◎柳田国男
先日、岡谷公二著『柳田国男の青春』(筑摩叢書)を読みました。30年ほど前に買った本です。興味深いことがいろいろ書いてあって、私は多くのことを学びました。
柳田国男は、『遠野物語』『山の人生』『桃太郎の誕生』『笑の本願』『海上の道』などを書いた偉大な民俗学者として知られています。しかし、若い学生時代には、短歌や新体詩を書く新進の歌人・詩人として活躍していました。そして、多くの文学者と交際しており、特に森鴎外、田山花袋、国木田独歩、島崎藤村、泉鏡花との結び付きは非常に深いものでした。
『柳田国男の青春』には、文学の世界から足を洗って、新しく民俗学を打ち立てようと決心するまでの柳田国男の青春時代が詳しく描かれています。
柳田国男(養嗣子になる前の氏名は松岡国男)の経歴は次のようなものです。
明治8年(1875)7月31日、兵庫県田原村辻川で生まれた。父・松岡操は医者で漢学者で神官だった。高等小学校は卒業したが、病身のため上の学校に進まなかった。
明治20年、長兄の鼎が茨城県の布川町で医院を開業したので、長兄の家に寄寓することになった。乱読で日を送った。明治22年、父母と二人の弟が、兵庫から出て来て、長兄の家に住むようになった。翌年、15歳の国男は、東京に住む次兄・通泰の家に同居した。そして、兄の友人・森鴎外の知遇を得た。また、田山花袋と深い交際を始めた。
明治24年、高等学校に入る資格を得るために開成中学などで学んだ。翌年の9月、第一高等学校に入学。明治28年、島崎藤村、国木田独歩との交際が始まった。明治30年、国木田独歩や田山花袋らと新体詩集『抒情詩』を出版した。7月、一高を卒業し、9月、東京帝国大学法科大学政治科に入学。明治33年、東大を卒業し、農商務省農務局に入った。産業組合運動を進めた。翌年、大審院判事・柳田直平の養嗣子になった。明治37年、柳田直平の四女・孝と結婚。明治43年、5月に『石神問答』、6月に『遠野物語』を刊行した。翌年の3月、博物学者の南方熊楠との文通が始まった。
大正3年(1914)、貴族院書記官長になった。大正8年、書記官長を辞任した。昭和22年(1947)、芸術院会員になった。昭和26年11月、文化勲章を受章した。昭和36年7月、『海上の道』を刊行。昭和37年1月、筑摩書房版『定本柳田国男集』(全31巻別巻5)の刊行が始まった。8月8日、心臓衰弱のために死去。享年87。
以下、柳田国男と二人の偉大な文学者との交際について簡単に紹介します。
(1)森鴎外
ドイツ留学から帰朝した森鴎外は、明治22年(1889)に、井上通泰、落合直文、妹の小金井喜美子、弟の篤次郎らと共に、文学評論誌『しがらみ草紙』を創刊した。
当時、柳田国男の次兄・井上通泰は、東大医学部に在籍中で、医学よりも和歌と柔道に熱心な学生だった。森鴎外の親友であった賀古鶴所の弟・桃次が、医学部の一年後輩で、本郷の下宿で一緒に暮らしたことがあった。そんな関係から、通泰は、桃次の兄の鶴所とも親しくなり、やがて鴎外とも親しくなった。
鴎外や次兄らが創刊した『しがらみ草紙』の第2号に、15歳の国男の和歌が載った。
「夕がらす/ねぐら求むる/山寺の/軒に干すなり/墨染の袖」
国男が鴎外の面識を得たのは、明治23年に上京して、次兄の家に住むようになった時からであった。「その頃、兄が東京に出て開業しており、私もそこにいたものですから、私は鴎外さんのところへ使いにやられたんです」
当時、森鴎外は28歳で、1月には『国民之友』に「舞姫」を、8月には『しがらみ草紙』に「うたかたの記」を発表して、文壇に華々しく登場していた。
3年後の明治26年、次兄の通泰は、姫路県立姫路病院に赴任することになった。
「鴎外さんの所へ親しく伺うようになったのは、兄が姫路に赴任してからだった。兄が私のことを、鴎外さんに頼んでいったのである。それからよく出掛けていろいろ教えてもらった」
明治32年、鴎外は第十二師団軍医部長として小倉に赴任した。それ以降、国男と鴎外との関係は疎遠になって行った。
柳田国男は、後年、こう語っている。「不思議なことに、私は鴎外さんに大変可愛がられたんです。訪ねて行くと、お菓子を出したり、いろいろ親切にしてくれて、私が興味を持っている方に話を進めてくれました。『何か読んでいるかい』と言われるから、『こういうものを読みたいと思っています』と言うと、『あすこにあるから、持って行きなさい』と言われたり、私も勉強を始めたばかりですから、そんなことなどが文学を始める一つの原因になったのでしょうね」
柳田国男は、死ぬまで、森鴎外に対して「特に熱烈なる崇敬」を捧げていた。
(2)島崎藤村
