◎4人の作曲家
   私がよく聴く作曲家は、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナー、ブラームスの6人です。彼らは数多くの魅力的な曲を作っているので、私の音楽鑑賞の時間はこの6人で一杯になり、他の作曲家たちが入る余地はほとんどありません。
 6人以外で時々無性に聴きたくなる作曲家たちがいます。コレッリ、ボロディン、ラフマニノフ、バルトークの4人です。彼らは、本当に素晴らしい音楽を多く作りました。

(1)コレッリ
 この魅力的な作曲家と出会ったのは、ほんの10年ほど前のことです。
 中古の電気器具を扱っている店で、私は『ザ・クラシック・コレクション』というCDの音楽全集を見つけました。実際の作品を聴きながら西洋音楽の歴史を学ぶのも面白いと思い、まず初めに10枚買いました。1枚100円でした。作曲者や作品の選択も良く、演奏もまずまずでした。毎週10枚ずつ買い、全部で140枚ほどになりました。不思議に思った店員が「どうしてそんなに買うのですか」と尋ねました。私は「素敵な作品に出会えるかも知れないからですよ」と答えました。
 その中に、コレッリの作品を集めたものが1枚ありました。
 コレッリ(コレルリとも表記する)は、バッハより30年ほど前にイタリアで生まれた音楽家です。1653年に生まれ、1713年に60歳で亡くなっています。『クリスマス協奏曲』は聴いていましたが、その他の曲を聴いたことはありませんでした。
 買ってきたCDには『トリオ・ソナタ』が2曲、『合奏協奏曲』が3曲、そして『ヴァイオリン・ソナタ《ラ・フォリア》』が1曲、収録されていました。
 あまり期待せずに聴き始めました。『ヴァイオリン・ソナタ《ラ・フォリア》』の、やや哀愁を帯びた音楽が流れて来ました。バッハに似ているな、と思いました。気品があり格調が高いのです。私は、コレッリにすっかり魅了されてしまいました。
(2)ボロディン
 アメリカの大リーグで活躍している大谷翔平選手は「二刀流」で有名です。投手としても優秀である上に、さらに打者としても超一流です。昨年度、日本人初の本塁打王になりました。さらに、満票でMVP(最優秀選手)にも選ばれました。
 ロシアの化学者で作曲家のボロディン(1833~1887)は、大谷選手の上を行く「二刀流」の偉大な人でした。大谷選手は、野球という一つの世界の中で「投手」と「打者」として活躍していますが、ボロディンは「化学」と「音楽」という全く異なった二つの世界で不滅の業績を残したのです。
 ボロディンの作品では、交響詩『中央アジアの草原にて』、『交響曲第2番』、『弦楽四重奏曲第2番』が特に有名です。私は、彼の曲はどれも大好きです。
 ボロディンは「五人組」の一人でした。これは、1860年代に民族主義作曲家パラキレフを中心にして結成されたグループの名称です。化学者のボロディン、陸軍士官から官吏に転身したムソルグスキー、築城学の専門家であったキュイ、海軍士官であったリムスキー=コルサコフといった音楽を愛好する教養のある人材が集まりました。
 幼い頃から、ボロディンは音楽と共に化学に異常なほどの興味を示しました。彼は、ペテルブルグ医科大学で学び、ドイツとイタリアに留学した後、31歳で母校の教授になりました。そして、54歳で死ぬまで、研究に励み、後進の指導に当たっていました。
 極めて多忙な研究生活を送りながら、音楽への関心を抱き続け、「重大な職務からの息抜き」として、趣味で作曲をしていました。
 1877年、44歳のボロディンは、医大の若い研究者の留学に付き添ってドイツに行きました。そして、ワイマールの町にいた大音楽家のリストを訪問しました。リストは彼を温かく迎え、彼の作品を高く評価し、このまま自分の道を進むべきだと激励しました。
 3週間をリストと過ごしたボロディンは、3年後、交響詩『中央アジアの草原にて』を作曲しました。彼は、この交響詩にリストに対する献辞を付けました。
(3)ラフマニノフ
 ロシアの作曲家ラフマニノフ(1873~1943)の代表作は、『ピアノ協奏曲第2番』です。そして、この名曲を実に効果的に使った英国映画『逢びき』は、映画史上に燦然と輝く名作です。『逢びき』は1945年に製作され、日本では3年後の1948年に上映されました。監督は『アラビアのロレンス』などの傑作を作った名匠デヴィド・リーンです。作家の藤沢周平が最も好きだった映画で、私も大好きです。
 平凡な主婦と医師との間のはかない恋を描いたものですが、多くの場面でこのラフマニノフの協奏曲が使われています。映画の内容にぴったりで、観る者の心を揺さぶります。
 『ピアノ協奏曲第2番』の誕生には大きなドラマがありました。新進作曲家のラフマニノフは、1899年、26歳の時にピアノ協奏曲の作曲を依頼されました。ところが、当時、彼はひどいノイローゼに罹っていて、創作どころか、他の活動もできませんでした。しかし、翌年の5月、モスクワの精神科医ニコライ・ダール博士の催眠暗示療法によって回復しました。作曲活動を再開し、1901年に『ピアノ協奏曲第2番』を完成させました。初演は、10月に作曲者自身のピアノ独奏で行われました。この名曲は、肉体的、精神的危機を救ってくれたダール博士に捧げられました。

