◎松平定信
寛政の改革を推進した松平定信(1759~1829)は、実に興味深い人物でした。
私は、長い間、断続的に松平定信のことを勉強してきました。松平定信が、谷文晁や北斎らと組んで「東洲斎写楽」の名前で浮世絵を発表したのではないかと考えて、彼に関するいろいろな本を読んできたのです。
2010年に刊行された『松平定信の生涯と芸術』(ゆまに書房)の「はじめに」において、著者の美術史家・磯崎康彦は、次のように書きました。
「松平定信は、政治・経済の分野のみならず、思想・文学・芸術などの領域においても多大な業績を残した。したがって、定信の全体像をとらえることは、至難のわざである。今日、研究分野が細分化され、定信は、日本史・社会経済史・思想論・交易史・蘭学・文学史・美術史などの分野から追究される。とはいうものの、政治家としての定信論が圧倒的に多く、なかでも田沼時代から寛政の改革までの政治・経済・農政・貿易・社会政策などの問題については、かなりの論文が発表されている」
これから私が問題とするのは、政治家としての松平定信のことではなく、芸術の分野で彼が残した業績についてです。
「写楽」に関する私の推測は、あくまで「私の個人的な楽しみ」から生まれたもので、確たる論拠に基づいたものではありません。
◎『集古十種』の刊行
松平定信の残した美術的業績の最大のものは、寛政4年から構想され、寛政12年に刊行された『集古十種』です。
松平定信は、各地に残る我が国の重要な宝をまとめ上げようと試みました。寛政4年に定信付きの絵師になった谷文晁が中心となって全国の美術品の調査や模写が開始されました。寛政8年、谷文晁は、定信の命によって京都に行き、高山寺で鳥羽僧正の「鳥獣戯画」を見学しました。また大徳寺に行き、牧谿の「観音・猿・鶴図」などを模写しました。
こうして、長年の調査や採録や模写を経て、寛政12年(1800)、『集古十種』が版本として刊行されました。全部で85巻からなる図録です。「十種」とは、碑銘・鐘銘・兵器・銅器・楽器・文房・印章・扁額・書・図の10種です。
松平定信は、古い美術に対して強い興味を持ち、「予は古き文書、又は画図、古図、古額など写しおくことを楽しむ」と言うほど、古美術を愛していました。
◎庭園芸術
松平定信は、寛政から文化年間にかけて、江戸で浴恩園、六園、海荘の3つの庭園を造り、白河藩で三郭四園と南湖の2つの庭園を造成しました。
寛政6年、白河への帰藩が許されると、白河城内に三郭四園を作庭しました。桜花・紅葉・秋月・千鳥・雪景などを鑑賞できる、美観に富んだ回遊式庭園でした。定信は、その庭園で詩歌会や琴・碁・書・画の四芸会を催しました。
また、松平定信は、放置されて荒れ果てたままであった沼地を1年かけて庭園に作り替えました。今も残る南湖です。「南湖」は漢名で、和名は「関の湖」と称しました。周囲に柵を設けず、「士民と共に楽しむ」庭園としました。
定信は、南湖を風流のためだけに使いませんでした。常に海防問題を考えていた松平定信は、南湖を海に見立てて、船を操る訓練をさせたり、船舶技術を学ばせたりしました。
私も一度、南湖に行ったことがあります。本当に広大な庭園で、今も、南湖の周囲を歩いて疲れたことをはっきりと覚えています。
◎「東洲斎写楽」
多くの人が「写楽」の謎に挑戦してきました。主な仮説を紹介します。
(1)能役者「斎藤十郎兵衛」説 天保年間に出た『浮世絵類考』に「写楽、俗称・斎藤十郎兵衛。江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者なり」と記述された。現在、最も有力な説である。
(2)戯作者「十返舎一九」説 一九は、寛政6年に江戸に来て、蔦屋重三郎の居候になった。寛政8年に自作自画の黄表紙『初登山手習方帖』の挿絵に、「東洲斎写楽画」の落款がある凧絵を描いている。
(3)画家「司馬江漢」説
江漢はいつも旅をしていたのに、写楽の活動期間だけは江戸を出ていなかった。役者絵の第一人者であった勝川春章の死後、春章をまねて役者絵を描いた。