明治28 年、国男の遠い親戚で7歳年上の中川恭次郎が住んでいた家が、同人雑誌『文学界』の発行所になった。一高生だった国男は、中川の家に出入りするうち、島崎藤村らと知り合い、親しく交遊するようになった。国男は、近くに住んでいた3歳年上の藤村の家を頻繁に訪れた。二人の共通の友人だった田山花袋は、こう書いている。
「柳田君は白い縞の袴をはいて、興奮した表情をして、よく出掛けて行っては、詩や恋や宗教の話をした」 国男は藤村から強い刺激を受け、やがて新体詩を書き始めた。次のようなロマンティックな新体詩を書いて発表していた。
「あしびきの山のあららぎ/ただ一もと摘みてもて来て/我妹子が袂に入れし/足引のやまのあららぎ/今も尚さやかに匂ふ/あな嬉し未だ我をば/忘れたまはじ」
椰子の実のエピソードはよく知られているが、ここでも、二人の友情から生まれたものとしてどうしても書いておく必要があるだろう。
明治31年8月、東大生であった国男は、愛知県の渥美半島の伊良湖崎に滞在していたが、浜辺に漂着した椰子の実を一つ見つけた。そのことを友人の藤村に話した。この話に触発されて、藤村は有名な「椰子の実」の詩を作った。
「名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実一つ。故郷の岸を離れて/汝はそも波に幾月。旧の樹は生いや茂れる/枝はなお影をやなせる。われもまた渚を枕/独り身の浮寝の旅ぞ。(中略)思いやる八重の潮々/いずれの日にか国に帰らん」
明治33年、柳田国男は東大を卒業して農商務省農務局に勤務した。その頃から、彼は詩を作ることを全くしなくなった。
詩人としての才能に恵まれていたが、彼は、詩の世界から離れ、未開拓だった民俗学の世界へと突入するのであった。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
Copyrightc2003-2024 Akai Newspaper dealer
プライバシーポリシー
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新聞■折込広告取扱■求人情報■ちたろまん■中部国際空港配送業務
電話:0569-35-2861
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◎柳田国男
先日、岡谷公二著『柳田国男の青春』(筑摩叢書)を読みました。30年ほど前に買った本です。興味深いことがいろいろ書いてあって、私は多くのことを学びました。
柳田国男は、『遠野物語』『山の人生』『桃太郎の誕生』『笑の本願』『海上の道』などを書いた偉大な民俗学者として知られています。しかし、若い学生時代には、短歌や新体詩を書く新進の歌人・詩人として活躍していました。そして、多くの文学者と交際しており、特に森鴎外、田山花袋、国木田独歩、島崎藤村、泉鏡花との結び付きは非常に深いものでした。
『柳田国男の青春』には、文学の世界から足を洗って、新しく民俗学を打ち立てようと決心するまでの柳田国男の青春時代が詳しく描かれています。
柳田国男(養嗣子になる前の氏名は松岡国男)の経歴は次のようなものです。
明治8年(1875)7月31日、兵庫県田原村辻川で生まれた。父・松岡操は医者で漢学者で神官だった。高等小学校は卒業したが、病身のため上の学校に進まなかった。
明治20年、長兄の鼎が茨城県の布川町で医院を開業したので、長兄の家に寄寓することになった。乱読で日を送った。明治22年、父母と二人の弟が、兵庫から出て来て、長兄の家に住むようになった。翌年、15歳の国男は、東京に住む次兄・通泰の家に同居した。そして、兄の友人・森鴎外の知遇を得た。また、田山花袋と深い交際を始めた。
明治24年、高等学校に入る資格を得るために開成中学などで学んだ。翌年の9月、第一高等学校に入学。明治28年、島崎藤村、国木田独歩との交際が始まった。明治30年、国木田独歩や田山花袋らと新体詩集『抒情詩』を出版した。7月、一高を卒業し、9月、東京帝国大学法科大学政治科に入学。明治33年、東大を卒業し、農商務省農務局に入った。産業組合運動を進めた。翌年、大審院判事・柳田直平の養嗣子になった。明治37年、柳田直平の四女・孝と結婚。明治43年、5月に『石神問答』、6月に『遠野物語』を刊行した。翌年の3月、博物学者の南方熊楠との文通が始まった。
大正3年(1914)、貴族院書記官長になった。大正8年、書記官長を辞任した。昭和22年(1947)、芸術院会員になった。昭和26年11月、文化勲章を受章した。昭和36年7月、『海上の道』を刊行。昭和37年1月、筑摩書房版『定本柳田国男集』(全31巻別巻5)の刊行が始まった。8月8日、心臓衰弱のために死去。享年87。
以下、柳田国男と二人の偉大な文学者との交際について簡単に紹介します。
(1)森鴎外
