私は昨年の12月に『私の細井平洲論』を本にしましたが、そこで分かった新たな細井平洲論をここで書きます。細井平洲は儒教史上空前の思想家であることが分かりました。サブタイトルに「恕と忍びざる心で藩政改革を促した細井平洲─<衆の誠>がつくる<仁の里>」と付しましたが、これが「儒教史上空前の思想家」の中味です。衆とは民衆のことです。だから「衆の誠」は「民の誠」と同語。このことをじっくり書こうと思います。
 細井平洲の生没年は1728年(享保13)~ 1802年(享和2)です。江戸時代の中期から後期に至る時代で、本居宣長より少し前に生まれ、少し後に亡くなっています。この時代、幕府では享保の改革(1716~ 1745)と寛政の改革(1787~ 1793)がなされましたが、藩でも改革がすすめられ、財政再建・新田開発・殖産興業が起こされた時代です。生没年から見て細井平洲がこの藩政改革の時代の真ん中にいたことが分かりますが、思想的にも真ん中にいたのでした。
 細井平洲が藩政改革で活躍した藩は、弟子たちの活躍を含めれば伊予の西条藩、肥後の熊本藩、長門の長州藩、下総の佐倉藩、安房の勝山藩に及びますが、彼を一躍有名にしたのは山形の米沢藩上杉家の藩政改革です。
 この米沢藩の藩主は上杉鷹山です。彼は「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」の標語を残しています。この標語は一見すると豪腕の藩主のように思えますが、そうではありません。この標語は平洲の教えを自らに課したもので、農民からは聖君と親しまれています。そしてその聖君の先生の細井平洲は、「聖君の御師匠様」と称されています。
 細井平洲を知る上で格好の本は東海市教育委員会発行の『東海市民の誇り細井平洲』に掲載されています。ぜひお読みいただきたい。
 細井平洲の中心思想は「藩主民の父母論」(藩主は民の父母という思想)です。この思想こそが平洲をして儒教史上空前の思想家にしたと言って過言ではありません。
 江戸時代は封建制の時代でした。この時代、偉いのは将軍であり、藩主です。そしてこの将軍様や藩主様になれるのは、その血筋の者か養子縁組をした特別な人で、これ以外の人はどれだけ努力しても叶いません。身分の差は絶対ですので。今日の民主主義の世の中とは違っています。
 この選民の藩主が藩民のことを思わず、私利私欲の自己中心で政り事をやっておれば、国土は荒れ国は乱れます。民から道徳心が失われてしまいます。これではいけません。藩主は民の父母を自覚して藩政に携わるべきだ。これが平洲の「藩主民の父母論」です。儒教は論語をはじめ聖人の思想を伝えていますが、この思想こそが儒教の聖人の思想だと。
 封建制の典型は武断政治です。民を牛馬のごとく働かせて搾り取る。暴力で脅して。苛カ斂誅求とも言います。しかし農民は牛馬ではありません。やがて暴力を畏れず服さなくなります。となれば藩は衰退します。それに幕藩体制の安定は文化を育み出費を多くさせます。武断政治に固執する藩と儒教の聖人の思想に則った藩との差は歴然となります。一方は赤字に苦しむ藩に、他方は農民のやる気を引きだし豊かな藩に。前者の典型は米沢藩の上杉家、後者の典型は尾張藩の徳川家という具合でした。
 細井平洲の「藩主民の父母論」はこうした改革の思想として生み出されたのでした。
(次号に続く)
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 私は昨年の12月に『私の細井平洲論』を本にしましたが、そこで分かった新たな細井平洲論をここで書きます。細井平洲は儒教史上空前の思想家であることが分かりました。サブタイトルに「恕と忍びざる心で藩政改革を促した細井平洲─<衆の誠>がつくる<仁の里>」と付しましたが、これが「儒教史上空前の思想家」の中味です。衆とは民衆のことです。だから「衆の誠」は「民の誠」と同語。このことをじっくり書こうと思います。
 細井平洲の生没年は1728年(享保13)~ 1802年(享和2)です。江戸時代の中期から後期に至る時代で、本居宣長より少し前に生まれ、少し後に亡くなっています。この時代、幕府では享保の改革(1716~ 1745)と寛政の改革(1787~ 1793)がなされましたが、藩でも改革がすすめられ、財政再建・新田開発・殖産興業が起こされた時代です。生没年から見て細井平洲がこの藩政改革の時代の真ん中にいたことが分かりますが、思想的にも真ん中にいたのでした。
 細井平洲が藩政改革で活躍した藩は、弟子たちの活躍を含めれば伊予の西条藩、肥後の熊本藩、長門の長州藩、下総の佐倉藩、安房の勝山藩に及びますが、彼を一躍有名にしたのは山形の米沢藩上杉家の藩政改革です。
 この米沢藩の藩主は上杉鷹山です。彼は「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」の標語を残しています。この標語は一見すると豪腕の藩主のように思えますが、そうではありません。この標語は平洲の教えを自らに課したもので、農民からは聖君と親しまれています。そしてその聖君の先生の細井平洲は、「聖君の御師匠様」と称されています。
