MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
「八尾の町では、どこにいてもこの雪流しの音が耳に入ってくる。坂の町であるばかりでなく、八尾は水音の町なのだ」といった書き出しで始まる高橋治さんの『風の盆恋歌』(1987年、新潮社)。この一冊の本が、富山の小さな町を全国に知らしめ、毎年9月1日から三日間の祭りに、25万人もの人出をもたらすことになったのだ。かく言う私も、風の盆通いは9度を数えている。私にとって心に刻まれた、この祭りのことを追憶し、書き記しておく。

一冊の小説から観光ブーム巻き起こす
 私がこの町のことを知ったのも、その小説を読んでからだ。当の高橋さんとお会いすることになり、話題づくりに目を通しておく必要があったためだ。1991年6月に遡る。当時、私は朝日新聞社の金沢支局長に着任した直後で、高橋さんから支局訪問の要請があった。白山の自然保護について話を聞いてほしいとのことだった。
 高橋さんの著書では、第90回直木賞の『秘伝』(1984年、講談社)だけは読んでいた。長崎県西彼杵半島の西海岸を舞台に、二人の釣り名人と怪魚イシナギの死闘劇の話で骨太な作家とお見受けしていた。ところが一転、『風の盆恋歌』のストーリーは、大人の恋愛を描いていた。
 小説のあらましこそ男と女の不倫物語だったが、それは舞台回しに過ぎない。作家は八尾の町を、風の盆を、そして何より町衆が支える祭り「おわら」を書きたかったのであろう。「おわら」は盆踊りでありながら静かで心にしみる祭りなのだ。読み進めると、一度も訪れたことのない町と祭りの情景が脳裏に浮かんできた。
 それもそのはず高橋さんは、千葉県に生まれたが、昭和22年から4年間、金沢の旧制四高に通い、青春時代に八尾を知った。東大卒業後、映画会社の松竹に入り小津安二郎のもとで長く働いた後に執筆活動に入る。八尾は何度となく訪ね、ずっと温めていたテーマであったのだ。映像を手がけているだけに、臨場感のある文章表現が納得できた。
 「正直言って、おわらに惚れました。八尾には病みつきになるものを持っていますよ。並みの盆踊りなんかじゃ決してありません」。高橋さんの言葉を待つまでもなく「9月には必ず行ってみます」と答えたのをよく覚えている。肝心の自然保護はどんな話をしたのか思い出せない。
 「蚊帳の中から 花を見る 咲いてはかない 酔芙蓉 ……しのび逢う恋 風の盆」。カラオケなどで、よく歌われている「風の盆恋歌」の歌詞だ。もちろん高橋さんの小説をもとに、なかにし礼さんが1989年に作詞し大ヒットした。さらにテレビ番組や新派の舞台に波及し、その相乗効果で八尾は、観光ブームを巻き起こすことになった。
 風の盆は曜日に関係なく二百十日の9月1~3日まで開かれる。待ちかねた私にとって初めての八尾詣では、1991年の9月1日深夜だった。行き付けのスナックのマスターの知人が運転する車で乗り入れた。
 車を降りると、ただならぬ雰囲気だ。夜中だというのに多くの人が行き交う。そして遠くから路地を抜けて聞こえてくる三味線の音。さらに胡弓の哀調の音色が風のように流れ耳にまとわりついてくる。そこは紛れもなく「おわら風の盆」の町だった。
 次第に音が高まった下新町の八幡社の境内では舞台踊りの最中だった。女性はそろいのなまめかしい浴衣に編み笠。帯が一様に黒で引き締まった感じがした。男性は軽妙で粋な股引と法被姿で、やはり編み笠だ。踊り手の後方では唄い手と三味線に胡弓、時折り太鼓が加わる。甲高い唄い出しの音律が流れると、観客は舞台に集中する。
 男踊りは農作業の所作を振付けたそうだ。仕事の始まりを告げる呼び出しの手叩きから始まり、草を掻き分け、苗を植え、田や畑にある石を投げ、鍬を打ち、稲刈り、一日の仕事を終え天に合掌する仕草が振付けられている、中でも両手を水平に伸ばし案山子が傾いていく姿と、そこから身を変化する時に足を地面に強く踏む動きは凛々しい。素朴で直線的な踊りは「風の盆の粋」とも言える。
