管仲は言います。民に生活を保障すること、これこそが民をして統治者を信頼させる道で、これ以外にないと。平洲の「藩主民の父母論」はこの管仲の思想に乗っかっています。しかし先号で述べたように極めて人間的に。教育において導かなければならないと言います。ということは平洲は管仲とは違って農民を人間として信頼していたということを意味します。私が平洲を儒教史上空前の思想家と言う理由の1つです。
 「細井平洲先生旧里碑」には次の文言が記されています。「銘曰、混混霊泉、其源何在、観仁之里、無不自励、嗟昔先生、携家家東」。現代語訳すれば、「先生を銘に刻して讃える。先生の思想の湧き出てくる源泉はどこにあったか。この仁の里を見ればすぐ分かる。自ずから民が仁に励む里になっているから。先生は若くして家族を携えて江戸に住み、その思想を鍛えたのは、この民の仁の大切さを説くためであった」。
 この現代語訳は自分ながらに名訳と思います。しかし自讃的です。本当にこの訳でいいのか。いいのです。平洲は『嚶鳴館遺草』の中で、以下のように言っていますので。

人間の生命を立てるのは衣食です。この衣食の源泉は百姓の勤勉にある。だから農民は国の根本。にもかかわらず代官の中には、農民の悪事をあげつらって苛めるだけの者もいる。これではいけない。上に立つ者も下で働く農民も相互に立ちいくようにすること。これが肝心だ。搾り取るのでなく、農民を教え導くのでなければいけない。仁愛の心でもって。

 農民は善政を望んでいるのです。「仁之里(仁の里)」とは、不耕の土地なく農民が元気に子育てに育む農村のことです。平洲は現東海市の荒尾村の「平島」に生まれました。平洲はこの村を見て、これこそが「仁の里」と思ったのです。善政の尾張藩だからこそこれができた。平洲はこれを理論づけるために、儒教を学び嚶鳴館を起こしたのです。
 ちなみに旧里碑は神明社の境内にあって、細井平洲記念館の北上方にあります。また尾張藩の善政は年貢を四公六民にし、搾り取るだけの藩政でなく農民を豊かにすることを心がけました。他藩の多くは六公四民でした。だからこそ農民出の平洲も儒教を学ぶことができたのです。生活に余裕ができて。
 平洲が学んだ寺子屋観音寺の住職義観和尚は、「衆の誠」が藩を支える土台と説きました。平洲はその通りと思います。「どうだ平洲、お前は頭も良い。儒教を学んで、尾張藩の善政を世に広めてほしい。農民苛めの政治では、安定したこの幕藩体制の政治は崩れてしまう。儒教には仁義王道論が説かれ、賢君の思想が説かれているぞ」と。
 しかしこの義観和尚については『嚶鳴館遺草』に出て来ますが、「衆の誠」の語は出て来ません。平洲が書き留めた『小語』に出て来るだけです。しかし私は人間平洲の立場に立てば、「衆の誠」と「仁の里」はセットになる語と思います。「衆の誠」、つまり「民の誠」こそが「仁の里」をつくるのですから。
 さて、平洲の思想には経世済民の思想が説かれていると言われますが、当然でしょう。それを求めて儒教を学んだのですから。論争にあけくれる学派には目もくれず、儒教の仁義王道論を求める中西淡淵に師事し、彼の弟子たちとともに確立した「藩主民の父母論」こそ、経世済民を可能にした思想と私は思いますので。
 封建制を、搾り取るだけの封建制から農民を主人公にした農政の封建制にしたこと、このことを指して、私は平洲を儒教史上空前の思想家と評します。

※5月号の『嚶鳴館遺稿』→正しくは『嚶鳴館遺草』に訂正しお詫びいたします。
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 管仲は言います。民に生活を保障すること、これこそが民をして統治者を信頼させる道で、これ以外にないと。平洲の「藩主民の父母論」はこの管仲の思想に乗っかっています。しかし先号で述べたように極めて人間的に。教育において導かなければならないと言います。ということは平洲は管仲とは違って農民を人間として信頼していたということを意味します。私が平洲を儒教史上空前の思想家と言う理由の1つです。
 「細井平洲先生旧里碑」には次の文言が記されています。「銘曰、混混霊泉、其源何在、観仁之里、無不自励、嗟昔先生、携家家東」。現代語訳すれば、「先生を銘に刻して讃える。先生の思想の湧き出てくる源泉はどこにあったか。この仁の里を見ればすぐ分かる。自ずから民が仁に励む里になっているから。先生は若くして家族を携えて江戸に住み、その思想を鍛えたのは、この民の仁の大切さを説くためであった」。
 この現代語訳は自分ながらに名訳と思います。しかし自讃的です。本当にこの訳でいいのか。いいのです。平洲は『嚶鳴館遺草』の中で、以下のように言っていますので。

人間の生命を立てるのは衣食です。この衣食の源泉は百姓の勤勉にある。だから農民は国の根本。にもかかわらず代官の中には、農民の悪事をあげつらって苛めるだけの者もいる。これではいけない。上に立つ者も下で働く農民も相互に立ちいくようにすること。これが肝心だ。搾り取るのでなく、農民を教え導くのでなければいけない。仁愛の心でもって。

