パリでオリンピックが8月11日まで開催。その後、パラリンピックが28日から9月8日まで開かれる。パリは2004年と2010年に2度訪問しており、14年ぶりに3度目のパリを楽しみたいが、観戦・観光客ラッシュや円安もあり、ここは過去の思い出を綴る。
MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
《ミロのヴィーナス》と《モナ・リザ》に魅了
 花の都にとどまらない。ファッションの、グルメの、革命の……、など様々な形容で多くの人の感興をそそるパリ。しかし私にとっては一にも二にも芸術の都なのだ。30年余、アートの仕事に携わってきた私は、バルビゾン展やロダン展に関わり、日本で開催されたルーヴル美術館展やオルセー美術館展など、ほとんど鑑賞してきた。さらにパリをこよなく愛し、1920年代のエコール・ド・パリの仲間入りをした藤田嗣治をはじめ佐伯祐三、荻須高徳らの絵画は、時と場所を代えいくつもの作品を見ている。こうした画家たちの聖地ともいえるパリを訪ね歩いた。

 まずは世界有数の歴史と38万点以上のコレクションを誇るルーヴル美術館に2004年6月初めて一日かけ訪れた。主な入口はあのガラスのピラミッド。美術館へ入る地下広場には三分の一の逆さピラミッドが下がり入場を待つ人でごった返していた。じっくり見るには一週間ぐらいかかりそうだ。日本語の無料パンフレットと持参のガイドブックを頼りに時間との勝負。ともかくお目当ての《ミロのヴィーナス》と《モナ・リザ》だけは見ておきたいと思った。
《ミロのヴィーナス》といえば、60年前の東京オリンピックの1964年に東京・上野の国立西洋美術館に特別出品されている。朝日新聞社が日本政府の公式要請を取り付けて実現したもので、何しろギリシャのミロ島で1820年に発見、フランス大使に買い取られ、ルーヴルの至宝となって初めて門を出たのだった。フランス旅行なんて夢のまた夢の時代だから、大学生の私は約3時間待ちも苦にならなかった。会期中83万人を集め、それまでの記録を大幅に塗り替えた。目の前にしたヴィーナスは見飽きることはない。両腕が無いがゆえに神秘的な美を感じた。「これまで、これから先も、どれほどの人の心に感動を与え続けるのだろうか。作品を遺せた芸術家もきっと驚愕していることだろう」と想像した。その作者は永遠に不明なのだ。
 もう一つの目玉は《モナ・リザ》だ。こちらは《最後の晩餐》を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチの作。見れば見るほど不思議な微笑に、すっかり釘付けになった。とりわけ背後の風景は、油彩のぼかしを究極まで追求したといわれるだけあってその天才的な表現技術は言葉に言い尽くせない。

ミレーらの「バルビゾン派」の作品にいやし

 ルーヴルの余韻が残る翌日午後には、オルセー美術館に赴いた。ここでのお目当てはミレーの部屋だ。ルーヴルより規模が小さいこともあって配置が分かり易く、二つの開口部のそれぞれ正面に「晩鐘」と「落ち穂拾い」があった。美術の教科書でもなじみの名画がさりげなく手の届くところに飾られているのが不思議な思いがした。
 ミレーの農民や田園風景を描いた作品には、素朴ながら気品と崇高さが感じられた。これは作家自身が農家の子として生まれ、土に感謝し黙々と働き続ける農民を尊敬し、自然の恵みに畏敬の念を抱いていたからだろう。晩年はパリの南東60キロに広がるフォンテーヌブローの森の美しさにひかれ移り住み、61歳の生涯を閉じている。
 ミレーと並んでルソーやコローの絵画も数多く展示されていた。ヴェルサイユ宮殿を華麗に彩る肖像画や宮廷絵画を見た目には、こうした自然美に心がいやされる。彼らはバルビゾン村を理想郷として活動を続け、「バルビゾン派」と称されている。