(4)版元「蔦屋重三郎」説 写楽は、蔦屋以外からは一枚も版行していない。蔦屋は自ら戯作を描き、自作の挿絵も描いた。写楽は彼自身であり、その秘密を隠すために正体を明かそうとしなかった。
その他、画家「円山応挙」、画家「酒井抱一」、浮世絵師「葛飾北斎」、戯作者「山東京伝」、浮世絵師「歌川豊国」など数多くの仮説が生まれています。 私の仮説はこうです。《寛政5年7月に老中を解任された「松平定信」とお抱え絵師の「谷文晁」の二人が中心になり、補助者として、前期には北斎を、後期には勝川春英を選んで、協力して役者絵を描き、「東洲斎写楽」の名前で発表した》
私の考えは、俳人の池上浩山人が昭和37年に「写楽の憶測」と題して発表したものと同じだと思われますが、残念ながら、私は彼の文章を読んでいません。彼の説は、高橋克彦著『写楽の世界』に次のように簡単に紹介されています。
「南北画派を築いた谷文晁は、田安家家臣の漢詩人・谷麓谷の子で、田安家の生まれである松平定信と縁がある。文晁は写山楼と号し、定信は楽翁と号した。二人の号を合わせて写楽とし、定信の財力をもって金のかかる雲母摺で出版した。また、文晁の絵と写楽の版下絵の筆意が似ている」
私は今までに3点の松平定信の絵(実物ではなく、小さな写真版)を見ています。「墨竹図」は平凡ですが、30歳の頃に描いた自画像はすぐれた作品です。また中年の頃に描いたと思われる「関羽図」は生き生きとした傑作です。これだけの画才の持ち主なら、谷文晁と組めば、数々の役者絵の傑作を描くことも可能だったと思います。
写楽の役者絵は、前期は「東洲斎写楽画」の落款ですが、後期は「写楽画」だけになっています。このことは、北斎が抜けたことを暗示していると思います。落款の変化とともに作品の質が極端に低下しています。勝川春英に代わったからだと私は考えています。
松平定信が老中の重職を解任されたのは、寛政5年7月23日でした。
写楽が活躍したのは、寛政6年5月から翌年の1月までの10ヵ月間でした。
定信は、歌麿の浮世絵の無類の素晴らしさに触発されて、有力な仲間と組んで自らも浮世絵の世界に少し入り込もうとしたのだろう、と私は思っています。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
Copyright©2003-2024 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
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新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
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電話:0569-72-0356
◎松平定信
寛政の改革を推進した松平定信(1759~1829)は、実に興味深い人物でした。
私は、長い間、断続的に松平定信のことを勉強してきました。松平定信が、谷文晁や北斎らと組んで「東洲斎写楽」の名前で浮世絵を発表したのではないかと考えて、彼に関するいろいろな本を読んできたのです。
2010年に刊行された『松平定信の生涯と芸術』(ゆまに書房)の「はじめに」において、著者の美術史家・磯崎康彦は、次のように書きました。
「松平定信は、政治・経済の分野のみならず、思想・文学・芸術などの領域においても多大な業績を残した。したがって、定信の全体像をとらえることは、至難のわざである。今日、研究分野が細分化され、定信は、日本史・社会経済史・思想論・交易史・蘭学・文学史・美術史などの分野から追究される。とはいうものの、政治家としての定信論が圧倒的に多く、なかでも田沼時代から寛政の改革までの政治・経済・農政・貿易・社会政策などの問題については、かなりの論文が発表されている」
