◎尾崎放哉
先日、吉村昭の『海も暮れきる』(講談社)を読みました。読み終えた後、しばらくの間、私は深い感慨に耽りました。「どうして人間ってこんなに哀しい生き物なんだろう。どうして人間ってなかなか幸福になれないんだろう」と思い続けました。
これは、山頭火と並んで有名な自由律俳人・尾崎放哉の晩年を描いた伝記小説で、昭和55年(1980)に刊行されました。多くの人が読み、ほとんど知られていなかった放哉の名が広く知られるようになりました。出版と同時に買い求めてはいたのですが、長い間読んでいなかったのです。
読んでよかったと思いました。感動した私は、放哉に関する本を何冊か読みました。
作者の吉村昭は「あとがき」にこう書いています。
「(学習院旧制高等科に)入学して八カ月後、私は喀血し、肺疾患で絶対安静の身になった。病床で俳句を自然に読むようになったのは、眼に負担をかけぬためであった。句を読んでは眼を閉じ、そこに描かれた世界に身をひたす。重苦しい時間の流れが、それによって幾分かは癒された。そうした句の中で、私はいつの間にか尾崎放哉の句のみに親しむようになった。放哉が同じ結核患者であったという親近感と、それらの句が自分の内部に深くしみ入ってくるのを感じたからであった。放哉の孤独な息づかいが、私を激しく動かした。放哉も死んだのだから、自分が死を迎えるのも当然のことと受容すべきなのだ、と思ったりした。
放哉が小豆島の土を踏み、その地で死を迎えるまでの八カ月間のことを書きたかったが、それは、私が喀血し、手術を受けてようやく死から脱け出ることができた月日とほとんど合致している」
尾崎放哉とはどんな人だったのでしょうか。
〈尾崎放哉の略年譜〉
明治18年(1885)1月20日、鳥取県吉方町で生まれた。本名は尾崎秀雄。父・尾崎信三は士族で鳥取地方裁判所の書記官であった。
明治35年、鳥取県立第一中学校を卒業して、東京の第一高等学校文科に入学した。同級に安倍能成、藤村操、野上豊一郎、一年上級に荻原藤吉(井泉水)、阿部次郎がいた。俳句に興味を持っていたので、一高俳句会に参加した。運動も好きで漕艇部に属した。
明治38年9月、東京帝国大学法学部に入学。翌年、従妹の澤芳衛に求婚したが、芳衛の兄が、医学的にみて血族結婚は避けるべきだと反対した。酒に耽溺するようになった。
明治42年9月、東大を卒業。日本通信社に入社したが、1カ月ほどで退社。年末か、翌年の始めに東洋生命保険株式会社の契約課に就職することが決まった。
明治43年1月26日、坂垣馨(19歳)と結婚した。
大正10年(1921)、酒癖の悪さから退職を余儀なくされ、郷里に戻った。
大正11年4月、大学時代の友人の勧めで、朝鮮火災海上保険会社の支配人として赴任した。意欲的に仕事に取り組んだ。
大正12年、禁酒の約束を破ったとして罷免された。満州に行き再起を期したが、肋膜炎が悪化し、10月に帰国した。途中の船の中で、海に飛び込んで心中しようと妻に話したが断られた。11月、妻と別居して京都の修養団体・一燈園に入った。
大正13年3月、一燈園を出て、知恩院の常称院の寺男になった。6月、神戸の須磨寺大師堂の堂守になった。
大正14年3月、寺の内紛のため須磨寺を去り、4月、一燈園に戻った。5月、福井県小浜の常高寺の寺男になったが、寺の破産のため、7月、小浜を去った。8月、荻原井泉水の尽力により、小豆島の西光寺の南郷庵に入った。
大正15年3月、喉頭結核が進行し、食べ物が喉を通らなくなった。4月7日、痩せて骨と皮だけになって、尾崎放哉は南郷庵で亡くなった。享年42。
◎放哉の句
私の好きな放哉の句について自由に書きます。
(1)「つくづく淋しい我が影よ動かして見る」