 オルセーでは、「バルビゾン派」の作品の他にも、名画が多数所蔵されている。ルノアールの《浴女たち》、ゴッホの《自画像》、ゴーギャンの《タヒチの女たち》、セザンヌの《トランプをする人たち》、クールベの《アトリエ》、アングルの《泉》など目白押しだ。
 モネの「睡蓮の池・緑のハーモニー」にも注目した。日本の浮世絵に影響を受け、睡蓮の池の中に太鼓橋の架かる日本風庭園を造り、睡蓮の作品を繰り返し描いた。モネと言えば、代表作の『印象・日の出』(1872年)は、印象派の名前の由来になった。
 今年は印象派を祝う年で、印象派150周年を記念して、首都パリを含むイル・ド・フランス地方と、パリの北西に位置するノルマンディー地方にて、3月末から9月までの6ヶ月間に渡り、150以上ものアートイベントが開催されている。
印象に残るモンマルトルとノートルダム
  2004年時には、モンマルトルを散策した。ユトリロやピカソが愛した街であり、わが日本からも藤田のほか、佐伯や荻須らが集い遊学している。丘のふもとにある墓地には文豪のゾラやスタンダール、映画監督のトリュフォーらも眠っている。画家ではギュスターヴ・モローやドガ、荻須の墓もある。地図を見ながらゾラやモローの墓を見つけることができたが、荻須の墓は事務所の係員に尋ねても分からずじまいだった。
 心残して墓地を去り、ロートレックらが通ったムーランルージュの建物や、佐伯、荻須が何枚も何枚も描いた街角を歩き回った。そしてたどり着いたのがアトリエ洗濯船跡だ。ここはピカソやルノアール、ドガ、セザンヌら巨匠たちがアトリエにしていた建物だったが、1970年の火災で、窓のみを残し焼失してしまった。ピカソはここでキュビズムの名作《アヴィニヨンの娘たち》を描いている。
 画家たちが刺激し合い、競ったこの街には、もはや名残をとどめるものはわずかだ。でも私が余韻に浸っているわずか20分間に日本の女子大生二人とOL三人組が訪れてきた。「時間がもっとあれば」との思いがつのることしきりだった。画家たちの聖地、パリはなお色あせていない。
 2010年5月の旅は、人気の高い世界遺産の「モン・サン・ミシェルとその湾」(1979年登録)が目的で、その帰路、パリに。2連泊して、ルーヴル美術館を再訪したのをはじめ、市内名所のエッフェル塔、凱旋門、コンコルド広場、シャンゼリゼ通りも廻った。
 中でも時間を割いて見学したのが、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会のノートルダム大聖堂だった。ゴシック建築を代表する建物であり、「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録されている。外観の美しさだけでなく、内部のバラ窓などの壮大なステンドグラスや彫刻、さらに階段で上れる塔や地下クリプトなど見どころ満載だった。
 ところが、2019年4月15 日夜(現地時間)に大規模火災が発生し尖塔などを焼失してしまった。日本でも法隆寺金堂の火災があったが、世界的な文化財の惨事に心を痛めた。パリ大司教座聖堂として使用されていたこともあり、関係者の衝撃はいかばかりであったろう。
 ただ歴史的に重要な美術品の殆どが無事で、「七つの悲しみの聖母」など、堂内を彩る美しいステンドグラスも割れずに無傷だったのが救いだった。外観や尖塔が落下し大きな穴が開いた内部などの修復が進み、五輪後ではあるが今年12月には一般開放を再開の予定という。壮大な美を誇った大聖堂のよみがえった姿を見留めたい。そして画家たちの聖地を再訪し、豊かな時間を過ごしたいものだ。
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■この指とまれ
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■ちょっとおじゃまします                   