これから私が問題とするのは、政治家としての松平定信のことではなく、芸術の分野で彼が残した業績についてです。
「写楽」に関する私の推測は、あくまで「私の個人的な楽しみ」から生まれたもので、確たる論拠に基づいたものではありません。
◎『集古十種』の刊行
松平定信の残した美術的業績の最大のものは、寛政4年から構想され、寛政12年に刊行された『集古十種』です。
松平定信は、各地に残る我が国の重要な宝をまとめ上げようと試みました。寛政4年に定信付きの絵師になった谷文晁が中心となって全国の美術品の調査や模写が開始されました。寛政8年、谷文晁は、定信の命によって京都に行き、高山寺で鳥羽僧正の「鳥獣戯画」を見学しました。また大徳寺に行き、牧谿の「観音・猿・鶴図」などを模写しました。
こうして、長年の調査や採録や模写を経て、寛政12年(1800)、『集古十種』が版本として刊行されました。全部で85巻からなる図録です。「十種」とは、碑銘・鐘銘・兵器・銅器・楽器・文房・印章・扁額・書・図の10種です。
松平定信は、古い美術に対して強い興味を持ち、「予は古き文書、又は画図、古図、古額など写しおくことを楽しむ」と言うほど、古美術を愛していました。
◎庭園芸術
松平定信は、寛政から文化年間にかけて、江戸で浴恩園、六園、海荘の3つの庭園を造り、白河藩で三郭四園と南湖の2つの庭園を造成しました。
寛政6年、白河への帰藩が許されると、白河城内に三郭四園を作庭しました。桜花・紅葉・秋月・千鳥・雪景などを鑑賞できる、美観に富んだ回遊式庭園でした。定信は、その庭園で詩歌会や琴・碁・書・画の四芸会を催しました。
また、松平定信は、放置されて荒れ果てたままであった沼地を1年かけて庭園に作り替えました。今も残る南湖です。「南湖」は漢名で、和名は「関の湖」と称しました。周囲に柵を設けず、「士民と共に楽しむ」庭園としました。
定信は、南湖を風流のためだけに使いませんでした。常に海防問題を考えていた松平定信は、南湖を海に見立てて、船を操る訓練をさせたり、船舶技術を学ばせたりしました。
私も一度、南湖に行ったことがあります。本当に広大な庭園で、今も、南湖の周囲を歩いて疲れたことをはっきりと覚えています。
◎「東洲斎写楽」
多くの人が「写楽」の謎に挑戦してきました。主な仮説を紹介します。
(1)能役者「斎藤十郎兵衛」説 天保年間に出た『浮世絵類考』に「写楽、俗称・斎藤十郎兵衛。江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者なり」と記述された。現在、最も有力な説である。
(2)戯作者「十返舎一九」説 一九は、寛政6年に江戸に来て、蔦屋重三郎の居候になった。寛政8年に自作自画の黄表紙『初登山手習方帖』の挿絵に、「東洲斎写楽画」の落款がある凧絵を描いている。
(3)画家「司馬江漢」説
江漢はいつも旅をしていたのに、写楽の活動期間だけは江戸を出ていなかった。役者絵の第一人者であった勝川春章の死後、春章をまねて役者絵を描いた。
(4)版元「蔦屋重三郎」説 写楽は、蔦屋以外からは一枚も版行していない。蔦屋は自ら戯作を描き、自作の挿絵も描いた。写楽は彼自身であり、その秘密を隠すために正体を明かそうとしなかった。
その他、画家「円山応挙」、画家「酒井抱一」、浮世絵師「葛飾北斎」、戯作者「山東京伝」、浮世絵師「歌川豊国」など数多くの仮説が生まれています。 私の仮説はこうです。《寛政5年7月に老中を解任された「松平定信」とお抱え絵師の「谷文晁」の二人が中心になり、補助者として、前期には北斎を、後期には勝川春英を選んで、協力して役者絵を描き、「東洲斎写楽」の名前で発表した》
私の考えは、俳人の池上浩山人が昭和37年に「写楽の憶測」と題して発表したものと同じだと思われますが、残念ながら、私は彼の文章を読んでいません。彼の説は、高橋克彦著『写楽の世界』に次のように簡単に紹介されています。