〈私は部屋の中で一人で淋しく座っている。畳に孤独な私の影が映っている。私はその影を見る。その影も動かない。そして、実に淋しそうに見える。私は体を動かして、自分の影を少し動かしてみる。動けば、淋しさが薄らぐだろう。しかし、やはり淋しそうに見える。本体の私が淋しいのだから、私の影も同じように淋しいのだ〉
この句は、大正12年11月、満州から帰国し、妻と別居して、一人で一燈園に入った時期に作られました。一燈園での生活は、托鉢と奉仕の辛いものでした。放哉は孤独で淋しい境遇に耐えていましたが、やはり何か慰みが欲しかったのです。
(2)「一日物言はず蝶の影さす」
〈私は、朝から一人で大師堂に座って堂守をしていたが、今日は誰も来なかった。一人でいるのもいいが、こう淋しいのも辛いものだ。誰か来ないかな。夕方、西日が障子に当たっていた。その障子に小さな影がさした。見ると、それは蝶の影だった。蝶よ、孤独な私のところに挨拶に来てくれたんだね。ありがとう、ありがとう〉
この句は、大正13年6月から須磨寺大師堂の堂守をしていた時期に作られました。堂内での沈黙の生活はやはり淋しい。蝶の影が障子に映った。ほっとした。孤独を癒してくれる生き物たちへの感謝の気持ちがよく表現されています。
(3)「犬よちぎれるほど尾をふってくれる」
〈私は、本当は淋しがりやだ。孤独な生活の中に安心立命を求めている私だが、心の中には人恋しい淋しがりやの私もいるのだ。多くの人が、酒癖の悪い私をひどく嫌悪してきた。そして、私に寄り付かなくなった。しかし、私は人恋しい人間なのだ。犬よ、お前は、私の本心を知っているのだね。尻尾をちぎれるほど振って、私に親愛の情を示してくれている。ありがとう、ありがとう〉
これも須磨寺時代の作です。私は犬が大好きです。この句も大好きです。
(4)「咳をしても一人」
〈「ゴホン、ゴホン」。咳が止まらない。苦しい。私は庵中に一人で暮らしている。どんなに苦しく咳き込んでも、誰も心配してくれない。独居は気が楽だが、病気の時は本当に辛い〉
この句は、小豆島南郷庵時代に作られた放哉の代表作です。死の数カ月前から、彼は激しい咳の発作に苦しむようになりました。しかし、独居生活を続ける彼は、一人でじっと苦しみに耐えていたのでした。
たった9音に凝縮された究極の短句です。深い孤独感がひしひしと迫ってきます。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
Copyrightc2003-2024 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
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電話:0569-72-0356
◎尾崎放哉
先日、吉村昭の『海も暮れきる』(講談社)を読みました。読み終えた後、しばらくの間、私は深い感慨に耽りました。「どうして人間ってこんなに哀しい生き物なんだろう。どうして人間ってなかなか幸福になれないんだろう」と思い続けました。
これは、山頭火と並んで有名な自由律俳人・尾崎放哉の晩年を描いた伝記小説で、昭和55年(1980)に刊行されました。多くの人が読み、ほとんど知られていなかった放哉の名が広く知られるようになりました。出版と同時に買い求めてはいたのですが、長い間読んでいなかったのです。
読んでよかったと思いました。感動した私は、放哉に関する本を何冊か読みました。
作者の吉村昭は「あとがき」にこう書いています。
「(学習院旧制高等科に)入学して八カ月後、私は喀血し、肺疾患で絶対安静の身になった。病床で俳句を自然に読むようになったのは、眼に負担をかけぬためであった。句を読んでは眼を閉じ、そこに描かれた世界に身をひたす。重苦しい時間の流れが、それによって幾分かは癒された。そうした句の中で、私はいつの間にか尾崎放哉の句のみに親しむようになった。放哉が同じ結核患者であったという親近感と、それらの句が自分の内部に深くしみ入ってくるのを感じたからであった。放哉の孤独な息づかいが、私を激しく動かした。放哉も死んだのだから、自分が死を迎えるのも当然のことと受容すべきなのだ、と思ったりした。