■元気の出てくることばたち
 パリでオリンピックが8月11日まで開催。その後、パラリンピックが28日から9月8日まで開かれる。パリは2004年と2010年に2度訪問しており、14年ぶりに3度目のパリを楽しみたいが、観戦・観光客ラッシュや円安もあり、ここは過去の思い出を綴る。

《ミロのヴィーナス》と《モナ・リザ》に魅了
 花の都にとどまらない。ファッションの、グルメの、革命の……、など様々な形容で多くの人の感興をそそるパリ。しかし私にとっては一にも二にも芸術の都なのだ。30年余、アートの仕事に携わってきた私は、バルビゾン展やロダン展に関わり、日本で開催されたルーヴル美術館展やオルセー美術館展など、ほとんど鑑賞してきた。さらにパリをこよなく愛し、1920年代のエコール・ド・パリの仲間入りをした藤田嗣治をはじめ佐伯祐三、荻須高徳らの絵画は、時と場所を代えいくつもの作品を見ている。こうした画家たちの聖地ともいえるパリを訪ね歩いた。
 まずは世界有数の歴史と38万点以上のコレクションを誇るルーヴル美術館に2004年6月初めて一日かけ訪れた。主な入口はあのガラスのピラミッド。美術館へ入る地下広場には三分の一の逆さピラミッドが下がり入場を待つ人でごった返していた。じっくり見るには一週間ぐらいかかりそうだ。日本語の無料パンフレットと持参のガイドブックを頼りに時間との勝負。ともかくお目当ての《ミロのヴィーナス》と《モナ・リザ》だけは見ておきたいと思った。

《ミロのヴィーナス》といえば、60年前の東京オリンピックの1964年に東京・上野の国立西洋美術館に特別出品されている。朝日新聞社が日本政府の公式要請を取り付けて実現したもので、何しろギリシャのミロ島で1820年に発見、フランス大使に買い取られ、ルーヴルの至宝となって初めて門を出たのだった。フランス旅行なんて夢のまた夢の時代だから、大学生の私は約3時間待ちも苦にならなかった。会期中83万人を集め、それまでの記録を大幅に塗り替えた。目の前にしたヴィーナスは見飽きることはない。両腕が無いがゆえに神秘的な美を感じた。「これまで、これから先も、どれほどの人の心に感動を与え続けるのだろうか。作品を遺せた芸術家もきっと驚愕していることだろう」と想像した。その作者は永遠に不明なのだ。
 もう一つの目玉は《モナ・リザ》だ。こちらは《最後の晩餐》を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチの作。見れば見るほど不思議な微笑に、すっかり釘付けになった。とりわけ背後の風景は、油彩のぼかしを究極まで追求したといわれるだけあってその天才的な表現技術は言葉に言い尽くせない。

MASAO SHIRATORI
《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
ミレーらの「バルビゾン派」の作品にいやし
 ルーヴルの余韻が残る翌日午後には、オルセー美術館に赴いた。ここでのお目当てはミレーの部屋だ。ルーヴルより規模が小さいこともあって配置が分かり易く、二つの開口部のそれぞれ正面に「晩鐘」と「落ち穂拾い」があった。美術の教科書でもなじみの名画がさりげなく手の届くところに飾られているのが不思議な思いがした。
 ミレーの農民や田園風景を描いた作品には、素朴ながら気品と崇高さが感じられた。これは作家自身が農家の子として生まれ、土に感謝し黙々と働き続ける農民を尊敬し、自然の恵みに畏敬の念を抱いていたからだろう。晩年はパリの南東60キロに広がるフォンテーヌブローの森の美しさにひかれ移り住み、61歳の生涯を閉じている。
