◎カフカ
 チェコが生んだ世界的な作家フランツ・カフカが亡くなって丁度百年になります。あれほど不眠に苦しんだカフカでしたが、この百年間、ぐっすりと安らかに眠っていたことでしょう。
 久しぶりにカフカに関する本を読んでみたくなりました。まず代表作の『変身』を読みました。学生時代に初めて読んだ筑摩書房の『世界文学大系・カフカ』で読みました。小さな活字で苦労しましたが、内容が風変わりで、一気に読みました。同じ本に収録されている『断食芸人』も読みました。矢張り面白く、短時間で読み終えました。小品集『田舎医者』の諸編も興味深く読みました。
 カフカとは、どんな人だったのでしょうか。
《略年譜》
 1883年7月3日、チェコの首都プラハのユダヤ人区で生まれた。父ヘルマンは、行商人から身を起こし、プラハで小間物屋を開いていた。その時、31歳だった。母ユーリエは、プラハのかなり良い家柄の出身で、その時、27歳だった。
 1901年7月、高等学校卒業(大学入学資格)試験に合格した。9月、プラハ・ドイツ大学に入学。初め化学を学んでいたが、やがて法学に変更した。
 1907年、「一般保険会社」に臨時雇いとして入社したが、翌年7月、退社して、友人の父親が理事長をしていた半官半民の「労働者災害保険局」に就職した。午前8時から午後2時までの勤務であった。
 1912年8月、親友のブロートの家で、ベルリンから来ていたフェリーツェと出会った。9月、彼女に最初の手紙を書いた。
 1914年6月1日にフェリーツェと婚約したが、7月12日、婚約を解消した。
 1917年7月、フェリーツェと2度目の婚約をした。8月、喀血した。肺結核と診断された。12月、フェリーツェとの婚約を再び解消した。
 1919年1月、療養地で、療養に来ていた靴屋の娘ユーリエと出会った。6月、ユーリエと婚約したが、父ヘルマンの強い反対で結婚には至らなかった。
 1920年、既婚の女性ジャーナリストのミレナに手紙を出した。以降、二人の間で熱烈な愛の手紙が交換された。
 1922年7月、労働者災害保険局を退職した。以後、年金で生活することになった。
 1923年6月、ミレナと最後に会った。7月、バルト海の海水浴場で、ユダヤ人臨海学校で働いていた若いドーラと会った。9月、ベルリンでドーラと同棲生活に入った。困難な生活状況の中で健康状態は急激に悪化した。
 1924年4月、ウィーン大学付属病院で喉頭結核と診断された。ウィーン近郊の療養所に移った。ドーラは、カフカが死ぬまでずっと付き添っていた。6月3日早朝、病状が急変して、偉大な作家は死去した。享年41。

◎カフカと3人の女性
 カフカをめぐる3人の女性について書きます。

(1)フェリーツェ
 1912年8月13日、親友のブロートの家を訪れた29歳のカフカは、フェリーツェに出会った。以後5年間に5百通以上の手紙を書き、2度の婚約と解消を繰り返し、彼の文学の形成に大きな影響を与えた女性である。当時24歳で、ベルリンで口述録音機会社に勤めていたが、旅行の途中、知り合いのブロートの妹を訪問していたのであった。
 1ヵ月以上も経った9月20日、カフカは彼女に宛てて最初の手紙を書いた。初めは懐疑的であった彼女も、書き送られてくる手紙を読んでいくうちに次第にカフカを愛するようになって行った。
 翌年の6月、カフカは彼女に初めて求婚の手紙を出し、彼女も受諾の意を伝えた。
 1914年6月1日、ベルリンで正式に婚約した。しかし、7月12日、婚約が解消された。その後も紆余曲折があり、3年後の1917年7月初旬、彼女がプラハに来て2度目の婚約をした。しかし、今度も、12月に婚約は解消された。表向きの理由は、3ヵ月前の肺結核の発病であった。
 どうして、こんなことが2度も繰り返されたのでしょうか。よく分からない点が多々ありますが、どうもカフカは女性に対して性的に自信がなく、結婚生活に恐れを抱いていたように思われます。『日記』にこう書いています。「できるだけ禁欲的に生きること、独身者より禁欲的であること、これが僕にとっての、結婚生活に耐える唯一の可能性だ」

