一統ですが、父は半左衛門家の次男の嫡男ですので、本家でなく分家となります。優秀な家系で父は東京帝国大学法学部出身。中埜は京都大学文学部哲学科卒業です。
 中埜は誠実な人でした。研究はもちろんですが、生活においても。中埜は尊厳死を選び、死の前に半田市成岩本町にある無量寿寺に中埜家のお墓をつくり、逝去されました。
 研究も誠に誠実そのもので、ヘーゲル哲学の根本をしっかり理解した研究を残されています。
 しかし現代の研究から言えば、というよりも私の研究から言えば、いろいろ問題があり、すべてOKというわけにはまいりません。その私が中埜を紹介するのですから、紹介は複雑とならざるを得ません。でも私は紹介したいのです。先輩として尊敬しているので。こういうことですので、読者の皆様には我慢して読んでいただかねばなりません。このことをお願いした上で書くことにします。
 中埜が京都大学、私は愛知教育大学ですから、先輩と言っても学歴的先輩ではありません。ヘーゲル研究ということでの先輩です。
 私は大同高校の教員でしたが、退職後、ヘーゲルの『精神現象学』が読めるようになりたくて、名古屋市立大学に入学し、福吉勝男教授の指導を受けて読めるようになりましたが、その目で見ると、中埜のヘーゲル研究の深さと欠点が見えて来るのでした。この点からの中埜の紹介となります。
 さて、中埜はなぜか、ヘーゲルが『精神現象学』において、哲学の宗教(キリスト教)への宥和を述べているのに、それを曖昧にするのです。宥和の事実に触れない形で。これが中埜の研究の一番の欠点なのです。
 『精神現象学』を何度も読み返しましたが、この本は、人間が自由を求めるも、自分だけの自由を求めていては自由は実現できず、共存の心を持たないと真実の自由は実現できないと自覚するに至る人間の自己陶冶の物語として書かれています。その要となる共存の心の自覚と関係するのがキリスト教との宥和ですが、中埜はこのことに触れないで曖昧にするのです。
 人間は共存を求め、自分だけの物でなく、他者に役立つ物をもつくり出します。つまり分業です。なのに、現実には貧富の差が生み出され、支配と隷属の関係がつくり出され、人間の社会は動物界のような弱肉強食の社会になり、共存の社会とはほど遠い社会になっています。ヘーゲルはこれを、人間は自由を求め不自由になったと言います。なぜこうなるのか。これを問い、これの解決を求めたのがこの『精神現象学』だったのです。そして、その解決の道はキリスト教の隣人愛の思想を身につけることだとヘーゲルは覚ります。
 しかしこの思想をヘーゲルは、頭の中で考えて言ったのではありません。この『精神現象学』は、ある意味で哲学史として書かれていますが、この隣人愛の心で共存しようとの自覚を、ルソーやカントがすでに説いていますが、これを踏まえて言ったのでした。
(次号に続く)