 ミレーと並んでルソーやコローの絵画も数多く展示されていた。ヴェルサイユ宮殿を華麗に彩る肖像画や宮廷絵画を見た目には、こうした自然美に心がいやされる。彼らはバルビゾン村を理想郷として活動を続け、「バルビゾン派」と称されている。
 オルセーでは、「バルビゾン派」の作品の他にも、名画が多数所蔵されている。ルノアールの《浴女たち》、ゴッホの《自画像》、ゴーギャンの《タヒチの女たち》、セザンヌの《トランプをする人たち》、クールベの《アトリエ》、アングルの《泉》など目白押しだ。
 モネの「睡蓮の池・緑のハーモニー」にも注目した。日本の浮世絵に影響を受け、睡蓮の池の中に太鼓橋の架かる日本風庭園を造り、睡蓮の作品を繰り返し描いた。モネと言えば、代表作の『印象・日の出』(1872年)は、印象派の名前の由来になった。
 今年は印象派を祝う年で、印象派150周年を記念して、首都パリを含むイル・ド・フランス地方と、パリの北西に位置するノルマンディー地方にて、3月末から9月までの6ヶ月間に渡り、150以上ものアートイベントが開催されている。

印象に残るモンマルトルとノートルダム
 2004年時には、モンマルトルを散策した。ユトリロやピカソが愛した街であり、わが日本からも藤田のほか、佐伯や荻須らが集い遊学している。丘のふもとにある墓地には文豪のゾラやスタンダール、映画監督のトリュフォーらも眠っている。画家ではギュスターヴ・モローやドガ、荻須の墓もある。地図を見ながらゾラやモローの墓を見つけることができたが、荻須の墓は事務所の係員に尋ねても分からずじまいだった。
 心残して墓地を去り、ロートレックらが通ったムーランルージュの建物や、佐伯、荻須が何枚も何枚も描いた街角を歩き回った。そしてたどり着いたのがアトリエ洗濯船跡だ。ここはピカソやルノアール、ドガ、セザンヌら巨匠たちがアトリエにしていた建物だったが、1970年の火災で、窓のみを残し焼失してしまった。ピカソはここでキュビズムの名作《アヴィニヨンの娘たち》を描いている。
 画家たちが刺激し合い、競ったこの街には、もはや名残をとどめるものはわずかだ。でも私が余韻に浸っているわずか20分間に日本の女子大生二人とOL三人組が訪れてきた。「時間がもっとあれば」との思いがつのることしきりだった。画家たちの聖地、パリはなお色あせていない。
 2010年5月の旅は、人気の高い世界遺産の「モン・サン・ミシェルとその湾」(1979年登録)が目的で、その帰路、パリに。2連泊して、ルーヴル美術館を再訪したのをはじめ、市内名所のエッフェル塔、凱旋門、コンコルド広場、シャンゼリゼ通りも廻った。
 中でも時間を割いて見学したのが、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会のノートルダム大聖堂だった。ゴシック建築を代表する建物であり、「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録されている。外観の美しさだけでなく、内部のバラ窓などの壮大なステンドグラスや彫刻、さらに階段で上れる塔や地下クリプトなど見どころ満載だった。
 ところが、2019年4月15 日夜(現地時間)に大規模火災が発生し尖塔などを焼失してしまった。日本でも法隆寺金堂の火災があったが、世界的な文化財の惨事に心を痛めた。パリ大司教座聖堂として使用されていたこともあり、関係者の衝撃はいかばかりであったろう。
 ただ歴史的に重要な美術品の殆どが無事で、「七つの悲しみの聖母」など、堂内を彩る美しいステンドグラスも割れずに無傷だったのが救いだった。外観や尖塔が落下し大きな穴が開いた内部などの修復が進み、五輪後ではあるが今年12月には一般開放を再開の予定という。壮大な美を誇った大聖堂のよみがえった姿を見留めたい。そして画家たちの聖地を再訪し、豊かな時間を過ごしたいものだ。
Copyright©2003-2024 Akai Newspaper dealer