放哉が小豆島の土を踏み、その地で死を迎えるまでの八カ月間のことを書きたかったが、それは、私が喀血し、手術を受けてようやく死から脱け出ることができた月日とほとんど合致している」
尾崎放哉とはどんな人だったのでしょうか。
〈尾崎放哉の略年譜〉
明治18年(1885)1月20日、鳥取県吉方町で生まれた。本名は尾崎秀雄。父・尾崎信三は士族で鳥取地方裁判所の書記官であった。
明治35年、鳥取県立第一中学校を卒業して、東京の第一高等学校文科に入学した。同級に安倍能成、藤村操、野上豊一郎、一年上級に荻原藤吉(井泉水)、阿部次郎がいた。俳句に興味を持っていたので、一高俳句会に参加した。運動も好きで漕艇部に属した。
明治38年9月、東京帝国大学法学部に入学。翌年、従妹の澤芳衛に求婚したが、芳衛の兄が、医学的にみて血族結婚は避けるべきだと反対した。酒に耽溺するようになった。
明治42年9月、東大を卒業。日本通信社に入社したが、1カ月ほどで退社。年末か、翌年の始めに東洋生命保険株式会社の契約課に就職することが決まった。
明治43年1月26日、坂垣馨(19歳)と結婚した。
大正10年(1921)、酒癖の悪さから退職を余儀なくされ、郷里に戻った。
大正11年4月、大学時代の友人の勧めで、朝鮮火災海上保険会社の支配人として赴任した。意欲的に仕事に取り組んだ。
大正12年、禁酒の約束を破ったとして罷免された。満州に行き再起を期したが、肋膜炎が悪化し、10月に帰国した。途中の船の中で、海に飛び込んで心中しようと妻に話したが断られた。11月、妻と別居して京都の修養団体・一燈園に入った。
大正13年3月、一燈園を出て、知恩院の常称院の寺男になった。6月、神戸の須磨寺大師堂の堂守になった。
大正14年3月、寺の内紛のため須磨寺を去り、4月、一燈園に戻った。5月、福井県小浜の常高寺の寺男になったが、寺の破産のため、7月、小浜を去った。8月、荻原井泉水の尽力により、小豆島の西光寺の南郷庵に入った。
大正15年3月、喉頭結核が進行し、食べ物が喉を通らなくなった。4月7日、痩せて骨と皮だけになって、尾崎放哉は南郷庵で亡くなった。享年42。
◎放哉の句
私の好きな放哉の句について自由に書きます。
(1)「つくづく淋しい我が影よ動かして見る」
〈私は部屋の中で一人で淋しく座っている。畳に孤独な私の影が映っている。私はその影を見る。その影も動かない。そして、実に淋しそうに見える。私は体を動かして、自分の影を少し動かしてみる。動けば、淋しさが薄らぐだろう。しかし、やはり淋しそうに見える。本体の私が淋しいのだから、私の影も同じように淋しいのだ〉
この句は、大正12年11月、満州から帰国し、妻と別居して、一人で一燈園に入った時期に作られました。一燈園での生活は、托鉢と奉仕の辛いものでした。放哉は孤独で淋しい境遇に耐えていましたが、やはり何か慰みが欲しかったのです。
(2)「一日物言はず蝶の影さす」
〈私は、朝から一人で大師堂に座って堂守をしていたが、今日は誰も来なかった。一人でいるのもいいが、こう淋しいのも辛いものだ。誰か来ないかな。夕方、西日が障子に当たっていた。その障子に小さな影がさした。見ると、それは蝶の影だった。蝶よ、孤独な私のところに挨拶に来てくれたんだね。ありがとう、ありがとう〉
この句は、大正13年6月から須磨寺大師堂の堂守をしていた時期に作られました。堂内での沈黙の生活はやはり淋しい。蝶の影が障子に映った。ほっとした。孤独を癒してくれる生き物たちへの感謝の気持ちがよく表現されています。
(3)「犬よちぎれるほど尾をふってくれる」