(4)バルトーク
 ハンガリーが生んだ20世紀最大の作曲家バルトーク(1881~1945)は、静かな自然をこよなく愛していました。樹木や草花を愛し、動物や鳥を愛していました。ファセット著・野水瑞穂訳『バルトーク晩年の悲劇』(みすず書房)によると、バルトークはよくこう言っていたそうです。
 「私の本能は、野生の動物に密接な関係があるんだ。野生の動物が傷ついた時の唯一の望みは、生い茂った密林の奥深く、道を遥かに外れた場所を見つけ、そこで何も耳に届かない静寂に包まれ、慣れ親しんだ棲み家にいるという安心感のただ中で、来るべき終焉を待つことなんだよ」
 ナチス・ドイツに反発する言動を積極的に行ったために迫害された彼は、1940年にアメリカに亡命しました。そして、異国で苦難の日々を送るうちに、1943年2月、白血病に罹りました。やがて少し回復したので、彼は『管弦楽のための協奏曲』や『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ』を作りました。世界大戦が終わった1945年9月、彼の健康は急速に悪化し、9月26日にニューヨークの病院で亡くなりました。享年64。
 死を前にして、彼は看護婦に輸血を中止するように頼みました。野生の動物のように少しでも自然に死んで行きたかったのでしょう。
 彼の曲では、3曲ある『ピアノ協奏曲』をよく聴きます。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
元気の出てくることばたち
ちょっとおじゃまします
この指とまれ
PDFインデックス
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あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
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■元気の出てくることばたち
◎4人の作曲家
 私がよく聴く作曲家は、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナー、ブラームスの6人です。彼らは数多くの魅力的な曲を作っているので、私の音楽鑑賞の時間はこの6人で一杯になり、他の作曲家たちが入る余地はほとんどありません。
 6人以外で時々無性に聴きたくなる作曲家たちがいます。コレッリ、ボロディン、ラフマニノフ、バルトークの4人です。彼らは、本当に素晴らしい音楽を多く作りました。

(1)コレッリ
 この魅力的な作曲家と出会ったのは、ほんの10年ほど前のことです。
 中古の電気器具を扱っている店で、私は『ザ・クラシック・コレクション』というCDの音楽全集を見つけました。実際の作品を聴きながら西洋音楽の歴史を学ぶのも面白いと思い、まず初めに10枚買いました。1枚100円でした。作曲者や作品の選択も良く、演奏もまずまずでした。毎週10枚ずつ買い、全部で140枚ほどになりました。不思議に思った店員が「どうしてそんなに買うのですか」と尋ねました。私は「素敵な作品に出会えるかも知れないからですよ」と答えました。
 その中に、コレッリの作品を集めたものが1枚ありました。
 コレッリ(コレルリとも表記する)は、バッハより30年ほど前にイタリアで生まれた音楽家です。1653年に生まれ、1713年に60歳で亡くなっています。『クリスマス協奏曲』は聴いていましたが、その他の曲を聴いたことはありませんでした。
 買ってきたCDには『トリオ・ソナタ』が2曲、『合奏協奏曲』が3曲、そして『ヴァイオリン・ソナタ《ラ・フォリア》』が1曲、収録されていました。
 あまり期待せずに聴き始めました。『ヴァイオリン・ソナタ《ラ・フォリア》』の、やや哀愁を帯びた音楽が流れて来ました。バッハに似ているな、と思いました。気品があり格調が高いのです。私は、コレッリにすっかり魅了されてしまいました。