「南北画派を築いた谷文晁は、田安家家臣の漢詩人・谷麓谷の子で、田安家の生まれである松平定信と縁がある。文晁は写山楼と号し、定信は楽翁と号した。二人の号を合わせて写楽とし、定信の財力をもって金のかかる雲母摺で出版した。また、文晁の絵と写楽の版下絵の筆意が似ている」
私は今までに3点の松平定信の絵(実物ではなく、小さな写真版)を見ています。「墨竹図」は平凡ですが、30歳の頃に描いた自画像はすぐれた作品です。また中年の頃に描いたと思われる「関羽図」は生き生きとした傑作です。これだけの画才の持ち主なら、谷文晁と組めば、数々の役者絵の傑作を描くことも可能だったと思います。
写楽の役者絵は、前期は「東洲斎写楽画」の落款ですが、後期は「写楽画」だけになっています。このことは、北斎が抜けたことを暗示していると思います。落款の変化とともに作品の質が極端に低下しています。勝川春英に代わったからだと私は考えています。
松平定信が老中の重職を解任されたのは、寛政5年7月23日でした。
写楽が活躍したのは、寛政6年5月から翌年の1月までの10ヵ月間でした。
定信は、歌麿の浮世絵の無類の素晴らしさに触発されて、有力な仲間と組んで自らも浮世絵の世界に少し入り込もうとしたのだろう、と私は思っています。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
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あかい新聞店・常滑店
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電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
◎松平定信
寛政の改革を推進した松平定信(1759~1829)は、実に興味深い人物でした。
私は、長い間、断続的に松平定信のことを勉強してきました。松平定信が、谷文晁や北斎らと組んで「東洲斎写楽」の名前で浮世絵を発表したのではないかと考えて、彼に関するいろいろな本を読んできたのです。
2010年に刊行された『松平定信の生涯と芸術』(ゆまに書房)の「はじめに」において、著者の美術史家・磯崎康彦は、次のように書きました。
「松平定信は、政治・経済の分野のみならず、思想・文学・芸術などの領域においても多大な業績を残した。したがって、定信の全体像をとらえることは、至難のわざである。今日、研究分野が細分化され、定信は、日本史・社会経済史・思想論・交易史・蘭学・文学史・美術史などの分野から追究される。とはいうものの、政治家としての定信論が圧倒的に多く、なかでも田沼時代から寛政の改革までの政治・経済・農政・貿易・社会政策などの問題については、かなりの論文が発表されている」
これから私が問題とするのは、政治家としての松平定信のことではなく、芸術の分野で彼が残した業績についてです。
「写楽」に関する私の推測は、あくまで「私の個人的な楽しみ」から生まれたもので、確たる論拠に基づいたものではありません。
◎『集古十種』の刊行
松平定信の残した美術的業績の最大のものは、寛政4年から構想され、寛政12年に刊行された『集古十種』です。
松平定信は、各地に残る我が国の重要な宝をまとめ上げようと試みました。寛政4年に定信付きの絵師になった谷文晁が中心となって全国の美術品の調査や模写が開始されました。寛政8年、谷文晁は、定信の命によって京都に行き、高山寺で鳥羽僧正の「鳥獣戯画」を見学しました。また大徳寺に行き、牧谿の「観音・猿・鶴図」などを模写しました。
こうして、長年の調査や採録や模写を経て、寛政12年(1800)、『集古十種』が版本として刊行されました。全部で85巻からなる図録です。「十種」とは、碑銘・鐘銘・兵器・銅器・楽器・文房・印章・扁額・書・図の10種です。
松平定信は、古い美術に対して強い興味を持ち、「予は古き文書、又は画図、古図、古額など写しおくことを楽しむ」と言うほど、古美術を愛していました。
◎庭園芸術