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 パリでオリンピックが8月11日まで開催。その後、パラリンピックが28日から9月8日まで開かれる。パリは2004年と2010年に2度訪問しており、14年ぶりに3度目のパリを楽しみたいが、観戦・観光客ラッシュや円安もあり、ここは過去の思い出を綴る。

《ミロのヴィーナス》と《モナ・リザ》に魅了
 花の都にとどまらない。ファッションの、グルメの、革命の……、など様々な形容で多くの人の感興をそそるパリ。しかし私にとっては一にも二にも芸術の都なのだ。30年余、アートの仕事に携わってきた私は、バルビゾン展やロダン展に関わり、日本で開催されたルーヴル美術館展やオルセー美術館展など、ほとんど鑑賞してきた。さらにパリをこよなく愛し、1920年代のエコール・ド・パリの仲間入りをした藤田嗣治をはじめ佐伯祐三、荻須高徳らの絵画は、時と場所を代えいくつもの作品を見ている。こうした画家たちの聖地ともいえるパリを訪ね歩いた。
 まずは世界有数の歴史と38万点以上のコレクションを誇るルーヴル美術館に2004年6月初めて一日かけ訪れた。主な入口はあのガラスのピラミッド。美術館へ入る地下広場には三分の一の逆さピラミッドが下がり入場を待つ人でごった返していた。じっくり見るには一週間ぐらいかかりそうだ。日本語の無料パンフレットと持参のガイドブックを頼りに時間との勝負。ともかくお目当ての《ミロのヴィーナス》と《モナ・リザ》だけは見ておきたいと思った。
《ミロのヴィーナス》といえば、60年前の東京オリンピックの1964年に東京・上野の国立西洋美術館に特別出品されている。朝日新聞社が日本政府の公式要請を取り付けて実現したもので、何しろギリシャのミロ島で1820年に発見、フランス大使に買い取られ、ルーヴルの至宝となって初めて門を出たのだった。フランス旅行なんて夢のまた夢の時代だから、大学生の私は約3時間待ちも苦にならなかった。会期中83万人を集め、それまでの記録を大幅に塗り替えた。目の前にしたヴィーナスは見飽きることはない。両腕が無いがゆえに神秘的な美を感じた。「これまで、これから先も、どれほどの人の心に感動を与え続けるのだろうか。作品を遺せた芸術家もきっと驚愕していることだろう」と想像した。その作者は永遠に不明なのだ。
 もう一つの目玉は《モナ・リザ》だ。こちらは《最後の晩餐》を描いたレオナルド・ダ・ヴィンチの作。見れば見るほど不思議な微笑に、すっかり釘付けになった。とりわけ背後の風景は、油彩のぼかしを究極まで追求したといわれるだけあってその天才的な表現技術は言葉に言い尽くせない。

ミレーらの「バルビゾン派」の作品にいやし
 ルーヴルの余韻が残る翌日午後には、オルセー美術館に赴いた。ここでのお目当てはミレーの部屋だ。ルーヴルより規模が小さいこともあって配置が分かり易く、二つの開口部のそれぞれ正面に「晩鐘」と「落ち穂拾い」があった。美術の教科書でもなじみの名画がさりげなく手の届くところに飾られているのが不思議な思いがした。
 ミレーの農民や田園風景を描いた作品には、素朴ながら気品と崇高さが感じられた。これは作家自身が農家の子として生まれ、土に感謝し黙々と働き続ける農民を尊敬し、自然の恵みに畏敬の念を抱いていたからだろう。晩年はパリの南東60キロに広がるフォンテーヌブローの森の美しさにひかれ移り住み、61歳の生涯を閉じている。
 ミレーと並んでルソーやコローの絵画も数多く展示されていた。ヴェルサイユ宮殿を華麗に彩る肖像画や宮廷絵画を見た目には、こうした自然美に心がいやされる。彼らはバルビゾン村を理想郷として活動を続け、「バルビゾン派」と称されている。