(2)ボロディン
 アメリカの大リーグで活躍している大谷翔平選手は「二刀流」で有名です。投手としても優秀である上に、さらに打者としても超一流です。昨年度、日本人初の本塁打王になりました。さらに、満票でMVP(最優秀選手)にも選ばれました。
 ロシアの化学者で作曲家のボロディン(1833~1887)は、大谷選手の上を行く「二刀流」の偉大な人でした。大谷選手は、野球という一つの世界の中で「投手」と「打者」として活躍していますが、ボロディンは「化学」と「音楽」という全く異なった二つの世界で不滅の業績を残したのです。
 ボロディンの作品では、交響詩『中央アジアの草原にて』、『交響曲第2番』、『弦楽四重奏曲第2番』が特に有名です。私は、彼の曲はどれも大好きです。
 ボロディンは「五人組」の一人でした。これは、1860年代に民族主義作曲家パラキレフを中心にして結成されたグループの名称です。化学者のボロディン、陸軍士官から官吏に転身したムソルグスキー、築城学の専門家であったキュイ、海軍士官であったリムスキー=コルサコフといった音楽を愛好する教養のある人材が集まりました。
 幼い頃から、ボロディンは音楽と共に化学に異常なほどの興味を示しました。彼は、ペテルブルグ医科大学で学び、ドイツとイタリアに留学した後、31歳で母校の教授になりました。そして、54歳で死ぬまで、研究に励み、後進の指導に当たっていました。
 極めて多忙な研究生活を送りながら、音楽への関心を抱き続け、「重大な職務からの息抜き」として、趣味で作曲をしていました。
 1877年、44歳のボロディンは、医大の若い研究者の留学に付き添ってドイツに行きました。そして、ワイマールの町にいた大音楽家のリストを訪問しました。リストは彼を温かく迎え、彼の作品を高く評価し、このまま自分の道を進むべきだと激励しました。
 3週間をリストと過ごしたボロディンは、3年後、交響詩『中央アジアの草原にて』を作曲しました。彼は、この交響詩にリストに対する献辞を付けました。

(3)ラフマニノフ
 ロシアの作曲家ラフマニノフ(1873~1943)の代表作は、『ピアノ協奏曲第2番』です。そして、この名曲を実に効果的に使った英国映画『逢びき』は、映画史上に燦然と輝く名作です。『逢びき』は1945年に製作され、日本では3年後の1948年に上映されました。監督は『アラビアのロレンス』などの傑作を作った名匠デヴィド・リーンです。作家の藤沢周平が最も好きだった映画で、私も大好きです。
 平凡な主婦と医師との間のはかない恋を描いたものですが、多くの場面でこのラフマニノフの協奏曲が使われています。映画の内容にぴったりで、観る者の心を揺さぶります。
 『ピアノ協奏曲第2番』の誕生には大きなドラマがありました。新進作曲家のラフマニノフは、1899年、26歳の時にピアノ協奏曲の作曲を依頼されました。ところが、当時、彼はひどいノイローゼに罹っていて、創作どころか、他の活動もできませんでした。しかし、翌年の5月、モスクワの精神科医ニコライ・ダール博士の催眠暗示療法によって回復しました。作曲活動を再開し、1901年に『ピアノ協奏曲第2番』を完成させました。初演は、10月に作曲者自身のピアノ独奏で行われました。この名曲は、肉体的、精神的危機を救ってくれたダール博士に捧げられました。