 翌年3月初旬、シーズンオフの八尾に出向いた。祭りの熱気のない、いわば化粧を施さないスッピンの町を見たかったからだ。JR富山駅から高山線に乗って、四つ目に八尾駅があった。殺風景な変哲もない田舎町の駅頭だった。町なかまでは30分ほど歩かなければならなかった。まだ道端に雪が残る坂を上っていく。振り向くと町の北側を流れる神通川の支流の井田川が帯のように見える。
 高橋さんの小説に書かれた坂の町が納得できた。夜目にはのぞめなかった崖の斜面がよく展望できた。崖の斜面に連なる家々の屋根が美しい。そして繰り返し丁寧に描かれている水音が聞こえる。町並みの軒下に「エンナカ」と呼ばれる側溝を雪解け水が流れていく。風の盆には灯が点るぼんぼりもない通りだが、格子戸の古い町並みが続く。
八尾は1532年、飛騨の聞名寺がこの地に坊を移してから、門前町として開けたそうだ。「おわら風の盆」の歴史を調べてみた。確たる発祥の由来は不明だ。『越中婦負郡志』によれば、1702年、加賀藩から下された「町建御墨付文書」を、町衆が町の開祖所有から取り戻したことに喜び、三日三晩踊り明かしたことに由来すると記されている。
 八尾を訪ねた文化人たちは数多くの「新作おわら」を残した。そして現在に伝わる、おわら節を洗練させたのは浄瑠璃を本格的に就業した名手、江尻豊治さんだ。今や三味線と並んで欠かせない胡弓が取り入れられたのは、比較的新しく明治時代末期のことで、輪島塗りの旅職人であった松本勘玄さんが始めたとされている。いずれも故人となっているが、「おわら風の盆」の恩人たちだ。
 おわらの魅力は長い歳月をかけ「洗練された芸」の融合にある。哀愁を帯びた音曲に合わせ、のびやかに唄い、しなやかに踊る「風の盆」は、元来静かな祭りだ。徳島の阿波踊りとは対極にある。四国生まれの私にとって、なぜか「おわら風の盆」の八尾は格別の町になった。

祭りの原点は町衆たちの心意気の継承
 8度目の八尾は2005年9月2日、初めて車中泊のバス旅だった。観光ツアーの実態を知るのも一興だと思った。JTB仕立てのバスは乗客46人の満席だ。難波を午前11時半に出発し、一路北陸路へ。一行は金沢のパーキングエリアで早い夕食を摂り、午後6時半には現地に入った。午後11時半まで自由時間だ。
 一人で楽しむ「おわら」なので、下新町の舞台を見ようと陣取った。最初の「おわら」の時と同じ場所だ。せっかちな観光客は単調な踊りが20分も続くと立ち去っていく。実は「おわら」は30分過ぎてからが本番だ。男踊りや女踊りがあり、その奥行きの深さが味わえるのだ。
 2012年は金沢に宿を取って知人の車で出向いたが、交通規制で、車は町外れの駐車場に誘導された。そこから町なかまで歩いて小一時間もかかり疲れ果てた。10度目をと計画していた2020年は、新型コロナ感染防止のため、その翌年も中止となった。
 「おわら風の盆」は、八尾に暮らす人々が大切に守り育んできた町民の生命ともいうべき祭りだ。遠くで働いている者も、町へ戻ってくる。たった三日間だけの興奮のために、一年を通して稽古を積む。そして親から子へ伝統の「芸」は引き継がれてきた。八尾の民衆の精紳は決して観光客のために踊っているわけではない。
 私の脳裏には2度目の八尾の光景が焼き付いている。帰路、車の中から見た。まもなく夜が明ける頃、5、6人の若者が民家と田んぼの路地を流していた。自分たちだけの年に一度の祭りを祝うかのように。 
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■この指とまれ
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■ちょっとおじゃまします                   