 オルセーでは、「バルビゾン派」の作品の他にも、名画が多数所蔵されている。ルノアールの《浴女たち》、ゴッホの《自画像》、ゴーギャンの《タヒチの女たち》、セザンヌの《トランプをする人たち》、クールベの《アトリエ》、アングルの《泉》など目白押しだ。
 モネの「睡蓮の池・緑のハーモニー」にも注目した。日本の浮世絵に影響を受け、睡蓮の池の中に太鼓橋の架かる日本風庭園を造り、睡蓮の作品を繰り返し描いた。モネと言えば、代表作の『印象・日の出』(1872年)は、印象派の名前の由来になった。
 今年は印象派を祝う年で、印象派150周年を記念して、首都パリを含むイル・ド・フランス地方と、パリの北西に位置するノルマンディー地方にて、3月末から9月までの6ヶ月間に渡り、150以上ものアートイベントが開催されている。

《白鳥 正夫プロフィール》
1944年8月14日愛媛県新居浜市生まれ。中央大学法学部卒業、朝日新聞社定年退職後は文化ジャーナリスト。著書に『絆で紡いだ人間模様』『シルクロードの現代日本人列伝』『新藤兼人、未完映画の精神「幻の創作ノート「太陽はのぼるか」』『アート鑑賞の玉手箱』)『夢をつむぐ人々』など多数
MASAO SHIRATORI
印象に残るモンマルトルとノートルダム
 2004年時には、モンマルトルを散策した。ユトリロやピカソが愛した街であり、わが日本からも藤田のほか、佐伯や荻須らが集い遊学している。丘のふもとにある墓地には文豪のゾラやスタンダール、映画監督のトリュフォーらも眠っている。画家ではギュスターヴ・モローやドガ、荻須の墓もある。地図を見ながらゾラやモローの墓を見つけることができたが、荻須の墓は事務所の係員に尋ねても分からずじまいだった。
 心残して墓地を去り、ロートレックらが通ったムーランルージュの建物や、佐伯、荻須が何枚も何枚も描いた街角を歩き回った。そしてたどり着いたのがアトリエ洗濯船跡だ。ここはピカソやルノアール、ドガ、セザンヌら巨匠たちがアトリエにしていた建物だったが、1970年の火災で、窓のみを残し焼失してしまった。ピカソはここでキュビズムの名作《アヴィニヨンの娘たち》を描いている。
 画家たちが刺激し合い、競ったこの街には、もはや名残をとどめるものはわずかだ。でも私が余韻に浸っているわずか20分間に日本の女子大生二人とOL三人組が訪れてきた。「時間がもっとあれば」との思いがつのることしきりだった。画家たちの聖地、パリはなお色あせていない。
 2010年5月の旅は、人気の高い世界遺産の「モン・サン・ミシェルとその湾」(1979年登録)が目的で、その帰路、パリに。2連泊して、ルーヴル美術館を再訪したのをはじめ、市内名所のエッフェル塔、凱旋門、コンコルド広場、シャンゼリゼ通りも廻った。
 中でも時間を割いて見学したのが、パリのシテ島にあるローマ・カトリック教会のノートルダム大聖堂だった。ゴシック建築を代表する建物であり、「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録されている。外観の美しさだけでなく、内部のバラ窓などの壮大なステンドグラスや彫刻、さらに階段で上れる塔や地下クリプトなど見どころ満載だった。
 ところが、2019年4月15 日夜(現地時間)に大規模火災が発生し尖塔などを焼失してしまった。日本でも法隆寺金堂の火災があったが、世界的な文化財の惨事に心を痛めた。パリ大司教座聖堂として使用されていたこともあり、関係者の衝撃はいかばかりであったろう。
 ただ歴史的に重要な美術品の殆どが無事で、「七つの悲しみの聖母」など、堂内を彩る美しいステンドグラスも割れずに無傷だったのが救いだった。外観や尖塔が落下し大きな穴が開いた内部などの修復が進み、五輪後ではあるが今年12月には一般開放を再開の予定という。壮大な美を誇った大聖堂のよみがえった姿を見留めたい。そして画家たちの聖地を再訪し、豊かな時間を過ごしたいものだ。