 細井平洲を知る上で格好の本は東海市教育委員会発行の『東海市民の誇り細井平洲』に掲載されています。ぜひお読みいただきたい。
 細井平洲の中心思想は「藩主民の父母論」(藩主は民の父母という思想)です。この思想こそが平洲をして儒教史上空前の思想家にしたと言って過言ではありません。
 江戸時代は封建制の時代でした。この時代、偉いのは将軍であり、藩主です。そしてこの将軍様や藩主様になれるのは、その血筋の者か養子縁組をした特別な人で、これ以外の人はどれだけ努力しても叶いません。身分の差は絶対ですので。今日の民主主義の世の中とは違っています。
 この選民の藩主が藩民のことを思わず、私利私欲の自己中心で政り事をやっておれば、国土は荒れ国は乱れます。民から道徳心が失われてしまいます。これではいけません。藩主は民の父母を自覚して藩政に携わるべきだ。これが平洲の「藩主民の父母論」です。儒教は論語をはじめ聖人の思想を伝えていますが、この思想こそが儒教の聖人の思想だと。
 封建制の典型は武断政治です。民を牛馬のごとく働かせて搾り取る。暴力で脅して。苛カ斂誅求とも言います。しかし農民は牛馬ではありません。やがて暴力を畏れず服さなくなります。となれば藩は衰退します。それに幕藩体制の安定は文化を育み出費を多くさせます。武断政治に固執する藩と儒教の聖人の思想に則った藩との差は歴然となります。一方は赤字に苦しむ藩に、他方は農民のやる気を引きだし豊かな藩に。前者の典型は米沢藩の上杉家、後者の典型は尾張藩の徳川家という具合でした。
 細井平洲の「藩主民の父母論」はこうした改革の思想として生み出されたのでした。
(次号に続く)
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 私は昨年の12月に『私の細井平洲論』を本にしましたが、そこで分かった新たな細井平洲論をここで書きます。細井平洲は儒教史上空前の思想家であることが分かりました。サブタイトルに「恕と忍びざる心で藩政改革を促した細井平洲─<衆の誠>がつくる<仁の里>」と付しましたが、これが「儒教史上空前の思想家」の中味です。衆とは民衆のことです。だから「衆の誠」は「民の誠」と同語。このことをじっくり書こうと思います。
 細井平洲の生没年は1728年(享保13)~ 1802年(享和2)です。江戸時代の中期から後期に至る時代で、本居宣長より少し前に生まれ、少し後に亡くなっています。この時代、幕府では享保の改革(1716~ 1745)と寛政の改革(1787~ 1793)がなされましたが、藩でも改革がすすめられ、財政再建・新田開発・殖産興業が起こされた時代です。生没年から見て細井平洲がこの藩政改革の時代の真ん中にいたことが分かりますが、思想的にも真ん中にいたのでした。
 細井平洲が藩政改革で活躍した藩は、弟子たちの活躍を含めれば伊予の西条藩、肥後の熊本藩、長門の長州藩、下総の佐倉藩、安房の勝山藩に及びますが、彼を一躍有名にしたのは山形の米沢藩上杉家の藩政改革です。
 この米沢藩の藩主は上杉鷹山です。彼は「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」の標語を残しています。この標語は一見すると豪腕の藩主のように思えますが、そうではありません。この標語は平洲の教えを自らに課したもので、農民からは聖君と親しまれています。そしてその聖君の先生の細井平洲は、「聖君の御師匠様」と称されています。
 細井平洲を知る上で格好の本は東海市教育委員会発行の『東海市民の誇り細井平洲』に掲載されています。ぜひお読みいただきたい。
 細井平洲の中心思想は「藩主民の父母論」(藩主は民の父母という思想)です。この思想こそが平洲をして儒教史上空前の思想家にしたと言って過言ではありません。
 江戸時代は封建制の時代でした。この時代、偉いのは将軍であり、藩主です。そしてこの将軍様や藩主様になれるのは、その血筋の者か養子縁組をした特別な人で、これ以外の人はどれだけ努力しても叶いません。身分の差は絶対ですので。今日の民主主義の世の中とは違っています。
 この選民の藩主が藩民のことを思わず、私利私欲の自己中心で政り事をやっておれば、国土は荒れ国は乱れます。民から道徳心が失われてしまいます。これではいけません。藩主は民の父母を自覚して藩政に携わるべきだ。これが平洲の「藩主民の父母論」です。儒教は論語をはじめ聖人の思想を伝えていますが、この思想こそが儒教の聖人の思想だと。
 封建制の典型は武断政治です。民を牛馬のごとく働かせて搾り取る。暴力で脅して。苛カ斂誅求とも言います。しかし農民は牛馬ではありません。やがて暴力を畏れず服さなくなります。となれば藩は衰退します。それに幕藩体制の安定は文化を育み出費を多くさせます。武断政治に固執する藩と儒教の聖人の思想に則った藩との差は歴然となります。一方は赤字に苦しむ藩に、他方は農民のやる気を引きだし豊かな藩に。前者の典型は米沢藩の上杉家、後者の典型は尾張藩の徳川家という具合でした。
 細井平洲の「藩主民の父母論」はこうした改革の思想として生み出されたのでした。
(次号に続く)