■元気の出てくることばたち
「八尾の町では、どこにいてもこの雪流しの音が耳に入ってくる。坂の町であるばかりでなく、八尾は水音の町なのだ」といった書き出しで始まる高橋治さんの『風の盆恋歌』(1987年、新潮社)。この一冊の本が、富山の小さな町を全国に知らしめ、毎年9月1日から三日間の祭りに、25万人もの人出をもたらすことになったのだ。かく言う私も、風の盆通いは9度を数えている。私にとって心に刻まれた、この祭りのことを追憶し、書き記しておく。

一冊の小説から観光ブーム巻き起こす
 私がこの町のことを知ったのも、その小説を読んでからだ。当の高橋さんとお会いすることになり、話題づくりに目を通しておく必要があったためだ。1991年6月に遡る。当時、私は朝日新聞社の金沢支局長に着任した直後で、高橋さんから支局訪問の要請があった。白山の自然保護について話を聞いてほしいとのことだった。
 高橋さんの著書では、第90回直木賞の『秘伝』(1984年、講談社)だけは読んでいた。長崎県西彼杵半島の西海岸を舞台に、二人の釣り名人と怪魚イシナギの死闘劇の話で骨太な作家とお見受けしていた。ところが一転、『風の盆恋歌』のストーリーは、大人の恋愛を描いていた。
 小説のあらましこそ男と女の不倫物語だったが、それは舞台回しに過ぎない。作家は八尾の町を、風の盆を、そして何より町衆が支える祭り「おわら」を書きたかったのであろう。「おわら」は盆踊りでありながら静かで心にしみる祭りなのだ。読み進めると、一度も訪れたことのない町と祭りの情景が脳裏に浮かんできた。
 それもそのはず高橋さんは、千葉県に生まれたが、昭和22年から4年間、金沢の旧制四高に通い、青春時代に八尾を知った。東大卒業後、映画会社の松竹に入り小津安二郎のもとで長く働いた後に執筆活動に入る。八尾は何度となく訪ね、ずっと温めていたテーマであったのだ。映像を手がけているだけに、臨場感のある文章表現が納得できた。
 「正直言って、おわらに惚れました。八尾には病みつきになるものを持っていますよ。並みの盆踊りなんかじゃ決してありません」。高橋さんの言葉を待つまでもなく「9月には必ず行ってみます」と答えたのをよく覚えている。肝心の自然保護はどんな話をしたのか思い出せない。
 「蚊帳の中から 花を見る 咲いてはかない 酔芙蓉 ……しのび逢う恋 風の盆」。カラオケなどで、よく歌われている「風の盆恋歌」の歌詞だ。もちろん高橋さんの小説をもとに、なかにし礼さんが1989年に作詞し大ヒットした。さらにテレビ番組や新派の舞台に波及し、その相乗効果で八尾は、観光ブームを巻き起こすことになった。

MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
長い歳月をかけ現在の「洗練された芸」に
 風の盆は曜日に関係なく二百十日の9月1~3日まで開かれる。待ちかねた私にとって初めての八尾詣では、1991年の9月1日深夜だった。行き付けのスナックのマスターの知人が運転する車で乗り入れた。
 車を降りると、ただならぬ雰囲気だ。夜中だというのに多くの人が行き交う。そして遠くから路地を抜けて聞こえてくる三味線の音。さらに胡弓の哀調の音色が風のように流れ耳にまとわりついてくる。そこは紛れもなく「おわら風の盆」の町だった。
 次第に音が高まった下新町の八幡社の境内では舞台踊りの最中だった。女性はそろいのなまめかしい浴衣に編み笠。帯が一様に黒で引き締まった感じがした。男性は軽妙で粋な股引と法被姿で、やはり編み笠だ。踊り手の後方では唄い手と三味線に胡弓、時折り太鼓が加わる。甲高い唄い出しの音律が流れると、観客は舞台に集中する。