(2)ミレナ
 1920年4月、療養のための休暇を得た37歳のカフカは、南チロルの保養地メラーンに行った。そこから既婚の女性ジャーナリストのミレナ(24歳)に手紙を出した。その前に彼女が彼の作品をチェコ語に訳したいと申し出ていたが、それに対する手紙だったのである。以降、二人の間に熱烈な愛の手紙が交換されることになった。
 ミレナは、外科医の父親の家を飛び出し、ユダヤ人の文士と結婚してウィーンに住んでいたが、やがて夫に見捨てられた。カフカとの文通が始まった当時、彼女は貧困と孤独の底で苦しんでいた。6月29日、保養地から帰る途中に、カフカはウィーンに立ち寄り、ミレナと会った。
 1923年に入って、カフカの病状が悪化した。5月、彼は保養地からミレナに葉書を書いた。そして、6月、二人は会ったが、それが最後の出会いであった。
 カフカにとって、ミレナは、その教養の点で、文学を理解するだけでなく、自身も文学に係わる仕事を持っていたという点で、さらに、非ユダヤ人でキリスト教徒であり、既婚者であったという点で、彼がこれまで接してきた女性たちとは異なっていた。

(3)ドーラ
 1923年7月、カフカは、妹エリとその子供たちとバルト海の海水浴場に滞在した。そこでユダヤ人臨海学校で働いていた東ユダヤ系の20歳前後の若いドーラと出会い、恋愛関係に入った。9月、彼はベルリンに行き、ドーラと同棲生活を始めた。二人の生活を支えたのは、わずかな年金と、家族や友人たちからの支援の送金と食料品であった。病気と貧困の生活が続いたが、カフカもドーラも幸福であった。
 二人の家を訪問した親友のブロートは、二人の微笑ましい情景をこう書いています。
 「二人はよく子供のようにふざけっこをした。今でも私は、彼らが同じ金属製の盥の中に手を入れて『私たちのお風呂』と言っていたのを思い出す」
 苦悩の作家カフカは、こうした素朴な男女関係を求め続けていたにちがいありません。
 若いドーラは、カフカが死ぬまで常に彼に寄り添っていました。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
Copyright©2003-2024 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
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■この指とまれ
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■ちょっとおじゃまします                   
■元気の出てくることばたち
◎カフカ
 チェコが生んだ世界的な作家フランツ・カフカが亡くなって丁度百年になります。あれほど不眠に苦しんだカフカでしたが、この百年間、ぐっすりと安らかに眠っていたことでしょう。
 久しぶりにカフカに関する本を読んでみたくなりました。まず代表作の『変身』を読みました。学生時代に初めて読んだ筑摩書房の『世界文学大系・カフカ』で読みました。小さな活字で苦労しましたが、内容が風変わりで、一気に読みました。同じ本に収録されている『断食芸人』も読みました。矢張り面白く、短時間で読み終えました。小品集『田舎医者』の諸編も興味深く読みました。
 カフカとは、どんな人だったのでしょうか。