〈私は、本当は淋しがりやだ。孤独な生活の中に安心立命を求めている私だが、心の中には人恋しい淋しがりやの私もいるのだ。多くの人が、酒癖の悪い私をひどく嫌悪してきた。そして、私に寄り付かなくなった。しかし、私は人恋しい人間なのだ。犬よ、お前は、私の本心を知っているのだね。尻尾をちぎれるほど振って、私に親愛の情を示してくれている。ありがとう、ありがとう〉
これも須磨寺時代の作です。私は犬が大好きです。この句も大好きです。
(4)「咳をしても一人」
〈「ゴホン、ゴホン」。咳が止まらない。苦しい。私は庵中に一人で暮らしている。どんなに苦しく咳き込んでも、誰も心配してくれない。独居は気が楽だが、病気の時は本当に辛い〉
この句は、小豆島南郷庵時代に作られた放哉の代表作です。死の数カ月前から、彼は激しい咳の発作に苦しむようになりました。しかし、独居生活を続ける彼は、一人でじっと苦しみに耐えていたのでした。
たった9音に凝縮された究極の短句です。深い孤独感がひしひしと迫ってきます。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
Copyrightc2003-2024 Akai Newspaper dealer
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あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
◎尾崎放哉
先日、吉村昭の『海も暮れきる』(講談社)を読みました。読み終えた後、しばらくの間、私は深い感慨に耽りました。「どうして人間ってこんなに哀しい生き物なんだろう。どうして人間ってなかなか幸福になれないんだろう」と思い続けました。
これは、山頭火と並んで有名な自由律俳人・尾崎放哉の晩年を描いた伝記小説で、昭和55年(1980)に刊行されました。多くの人が読み、ほとんど知られていなかった放哉の名が広く知られるようになりました。出版と同時に買い求めてはいたのですが、長い間読んでいなかったのです。
読んでよかったと思いました。感動した私は、放哉に関する本を何冊か読みました。
作者の吉村昭は「あとがき」にこう書いています。
「(学習院旧制高等科に)入学して八カ月後、私は喀血し、肺疾患で絶対安静の身になった。病床で俳句を自然に読むようになったのは、眼に負担をかけぬためであった。句を読んでは眼を閉じ、そこに描かれた世界に身をひたす。重苦しい時間の流れが、それによって幾分かは癒された。そうした句の中で、私はいつの間にか尾崎放哉の句のみに親しむようになった。放哉が同じ結核患者であったという親近感と、それらの句が自分の内部に深くしみ入ってくるのを感じたからであった。放哉の孤独な息づかいが、私を激しく動かした。放哉も死んだのだから、自分が死を迎えるのも当然のことと受容すべきなのだ、と思ったりした。
放哉が小豆島の土を踏み、その地で死を迎えるまでの八カ月間のことを書きたかったが、それは、私が喀血し、手術を受けてようやく死から脱け出ることができた月日とほとんど合致している」
尾崎放哉とはどんな人だったのでしょうか。
〈尾崎放哉の略年譜〉
明治18年(1885)1月20日、鳥取県吉方町で生まれた。本名は尾崎秀雄。父・尾崎信三は士族で鳥取地方裁判所の書記官であった。
明治35年、鳥取県立第一中学校を卒業して、東京の第一高等学校文科に入学した。同級に安倍能成、藤村操、野上豊一郎、一年上級に荻原藤吉(井泉水)、阿部次郎がいた。俳句に興味を持っていたので、一高俳句会に参加した。運動も好きで漕艇部に属した。
明治38年9月、東京帝国大学法学部に入学。翌年、従妹の澤芳衛に求婚したが、芳衛の兄が、医学的にみて血族結婚は避けるべきだと反対した。酒に耽溺するようになった。