 男踊りは農作業の所作を振付けたそうだ。仕事の始まりを告げる呼び出しの手叩きから始まり、草を掻き分け、苗を植え、田や畑にある石を投げ、鍬を打ち、稲刈り、一日の仕事を終え天に合掌する仕草が振付けられている、中でも両手を水平に伸ばし案山子が傾いていく姿と、そこから身を変化する時に足を地面に強く踏む動きは凛々しい。素朴で直線的な踊りは「風の盆の粋」とも言える。
 翌年3月初旬、シーズンオフの八尾に出向いた。祭りの熱気のない、いわば化粧を施さないスッピンの町を見たかったからだ。JR富山駅から高山線に乗って、四つ目に八尾駅があった。殺風景な変哲もない田舎町の駅頭だった。町なかまでは30分ほど歩かなければならなかった。まだ道端に雪が残る坂を上っていく。振り向くと町の北側を流れる神通川の支流の井田川が帯のように見える。
 高橋さんの小説に書かれた坂の町が納得できた。夜目にはのぞめなかった崖の斜面がよく展望できた。崖の斜面に連なる家々の屋根が美しい。そして繰り返し丁寧に描かれている水音が聞こえる。町並みの軒下に「エンナカ」と呼ばれる側溝を雪解け水が流れていく。風の盆には灯が点るぼんぼりもない通りだが、格子戸の古い町並みが続く。
八尾は1532年、飛騨の聞名寺がこの地に坊を移してから、門前町として開けたそうだ。「おわら風の盆」の歴史を調べてみた。確たる発祥の由来は不明だ。『越中婦負郡志』によれば、1702年、加賀藩から下された「町建御墨付文書」を、町衆が町の開祖所有から取り戻したことに喜び、三日三晩踊り明かしたことに由来すると記されている。
 八尾を訪ねた文化人たちは数多くの「新作おわら」を残した。そして現在に伝わる、おわら節を洗練させたのは浄瑠璃を本格的に就業した名手、江尻豊治さんだ。今や三味線と並んで欠かせない胡弓が取り入れられたのは、比較的新しく明治時代末期のことで、輪島塗りの旅職人であった松本勘玄さんが始めたとされている。いずれも故人となっているが、「おわら風の盆」の恩人たちだ。
 おわらの魅力は長い歳月をかけ「洗練された芸」の融合にある。哀愁を帯びた音曲に合わせ、のびやかに唄い、しなやかに踊る「風の盆」は、元来静かな祭りだ。徳島の阿波踊りとは対極にある。四国生まれの私にとって、なぜか「おわら風の盆」の八尾は格別の町になった。

祭りの原点は町衆たちの心意気の継承
 8度目の八尾は2005年9月2日、初めて車中泊のバス旅だった。観光ツアーの実態を知るのも一興だと思った。JTB仕立てのバスは乗客46人の満席だ。難波を午前11時半に出発し、一路北陸路へ。一行は金沢のパーキングエリアで早い夕食を摂り、午後6時半には現地に入った。午後11時半まで自由時間だ。
 一人で楽しむ「おわら」なので、下新町の舞台を見ようと陣取った。最初の「おわら」の時と同じ場所だ。せっかちな観光客は単調な踊りが20分も続くと立ち去っていく。実は「おわら」は30分過ぎてからが本番だ。男踊りや女踊りがあり、その奥行きの深さが味わえるのだ。
 2012年は金沢に宿を取って知人の車で出向いたが、交通規制で、車は町外れの駐車場に誘導された。そこから町なかまで歩いて小一時間もかかり疲れ果てた。10度目をと計画していた2020年は、新型コロナ感染防止のため、その翌年も中止となった。
 「おわら風の盆」は、八尾に暮らす人々が大切に守り育んできた町民の生命ともいうべき祭りだ。遠くで働いている者も、町へ戻ってくる。たった三日間だけの興奮のために、一年を通して稽古を積む。そして親から子へ伝統の「芸」は引き継がれてきた。八尾の民衆の精紳は決して観光客のために踊っているわけではない。
 私の脳裏には2度目の八尾の光景が焼き付いている。帰路、車の中から見た。まもなく夜が明ける頃、5、6人の若者が民家と田んぼの路地を流していた。自分たちだけの年に一度の祭りを祝うかのように。 
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新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