《略年譜》
 1883年7月3日、チェコの首都プラハのユダヤ人区で生まれた。父ヘルマンは、行商人から身を起こし、プラハで小間物屋を開いていた。その時、31歳だった。母ユーリエは、プラハのかなり良い家柄の出身で、その時、27歳だった。
 1901年7月、高等学校卒業(大学入学資格)試験に合格した。9月、プラハ・ドイツ大学に入学。初め化学を学んでいたが、やがて法学に変更した。
 1907年、「一般保険会社」に臨時雇いとして入社したが、翌年7月、退社して、友人の父親が理事長をしていた半官半民の「労働者災害保険局」に就職した。午前8時から午後2時までの勤務であった。
 1912年8月、親友のブロートの家で、ベルリンから来ていたフェリーツェと出会った。9月、彼女に最初の手紙を書いた。
 1914年6月1日にフェリーツェと婚約したが、7月12日、婚約を解消した。
 1917年7月、フェリーツェと2度目の婚約をした。8月、喀血した。肺結核と診断された。12月、フェリーツェとの婚約を再び解消した。
 1919年1月、療養地で、療養に来ていた靴屋の娘ユーリエと出会った。6月、ユーリエと婚約したが、父ヘルマンの強い反対で結婚には至らなかった。
 1920年、既婚の女性ジャーナリストのミレナに手紙を出した。以降、二人の間で熱烈な愛の手紙が交換された。
 1922年7月、労働者災害保険局を退職した。以後、年金で生活することになった。
 1923年6月、ミレナと最後に会った。7月、バルト海の海水浴場で、ユダヤ人臨海学校で働いていた若いドーラと会った。9月、ベルリンでドーラと同棲生活に入った。困難な生活状況の中で健康状態は急激に悪化した。
 1924年4月、ウィーン大学付属病院で喉頭結核と診断された。ウィーン近郊の療養所に移った。ドーラは、カフカが死ぬまでずっと付き添っていた。6月3日早朝、病状が急変して、偉大な作家は死去した。享年41。

◎カフカと3人の女性
 カフカをめぐる3人の女性について書きます。

(1)フェリーツェ
 1912年8月13日、親友のブロートの家を訪れた29歳のカフカは、フェリーツェに出会った。以後5年間に5百通以上の手紙を書き、2度の婚約と解消を繰り返し、彼の文学の形成に大きな影響を与えた女性である。当時24歳で、ベルリンで口述録音機会社に勤めていたが、旅行の途中、知り合いのブロートの妹を訪問していたのであった。
 1ヵ月以上も経った9月20日、カフカは彼女に宛てて最初の手紙を書いた。初めは懐疑的であった彼女も、書き送られてくる手紙を読んでいくうちに次第にカフカを愛するようになって行った。
 翌年の6月、カフカは彼女に初めて求婚の手紙を出し、彼女も受諾の意を伝えた。
 1914年6月1日、ベルリンで正式に婚約した。しかし、7月12日、婚約が解消された。その後も紆余曲折があり、3年後の1917年7月初旬、彼女がプラハに来て2度目の婚約をした。しかし、今度も、12月に婚約は解消された。表向きの理由は、3ヵ月前の肺結核の発病であった。
 どうして、こんなことが2度も繰り返されたのでしょうか。よく分からない点が多々ありますが、どうもカフカは女性に対して性的に自信がなく、結婚生活に恐れを抱いていたように思われます。『日記』にこう書いています。「できるだけ禁欲的に生きること、独身者より禁欲的であること、これが僕にとっての、結婚生活に耐える唯一の可能性だ」

(2)ミレナ
 1920年4月、療養のための休暇を得た37歳のカフカは、南チロルの保養地メラーンに行った。そこから既婚の女性ジャーナリストのミレナ(24歳)に手紙を出した。その前に彼女が彼の作品をチェコ語に訳したいと申し出ていたが、それに対する手紙だったのである。以降、二人の間に熱烈な愛の手紙が交換されることになった。
 ミレナは、外科医の父親の家を飛び出し、ユダヤ人の文士と結婚してウィーンに住んでいたが、やがて夫に見捨てられた。カフカとの文通が始まった当時、彼女は貧困と孤独の底で苦しんでいた。6月29日、保養地から帰る途中に、カフカはウィーンに立ち寄り、ミレナと会った。
 1923年に入って、カフカの病状が悪化した。5月、彼は保養地からミレナに葉書を書いた。そして、6月、二人は会ったが、それが最後の出会いであった。
 カフカにとって、ミレナは、その教養の点で、文学を理解するだけでなく、自身も文学に係わる仕事を持っていたという点で、さらに、非ユダヤ人でキリスト教徒であり、既婚者であったという点で、彼がこれまで接してきた女性たちとは異なっていた。