(4)バルトーク
 ハンガリーが生んだ20世紀最大の作曲家バルトーク(1881~1945)は、静かな自然をこよなく愛していました。樹木や草花を愛し、動物や鳥を愛していました。ファセット著・野水瑞穂訳『バルトーク晩年の悲劇』(みすず書房)によると、バルトークはよくこう言っていたそうです。
 「私の本能は、野生の動物に密接な関係があるんだ。野生の動物が傷ついた時の唯一の望みは、生い茂った密林の奥深く、道を遥かに外れた場所を見つけ、そこで何も耳に届かない静寂に包まれ、慣れ親しんだ棲み家にいるという安心感のただ中で、来るべき終焉を待つことなんだよ」
 ナチス・ドイツに反発する言動を積極的に行ったために迫害された彼は、1940年にアメリカに亡命しました。そして、異国で苦難の日々を送るうちに、1943年2月、白血病に罹りました。やがて少し回復したので、彼は『管弦楽のための協奏曲』や『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ』を作りました。世界大戦が終わった1945年9月、彼の健康は急速に悪化し、9月26日にニューヨークの病院で亡くなりました。享年64。
 死を前にして、彼は看護婦に輸血を中止するように頼みました。野生の動物のように少しでも自然に死んで行きたかったのでしょう。
 彼の曲では、3曲ある『ピアノ協奏曲』をよく聴きます。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
Copyrightc2003-2024 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
あかい新聞店・常滑店
新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
あかい新聞店・武豊店
電話:0569-72-0356
◎4人の作曲家
 私がよく聴く作曲家は、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブルックナー、ブラームスの6人です。彼らは数多くの魅力的な曲を作っているので、私の音楽鑑賞の時間はこの6人で一杯になり、他の作曲家たちが入る余地はほとんどありません。
 6人以外で時々無性に聴きたくなる作曲家たちがいます。コレッリ、ボロディン、ラフマニノフ、バルトークの4人です。彼らは、本当に素晴らしい音楽を多く作りました。

(1)コレッリ
 この魅力的な作曲家と出会ったのは、ほんの10年ほど前のことです。
 中古の電気器具を扱っている店で、私は『ザ・クラシック・コレクション』というCDの音楽全集を見つけました。実際の作品を聴きながら西洋音楽の歴史を学ぶのも面白いと思い、まず初めに10枚買いました。1枚100円でした。作曲者や作品の選択も良く、演奏もまずまずでした。毎週10枚ずつ買い、全部で140枚ほどになりました。不思議に思った店員が「どうしてそんなに買うのですか」と尋ねました。私は「素敵な作品に出会えるかも知れないからですよ」と答えました。
 その中に、コレッリの作品を集めたものが1枚ありました。
 コレッリ(コレルリとも表記する)は、バッハより30年ほど前にイタリアで生まれた音楽家です。1653年に生まれ、1713年に60歳で亡くなっています。『クリスマス協奏曲』は聴いていましたが、その他の曲を聴いたことはありませんでした。
 買ってきたCDには『トリオ・ソナタ』が2曲、『合奏協奏曲』が3曲、そして『ヴァイオリン・ソナタ《ラ・フォリア》』が1曲、収録されていました。
 あまり期待せずに聴き始めました。『ヴァイオリン・ソナタ《ラ・フォリア》』の、やや哀愁を帯びた音楽が流れて来ました。バッハに似ているな、と思いました。気品があり格調が高いのです。私は、コレッリにすっかり魅了されてしまいました。