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「八尾の町では、どこにいてもこの雪流しの音が耳に入ってくる。坂の町であるばかりでなく、八尾は水音の町なのだ」といった書き出しで始まる高橋治さんの『風の盆恋歌』(1987年、新潮社)。この一冊の本が、富山の小さな町を全国に知らしめ、毎年9月1日から三日間の祭りに、25万人もの人出をもたらすことになったのだ。かく言う私も、風の盆通いは9度を数えている。私にとって心に刻まれた、この祭りのことを追憶し、書き記しておく。

一冊の小説から観光ブーム巻き起こす
 私がこの町のことを知ったのも、その小説を読んでからだ。当の高橋さんとお会いすることになり、話題づくりに目を通しておく必要があったためだ。1991年6月に遡る。当時、私は朝日新聞社の金沢支局長に着任した直後で、高橋さんから支局訪問の要請があった。白山の自然保護について話を聞いてほしいとのことだった。
 高橋さんの著書では、第90回直木賞の『秘伝』(1984年、講談社)だけは読んでいた。長崎県西彼杵半島の西海岸を舞台に、二人の釣り名人と怪魚イシナギの死闘劇の話で骨太な作家とお見受けしていた。ところが一転、『風の盆恋歌』のストーリーは、大人の恋愛を描いていた。
 小説のあらましこそ男と女の不倫物語だったが、それは舞台回しに過ぎない。作家は八尾の町を、風の盆を、そして何より町衆が支える祭り「おわら」を書きたかったのであろう。「おわら」は盆踊りでありながら静かで心にしみる祭りなのだ。読み進めると、一度も訪れたことのない町と祭りの情景が脳裏に浮かんできた。
 それもそのはず高橋さんは、千葉県に生まれたが、昭和22年から4年間、金沢の旧制四高に通い、青春時代に八尾を知った。東大卒業後、映画会社の松竹に入り小津安二郎のもとで長く働いた後に執筆活動に入る。八尾は何度となく訪ね、ずっと温めていたテーマであったのだ。映像を手がけているだけに、臨場感のある文章表現が納得できた。
 「正直言って、おわらに惚れました。八尾には病みつきになるものを持っていますよ。並みの盆踊りなんかじゃ決してありません」。高橋さんの言葉を待つまでもなく「9月には必ず行ってみます」と答えたのをよく覚えている。肝心の自然保護はどんな話をしたのか思い出せない。
 「蚊帳の中から 花を見る 咲いてはかない 酔芙蓉 ……しのび逢う恋 風の盆」。カラオケなどで、よく歌われている「風の盆恋歌」の歌詞だ。もちろん高橋さんの小説をもとに、なかにし礼さんが1989年に作詞し大ヒットした。さらにテレビ番組や新派の舞台に波及し、その相乗効果で八尾は、観光ブームを巻き起こすことになった。

長い歳月をかけ現在の「洗練された芸」に
 風の盆は曜日に関係なく二百十日の9月1~3日まで開かれる。待ちかねた私にとって初めての八尾詣では、1991年の9月1日深夜だった。行き付けのスナックのマスターの知人が運転する車で乗り入れた。
 車を降りると、ただならぬ雰囲気だ。夜中だというのに多くの人が行き交う。そして遠くから路地を抜けて聞こえてくる三味線の音。さらに胡弓の哀調の音色が風のように流れ耳にまとわりついてくる。そこは紛れもなく「おわら風の盆」の町だった。
 次第に音が高まった下新町の八幡社の境内では舞台踊りの最中だった。女性はそろいのなまめかしい浴衣に編み笠。帯が一様に黒で引き締まった感じがした。男性は軽妙で粋な股引と法被姿で、やはり編み笠だ。踊り手の後方では唄い手と三味線に胡弓、時折り太鼓が加わる。甲高い唄い出しの音律が流れると、観客は舞台に集中する。