明治42年9月、東大を卒業。日本通信社に入社したが、1カ月ほどで退社。年末か、翌年の始めに東洋生命保険株式会社の契約課に就職することが決まった。
明治43年1月26日、坂垣馨(19歳)と結婚した。
大正10年(1921)、酒癖の悪さから退職を余儀なくされ、郷里に戻った。
大正11年4月、大学時代の友人の勧めで、朝鮮火災海上保険会社の支配人として赴任した。意欲的に仕事に取り組んだ。
大正12年、禁酒の約束を破ったとして罷免された。満州に行き再起を期したが、肋膜炎が悪化し、10月に帰国した。途中の船の中で、海に飛び込んで心中しようと妻に話したが断られた。11月、妻と別居して京都の修養団体・一燈園に入った。
大正13年3月、一燈園を出て、知恩院の常称院の寺男になった。6月、神戸の須磨寺大師堂の堂守になった。
大正14年3月、寺の内紛のため須磨寺を去り、4月、一燈園に戻った。5月、福井県小浜の常高寺の寺男になったが、寺の破産のため、7月、小浜を去った。8月、荻原井泉水の尽力により、小豆島の西光寺の南郷庵に入った。
大正15年3月、喉頭結核が進行し、食べ物が喉を通らなくなった。4月7日、痩せて骨と皮だけになって、尾崎放哉は南郷庵で亡くなった。享年42。
◎放哉の句
私の好きな放哉の句について自由に書きます。
(1)「つくづく淋しい我が影よ動かして見る」
〈私は部屋の中で一人で淋しく座っている。畳に孤独な私の影が映っている。私はその影を見る。その影も動かない。そして、実に淋しそうに見える。私は体を動かして、自分の影を少し動かしてみる。動けば、淋しさが薄らぐだろう。しかし、やはり淋しそうに見える。本体の私が淋しいのだから、私の影も同じように淋しいのだ〉
この句は、大正12年11月、満州から帰国し、妻と別居して、一人で一燈園に入った時期に作られました。一燈園での生活は、托鉢と奉仕の辛いものでした。放哉は孤独で淋しい境遇に耐えていましたが、やはり何か慰みが欲しかったのです。
(2)「一日物言はず蝶の影さす」
〈私は、朝から一人で大師堂に座って堂守をしていたが、今日は誰も来なかった。一人でいるのもいいが、こう淋しいのも辛いものだ。誰か来ないかな。夕方、西日が障子に当たっていた。その障子に小さな影がさした。見ると、それは蝶の影だった。蝶よ、孤独な私のところに挨拶に来てくれたんだね。ありがとう、ありがとう〉
この句は、大正13年6月から須磨寺大師堂の堂守をしていた時期に作られました。堂内での沈黙の生活はやはり淋しい。蝶の影が障子に映った。ほっとした。孤独を癒してくれる生き物たちへの感謝の気持ちがよく表現されています。
(3)「犬よちぎれるほど尾をふってくれる」
〈私は、本当は淋しがりやだ。孤独な生活の中に安心立命を求めている私だが、心の中には人恋しい淋しがりやの私もいるのだ。多くの人が、酒癖の悪い私をひどく嫌悪してきた。そして、私に寄り付かなくなった。しかし、私は人恋しい人間なのだ。犬よ、お前は、私の本心を知っているのだね。尻尾をちぎれるほど振って、私に親愛の情を示してくれている。ありがとう、ありがとう〉
これも須磨寺時代の作です。私は犬が大好きです。この句も大好きです。
(4)「咳をしても一人」
〈「ゴホン、ゴホン」。咳が止まらない。苦しい。私は庵中に一人で暮らしている。どんなに苦しく咳き込んでも、誰も心配してくれない。独居は気が楽だが、病気の時は本当に辛い〉
この句は、小豆島南郷庵時代に作られた放哉の代表作です。死の数カ月前から、彼は激しい咳の発作に苦しむようになりました。しかし、独居生活を続ける彼は、一人でじっと苦しみに耐えていたのでした。
たった9音に凝縮された究極の短句です。深い孤独感がひしひしと迫ってきます。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