(3)ドーラ
 1923年7月、カフカは、妹エリとその子供たちとバルト海の海水浴場に滞在した。そこでユダヤ人臨海学校で働いていた東ユダヤ系の20歳前後の若いドーラと出会い、恋愛関係に入った。9月、彼はベルリンに行き、ドーラと同棲生活を始めた。二人の生活を支えたのは、わずかな年金と、家族や友人たちからの支援の送金と食料品であった。病気と貧困の生活が続いたが、カフカもドーラも幸福であった。
 二人の家を訪問した親友のブロートは、二人の微笑ましい情景をこう書いています。
 「二人はよく子供のようにふざけっこをした。今でも私は、彼らが同じ金属製の盥の中に手を入れて『私たちのお風呂』と言っていたのを思い出す」
 苦悩の作家カフカは、こうした素朴な男女関係を求め続けていたにちがいありません。
 若いドーラは、カフカが死ぬまで常に彼に寄り添っていました。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
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新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
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電話:0569-72-0356
◎カフカ
 チェコが生んだ世界的な作家フランツ・カフカが亡くなって丁度百年になります。あれほど不眠に苦しんだカフカでしたが、この百年間、ぐっすりと安らかに眠っていたことでしょう。
 久しぶりにカフカに関する本を読んでみたくなりました。まず代表作の『変身』を読みました。学生時代に初めて読んだ筑摩書房の『世界文学大系・カフカ』で読みました。小さな活字で苦労しましたが、内容が風変わりで、一気に読みました。同じ本に収録されている『断食芸人』も読みました。矢張り面白く、短時間で読み終えました。小品集『田舎医者』の諸編も興味深く読みました。
 カフカとは、どんな人だったのでしょうか。

《略年譜》
 1883年7月3日、チェコの首都プラハのユダヤ人区で生まれた。父ヘルマンは、行商人から身を起こし、プラハで小間物屋を開いていた。その時、31歳だった。母ユーリエは、プラハのかなり良い家柄の出身で、その時、27歳だった。
 1901年7月、高等学校卒業(大学入学資格)試験に合格した。9月、プラハ・ドイツ大学に入学。初め化学を学んでいたが、やがて法学に変更した。
 1907年、「一般保険会社」に臨時雇いとして入社したが、翌年7月、退社して、友人の父親が理事長をしていた半官半民の「労働者災害保険局」に就職した。午前8時から午後2時までの勤務であった。
 1912年8月、親友のブロートの家で、ベルリンから来ていたフェリーツェと出会った。9月、彼女に最初の手紙を書いた。
 1914年6月1日にフェリーツェと婚約したが、7月12日、婚約を解消した。
 1917年7月、フェリーツェと2度目の婚約をした。8月、喀血した。肺結核と診断された。12月、フェリーツェとの婚約を再び解消した。
 1919年1月、療養地で、療養に来ていた靴屋の娘ユーリエと出会った。6月、ユーリエと婚約したが、父ヘルマンの強い反対で結婚には至らなかった。
 1920年、既婚の女性ジャーナリストのミレナに手紙を出した。以降、二人の間で熱烈な愛の手紙が交換された。
 1922年7月、労働者災害保険局を退職した。以後、年金で生活することになった。
 1923年6月、ミレナと最後に会った。7月、バルト海の海水浴場で、ユダヤ人臨海学校で働いていた若いドーラと会った。9月、ベルリンでドーラと同棲生活に入った。困難な生活状況の中で健康状態は急激に悪化した。
 1924年4月、ウィーン大学付属病院で喉頭結核と診断された。ウィーン近郊の療養所に移った。ドーラは、カフカが死ぬまでずっと付き添っていた。6月3日早朝、病状が急変して、偉大な作家は死去した。享年41。