松平定信は、寛政から文化年間にかけて、江戸で浴恩園、六園、海荘の3つの庭園を造り、白河藩で三郭四園と南湖の2つの庭園を造成しました。
寛政6年、白河への帰藩が許されると、白河城内に三郭四園を作庭しました。桜花・紅葉・秋月・千鳥・雪景などを鑑賞できる、美観に富んだ回遊式庭園でした。定信は、その庭園で詩歌会や琴・碁・書・画の四芸会を催しました。
また、松平定信は、放置されて荒れ果てたままであった沼地を1年かけて庭園に作り替えました。今も残る南湖です。「南湖」は漢名で、和名は「関の湖」と称しました。周囲に柵を設けず、「士民と共に楽しむ」庭園としました。
定信は、南湖を風流のためだけに使いませんでした。常に海防問題を考えていた松平定信は、南湖を海に見立てて、船を操る訓練をさせたり、船舶技術を学ばせたりしました。
私も一度、南湖に行ったことがあります。本当に広大な庭園で、今も、南湖の周囲を歩いて疲れたことをはっきりと覚えています。
◎「東洲斎写楽」
多くの人が「写楽」の謎に挑戦してきました。主な仮説を紹介します。
(1)能役者「斎藤十郎兵衛」説 天保年間に出た『浮世絵類考』に「写楽、俗称・斎藤十郎兵衛。江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者なり」と記述された。現在、最も有力な説である。
(2)戯作者「十返舎一九」説 一九は、寛政6年に江戸に来て、蔦屋重三郎の居候になった。寛政8年に自作自画の黄表紙『初登山手習方帖』の挿絵に、「東洲斎写楽画」の落款がある凧絵を描いている。
(3)画家「司馬江漢」説
江漢はいつも旅をしていたのに、写楽の活動期間だけは江戸を出ていなかった。役者絵の第一人者であった勝川春章の死後、春章をまねて役者絵を描いた。
(4)版元「蔦屋重三郎」説 写楽は、蔦屋以外からは一枚も版行していない。蔦屋は自ら戯作を描き、自作の挿絵も描いた。写楽は彼自身であり、その秘密を隠すために正体を明かそうとしなかった。
その他、画家「円山応挙」、画家「酒井抱一」、浮世絵師「葛飾北斎」、戯作者「山東京伝」、浮世絵師「歌川豊国」など数多くの仮説が生まれています。 私の仮説はこうです。《寛政5年7月に老中を解任された「松平定信」とお抱え絵師の「谷文晁」の二人が中心になり、補助者として、前期には北斎を、後期には勝川春英を選んで、協力して役者絵を描き、「東洲斎写楽」の名前で発表した》
私の考えは、俳人の池上浩山人が昭和37年に「写楽の憶測」と題して発表したものと同じだと思われますが、残念ながら、私は彼の文章を読んでいません。彼の説は、高橋克彦著『写楽の世界』に次のように簡単に紹介されています。
「南北画派を築いた谷文晁は、田安家家臣の漢詩人・谷麓谷の子で、田安家の生まれである松平定信と縁がある。文晁は写山楼と号し、定信は楽翁と号した。二人の号を合わせて写楽とし、定信の財力をもって金のかかる雲母摺で出版した。また、文晁の絵と写楽の版下絵の筆意が似ている」
私は今までに3点の松平定信の絵(実物ではなく、小さな写真版)を見ています。「墨竹図」は平凡ですが、30歳の頃に描いた自画像はすぐれた作品です。また中年の頃に描いたと思われる「関羽図」は生き生きとした傑作です。これだけの画才の持ち主なら、谷文晁と組めば、数々の役者絵の傑作を描くことも可能だったと思います。
写楽の役者絵は、前期は「東洲斎写楽画」の落款ですが、後期は「写楽画」だけになっています。このことは、北斎が抜けたことを暗示していると思います。落款の変化とともに作品の質が極端に低下しています。勝川春英に代わったからだと私は考えています。
松平定信が老中の重職を解任されたのは、寛政5年7月23日でした。
写楽が活躍したのは、寛政6年5月から翌年の1月までの10ヵ月間でした。
定信は、歌麿の浮世絵の無類の素晴らしさに触発されて、有力な仲間と組んで自らも浮世絵の世界に少し入り込もうとしたのだろう、と私は思っています。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