 男踊りは農作業の所作を振付けたそうだ。仕事の始まりを告げる呼び出しの手叩きから始まり、草を掻き分け、苗を植え、田や畑にある石を投げ、鍬を打ち、稲刈り、一日の仕事を終え天に合掌する仕草が振付けられている、中でも両手を水平に伸ばし案山子が傾いていく姿と、そこから身を変化する時に足を地面に強く踏む動きは凛々しい。素朴で直線的な踊りは「風の盆の粋」とも言える。
 翌年3月初旬、シーズンオフの八尾に出向いた。祭りの熱気のない、いわば化粧を施さないスッピンの町を見たかったからだ。JR富山駅から高山線に乗って、四つ目に八尾駅があった。殺風景な変哲もない田舎町の駅頭だった。町なかまでは30分ほど歩かなければならなかった。まだ道端に雪が残る坂を上っていく。振り向くと町の北側を流れる神通川の支流の井田川が帯のように見える。

《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
 高橋さんの小説に書かれた坂の町が納得できた。夜目にはのぞめなかった崖の斜面がよく展望できた。崖の斜面に連なる家々の屋根が美しい。そして繰り返し丁寧に描かれている水音が聞こえる。町並みの軒下に「エンナカ」と呼ばれる側溝を雪解け水が流れていく。風の盆には灯が点るぼんぼりもない通りだが、格子戸の古い町並みが続く。
八尾は1532年、飛騨の聞名寺がこの地に坊を移してから、門前町として開けたそうだ。「おわら風の盆」の歴史を調べてみた。確たる発祥の由来は不明だ。『越中婦負郡志』によれば、1702年、加賀藩から下された「町建御墨付文書」を、町衆が町の開祖所有から取り戻したことに喜び、三日三晩踊り明かしたことに由来すると記されている。
 八尾を訪ねた文化人たちは数多くの「新作おわら」を残した。そして現在に伝わる、おわら節を洗練させたのは浄瑠璃を本格的に就業した名手、江尻豊治さんだ。今や三味線と並んで欠かせない胡弓が取り入れられたのは、比較的新しく明治時代末期のことで、輪島塗りの旅職人であった松本勘玄さんが始めたとされている。いずれも故人となっているが、「おわら風の盆」の恩人たちだ。
 おわらの魅力は長い歳月をかけ「洗練された芸」の融合にある。哀愁を帯びた音曲に合わせ、のびやかに唄い、しなやかに踊る「風の盆」は、元来静かな祭りだ。徳島の阿波踊りとは対極にある。四国生まれの私にとって、なぜか「おわら風の盆」の八尾は格別の町になった。

祭りの原点は町衆たちの心意気の継承
 8度目の八尾は2005年9月2日、初めて車中泊のバス旅だった。観光ツアーの実態を知るのも一興だと思った。JTB仕立てのバスは乗客46人の満席だ。難波を午前11時半に出発し、一路北陸路へ。一行は金沢のパーキングエリアで早い夕食を摂り、午後6時半には現地に入った。午後11時半まで自由時間だ。
 一人で楽しむ「おわら」なので、下新町の舞台を見ようと陣取った。最初の「おわら」の時と同じ場所だ。せっかちな観光客は単調な踊りが20分も続くと立ち去っていく。実は「おわら」は30分過ぎてからが本番だ。男踊りや女踊りがあり、その奥行きの深さが味わえるのだ。
 2012年は金沢に宿を取って知人の車で出向いたが、交通規制で、車は町外れの駐車場に誘導された。そこから町なかまで歩いて小一時間もかかり疲れ果てた。10度目をと計画していた2020年は、新型コロナ感染防止のため、その翌年も中止となった。
 「おわら風の盆」は、八尾に暮らす人々が大切に守り育んできた町民の生命ともいうべき祭りだ。遠くで働いている者も、町へ戻ってくる。たった三日間だけの興奮のために、一年を通して稽古を積む。そして親から子へ伝統の「芸」は引き継がれてきた。八尾の民衆の精紳は決して観光客のために踊っているわけではない。
 私の脳裏には2度目の八尾の光景が焼き付いている。帰路、車の中から見た。まもなく夜が明ける頃、5、6人の若者が民家と田んぼの路地を流していた。自分たちだけの年に一度の祭りを祝うかのように。