 農民は善政を望んでいるのです。「仁之里(仁の里)」とは、不耕の土地なく農民が元気に子育てに育む農村のことです。平洲は現東海市の荒尾村の「平島」に生まれました。平洲はこの村を見て、これこそが「仁の里」と思ったのです。善政の尾張藩だからこそこれができた。平洲はこれを理論づけるために、儒教を学び嚶鳴館を起こしたのです。
 ちなみに旧里碑は神明社の境内にあって、細井平洲記念館の北上方にあります。また尾張藩の善政は年貢を四公六民にし、搾り取るだけの藩政でなく農民を豊かにすることを心がけました。他藩の多くは六公四民でした。だからこそ農民出の平洲も儒教を学ぶことができたのです。生活に余裕ができて。
 平洲が学んだ寺子屋観音寺の住職義観和尚は、「衆の誠」が藩を支える土台と説きました。平洲はその通りと思います。「どうだ平洲、お前は頭も良い。儒教を学んで、尾張藩の善政を世に広めてほしい。農民苛めの政治では、安定したこの幕藩体制の政治は崩れてしまう。儒教には仁義王道論が説かれ、賢君の思想が説かれているぞ」と。
 しかしこの義観和尚については『嚶鳴館遺草』に出て来ますが、「衆の誠」の語は出て来ません。平洲が書き留めた『小語』に出て来るだけです。しかし私は人間平洲の立場に立てば、「衆の誠」と「仁の里」はセットになる語と思います。「衆の誠」、つまり「民の誠」こそが「仁の里」をつくるのですから。
 さて、平洲の思想には経世済民の思想が説かれていると言われますが、当然でしょう。それを求めて儒教を学んだのですから。論争にあけくれる学派には目もくれず、儒教の仁義王道論を求める中西淡淵に師事し、彼の弟子たちとともに確立した「藩主民の父母論」こそ、経世済民を可能にした思想と私は思いますので。
 封建制を、搾り取るだけの封建制から農民を主人公にした農政の封建制にしたこと、このことを指して、私は平洲を儒教史上空前の思想家と評します。

※5月号の『嚶鳴館遺稿』→正しくは『嚶鳴館遺草』に訂正しお詫びいたします。
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 管仲は言います。民に生活を保障すること、これこそが民をして統治者を信頼させる道で、これ以外にないと。平洲の「藩主民の父母論」はこの管仲の思想に乗っかっています。しかし先号で述べたように極めて人間的に。教育において導かなければならないと言います。ということは平洲は管仲とは違って農民を人間として信頼していたということを意味します。私が平洲を儒教史上空前の思想家と言う理由の1つです。
 「細井平洲先生旧里碑」には次の文言が記されています。「銘曰、混混霊泉、其源何在、観仁之里、無不自励、嗟昔先生、携家家東」。現代語訳すれば、「先生を銘に刻して讃える。先生の思想の湧き出てくる源泉はどこにあったか。この仁の里を見ればすぐ分かる。自ずから民が仁に励む里になっているから。先生は若くして家族を携えて江戸に住み、その思想を鍛えたのは、この民の仁の大切さを説くためであった」。
 この現代語訳は自分ながらに名訳と思います。しかし自讃的です。本当にこの訳でいいのか。いいのです。平洲は『嚶鳴館遺草』の中で、以下のように言っていますので。

人間の生命を立てるのは衣食です。この衣食の源泉は百姓の勤勉にある。だから農民は国の根本。にもかかわらず代官の中には、農民の悪事をあげつらって苛めるだけの者もいる。これではいけない。上に立つ者も下で働く農民も相互に立ちいくようにすること。これが肝心だ。搾り取るのでなく、農民を教え導くのでなければいけない。仁愛の心でもって。

 農民は善政を望んでいるのです。「仁之里(仁の里)」とは、不耕の土地なく農民が元気に子育てに育む農村のことです。平洲は現東海市の荒尾村の「平島」に生まれました。平洲はこの村を見て、これこそが「仁の里」と思ったのです。善政の尾張藩だからこそこれができた。平洲はこれを理論づけるために、儒教を学び嚶鳴館を起こしたのです。
 ちなみに旧里碑は神明社の境内にあって、細井平洲記念館の北上方にあります。また尾張藩の善政は年貢を四公六民にし、搾り取るだけの藩政でなく農民を豊かにすることを心がけました。他藩の多くは六公四民でした。だからこそ農民出の平洲も儒教を学ぶことができたのです。生活に余裕ができて。
 平洲が学んだ寺子屋観音寺の住職義観和尚は、「衆の誠」が藩を支える土台と説きました。平洲はその通りと思います。「どうだ平洲、お前は頭も良い。儒教を学んで、尾張藩の善政を世に広めてほしい。農民苛めの政治では、安定したこの幕藩体制の政治は崩れてしまう。儒教には仁義王道論が説かれ、賢君の思想が説かれているぞ」と。
 しかしこの義観和尚については『嚶鳴館遺草』に出て来ますが、「衆の誠」の語は出て来ません。平洲が書き留めた『小語』に出て来るだけです。しかし私は人間平洲の立場に立てば、「衆の誠」と「仁の里」はセットになる語と思います。「衆の誠」、つまり「民の誠」こそが「仁の里」をつくるのですから。
 さて、平洲の思想には経世済民の思想が説かれていると言われますが、当然でしょう。それを求めて儒教を学んだのですから。論争にあけくれる学派には目もくれず、儒教の仁義王道論を求める中西淡淵に師事し、彼の弟子たちとともに確立した「藩主民の父母論」こそ、経世済民を可能にした思想と私は思いますので。
 封建制を、搾り取るだけの封建制から農民を主人公にした農政の封建制にしたこと、このことを指して、私は平洲を儒教史上空前の思想家と評します。

※5月号の『嚶鳴館遺稿』→正しくは『嚶鳴館遺草』に訂正しお詫びいたします。