◎カフカと3人の女性
 カフカをめぐる3人の女性について書きます。

(1)フェリーツェ
 1912年8月13日、親友のブロートの家を訪れた29歳のカフカは、フェリーツェに出会った。以後5年間に5百通以上の手紙を書き、2度の婚約と解消を繰り返し、彼の文学の形成に大きな影響を与えた女性である。当時24歳で、ベルリンで口述録音機会社に勤めていたが、旅行の途中、知り合いのブロートの妹を訪問していたのであった。
 1ヵ月以上も経った9月20日、カフカは彼女に宛てて最初の手紙を書いた。初めは懐疑的であった彼女も、書き送られてくる手紙を読んでいくうちに次第にカフカを愛するようになって行った。
 翌年の6月、カフカは彼女に初めて求婚の手紙を出し、彼女も受諾の意を伝えた。
 1914年6月1日、ベルリンで正式に婚約した。しかし、7月12日、婚約が解消された。その後も紆余曲折があり、3年後の1917年7月初旬、彼女がプラハに来て2度目の婚約をした。しかし、今度も、12月に婚約は解消された。表向きの理由は、3ヵ月前の肺結核の発病であった。
 どうして、こんなことが2度も繰り返されたのでしょうか。よく分からない点が多々ありますが、どうもカフカは女性に対して性的に自信がなく、結婚生活に恐れを抱いていたように思われます。『日記』にこう書いています。「できるだけ禁欲的に生きること、独身者より禁欲的であること、これが僕にとっての、結婚生活に耐える唯一の可能性だ」

(2)ミレナ
 1920年4月、療養のための休暇を得た37歳のカフカは、南チロルの保養地メラーンに行った。そこから既婚の女性ジャーナリストのミレナ(24歳)に手紙を出した。その前に彼女が彼の作品をチェコ語に訳したいと申し出ていたが、それに対する手紙だったのである。以降、二人の間に熱烈な愛の手紙が交換されることになった。
 ミレナは、外科医の父親の家を飛び出し、ユダヤ人の文士と結婚してウィーンに住んでいたが、やがて夫に見捨てられた。カフカとの文通が始まった当時、彼女は貧困と孤独の底で苦しんでいた。6月29日、保養地から帰る途中に、カフカはウィーンに立ち寄り、ミレナと会った。
 1923年に入って、カフカの病状が悪化した。5月、彼は保養地からミレナに葉書を書いた。そして、6月、二人は会ったが、それが最後の出会いであった。
 カフカにとって、ミレナは、その教養の点で、文学を理解するだけでなく、自身も文学に係わる仕事を持っていたという点で、さらに、非ユダヤ人でキリスト教徒であり、既婚者であったという点で、彼がこれまで接してきた女性たちとは異なっていた。

(3)ドーラ
 1923年7月、カフカは、妹エリとその子供たちとバルト海の海水浴場に滞在した。そこでユダヤ人臨海学校で働いていた東ユダヤ系の20歳前後の若いドーラと出会い、恋愛関係に入った。9月、彼はベルリンに行き、ドーラと同棲生活を始めた。二人の生活を支えたのは、わずかな年金と、家族や友人たちからの支援の送金と食料品であった。病気と貧困の生活が続いたが、カフカもドーラも幸福であった。
 二人の家を訪問した親友のブロートは、二人の微笑ましい情景をこう書いています。
 「二人はよく子供のようにふざけっこをした。今でも私は、彼らが同じ金属製の盥の中に手を入れて『私たちのお風呂』と言っていたのを思い出す」
 苦悩の作家カフカは、こうした素朴な男女関係を求め続けていたにちがいありません。
 若いドーラは、カフカが死ぬまで常に彼に寄り添っていました。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