(2)ボロディン
 アメリカの大リーグで活躍している大谷翔平選手は「二刀流」で有名です。投手としても優秀である上に、さらに打者としても超一流です。昨年度、日本人初の本塁打王になりました。さらに、満票でMVP(最優秀選手)にも選ばれました。
 ロシアの化学者で作曲家のボロディン(1833~1887)は、大谷選手の上を行く「二刀流」の偉大な人でした。大谷選手は、野球という一つの世界の中で「投手」と「打者」として活躍していますが、ボロディンは「化学」と「音楽」という全く異なった二つの世界で不滅の業績を残したのです。
 ボロディンの作品では、交響詩『中央アジアの草原にて』、『交響曲第2番』、『弦楽四重奏曲第2番』が特に有名です。私は、彼の曲はどれも大好きです。
 ボロディンは「五人組」の一人でした。これは、1860年代に民族主義作曲家パラキレフを中心にして結成されたグループの名称です。化学者のボロディン、陸軍士官から官吏に転身したムソルグスキー、築城学の専門家であったキュイ、海軍士官であったリムスキー=コルサコフといった音楽を愛好する教養のある人材が集まりました。
 幼い頃から、ボロディンは音楽と共に化学に異常なほどの興味を示しました。彼は、ペテルブルグ医科大学で学び、ドイツとイタリアに留学した後、31歳で母校の教授になりました。そして、54歳で死ぬまで、研究に励み、後進の指導に当たっていました。
 極めて多忙な研究生活を送りながら、音楽への関心を抱き続け、「重大な職務からの息抜き」として、趣味で作曲をしていました。
 1877年、44歳のボロディンは、医大の若い研究者の留学に付き添ってドイツに行きました。そして、ワイマールの町にいた大音楽家のリストを訪問しました。リストは彼を温かく迎え、彼の作品を高く評価し、このまま自分の道を進むべきだと激励しました。
 3週間をリストと過ごしたボロディンは、3年後、交響詩『中央アジアの草原にて』を作曲しました。彼は、この交響詩にリストに対する献辞を付けました。

(3)ラフマニノフ
 ロシアの作曲家ラフマニノフ(1873~1943)の代表作は、『ピアノ協奏曲第2番』です。そして、この名曲を実に効果的に使った英国映画『逢びき』は、映画史上に燦然と輝く名作です。『逢びき』は1945年に製作され、日本では3年後の1948年に上映されました。監督は『アラビアのロレンス』などの傑作を作った名匠デヴィド・リーンです。作家の藤沢周平が最も好きだった映画で、私も大好きです。
 平凡な主婦と医師との間のはかない恋を描いたものですが、多くの場面でこのラフマニノフの協奏曲が使われています。映画の内容にぴったりで、観る者の心を揺さぶります。
 『ピアノ協奏曲第2番』の誕生には大きなドラマがありました。新進作曲家のラフマニノフは、1899年、26歳の時にピアノ協奏曲の作曲を依頼されました。ところが、当時、彼はひどいノイローゼに罹っていて、創作どころか、他の活動もできませんでした。しかし、翌年の5月、モスクワの精神科医ニコライ・ダール博士の催眠暗示療法によって回復しました。作曲活動を再開し、1901年に『ピアノ協奏曲第2番』を完成させました。初演は、10月に作曲者自身のピアノ独奏で行われました。この名曲は、肉体的、精神的危機を救ってくれたダール博士に捧げられました。

(4)バルトーク
 ハンガリーが生んだ20世紀最大の作曲家バルトーク(1881~1945)は、静かな自然をこよなく愛していました。樹木や草花を愛し、動物や鳥を愛していました。ファセット著・野水瑞穂訳『バルトーク晩年の悲劇』(みすず書房)によると、バルトークはよくこう言っていたそうです。
 「私の本能は、野生の動物に密接な関係があるんだ。野生の動物が傷ついた時の唯一の望みは、生い茂った密林の奥深く、道を遥かに外れた場所を見つけ、そこで何も耳に届かない静寂に包まれ、慣れ親しんだ棲み家にいるという安心感のただ中で、来るべき終焉を待つことなんだよ」
 ナチス・ドイツに反発する言動を積極的に行ったために迫害された彼は、1940年にアメリカに亡命しました。そして、異国で苦難の日々を送るうちに、1943年2月、白血病に罹りました。やがて少し回復したので、彼は『管弦楽のための協奏曲』や『無伴奏ヴァイオリン・ソナタ』を作りました。世界大戦が終わった1945年9月、彼の健康は急速に悪化し、9月26日にニューヨークの病院で亡くなりました。享年64。
 死を前にして、彼は看護婦に輸血を中止するように頼みました。野生の動物のように少しでも自然に死んで行きたかったのでしょう。
 彼の曲では、3曲ある『ピアノ協奏曲』をよく聴きます。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