ドイツ留学から帰朝した森鴎外は、明治22年(1889)に、井上通泰、落合直文、妹の小金井喜美子、弟の篤次郎らと共に、文学評論誌『しがらみ草紙』を創刊した。
当時、柳田国男の次兄・井上通泰は、東大医学部に在籍中で、医学よりも和歌と柔道に熱心な学生だった。森鴎外の親友であった賀古鶴所の弟・桃次が、医学部の一年後輩で、本郷の下宿で一緒に暮らしたことがあった。そんな関係から、通泰は、桃次の兄の鶴所とも親しくなり、やがて鴎外とも親しくなった。
鴎外や次兄らが創刊した『しがらみ草紙』の第2号に、15歳の国男の和歌が載った。
「夕がらす/ねぐら求むる/山寺の/軒に干すなり/墨染の袖」
国男が鴎外の面識を得たのは、明治23年に上京して、次兄の家に住むようになった時からであった。「その頃、兄が東京に出て開業しており、私もそこにいたものですから、私は鴎外さんのところへ使いにやられたんです」
当時、森鴎外は28歳で、1月には『国民之友』に「舞姫」を、8月には『しがらみ草紙』に「うたかたの記」を発表して、文壇に華々しく登場していた。
3年後の明治26年、次兄の通泰は、姫路県立姫路病院に赴任することになった。
「鴎外さんの所へ親しく伺うようになったのは、兄が姫路に赴任してからだった。兄が私のことを、鴎外さんに頼んでいったのである。それからよく出掛けていろいろ教えてもらった」
明治32年、鴎外は第十二師団軍医部長として小倉に赴任した。それ以降、国男と鴎外との関係は疎遠になって行った。
柳田国男は、後年、こう語っている。「不思議なことに、私は鴎外さんに大変可愛がられたんです。訪ねて行くと、お菓子を出したり、いろいろ親切にしてくれて、私が興味を持っている方に話を進めてくれました。『何か読んでいるかい』と言われるから、『こういうものを読みたいと思っています』と言うと、『あすこにあるから、持って行きなさい』と言われたり、私も勉強を始めたばかりですから、そんなことなどが文学を始める一つの原因になったのでしょうね」
柳田国男は、死ぬまで、森鴎外に対して「特に熱烈なる崇敬」を捧げていた。
(2)島崎藤村
明治28 年、国男の遠い親戚で7歳年上の中川恭次郎が住んでいた家が、同人雑誌『文学界』の発行所になった。一高生だった国男は、中川の家に出入りするうち、島崎藤村らと知り合い、親しく交遊するようになった。国男は、近くに住んでいた3歳年上の藤村の家を頻繁に訪れた。二人の共通の友人だった田山花袋は、こう書いている。
「柳田君は白い縞の袴をはいて、興奮した表情をして、よく出掛けて行っては、詩や恋や宗教の話をした」 国男は藤村から強い刺激を受け、やがて新体詩を書き始めた。次のようなロマンティックな新体詩を書いて発表していた。
「あしびきの山のあららぎ/ただ一もと摘みてもて来て/我妹子が袂に入れし/足引のやまのあららぎ/今も尚さやかに匂ふ/あな嬉し未だ我をば/忘れたまはじ」
椰子の実のエピソードはよく知られているが、ここでも、二人の友情から生まれたものとしてどうしても書いておく必要があるだろう。
明治31年8月、東大生であった国男は、愛知県の渥美半島の伊良湖崎に滞在していたが、浜辺に漂着した椰子の実を一つ見つけた。そのことを友人の藤村に話した。この話に触発されて、藤村は有名な「椰子の実」の詩を作った。
「名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実一つ。故郷の岸を離れて/汝はそも波に幾月。旧の樹は生いや茂れる/枝はなお影をやなせる。われもまた渚を枕/独り身の浮寝の旅ぞ。(中略)思いやる八重の潮々/いずれの日にか国に帰らん」
明治33年、柳田国男は東大を卒業して農商務省農務局に勤務した。その頃から、彼は詩を作ることを全くしなくなった。
詩人としての才能に恵まれていたが、彼は、詩の世界から離れ、未開拓だった民俗学の世界へと突入するのであった。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
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◎柳田国男
先日、岡谷公二著『柳田国男の青春』(筑摩叢書)を読みました。30年ほど前に買った本です。興味深いことがいろいろ書いてあって、私は多くのことを学びました。
柳田国男は、『遠野物語』『山の人生』『桃太郎の誕生』『笑の本願』『海上の道』などを書いた偉大な民俗学者として知られています。しかし、若い学生時代には、短歌や新体詩を書く新進の歌人・詩人として活躍していました。そして、多くの文学者と交際しており、特に森鴎外、田山花袋、国木田独歩、島崎藤村、泉鏡花との結び付きは非常に深いものでした。
『柳田国男の青春』には、文学の世界から足を洗って、新しく民俗学を打ち立てようと決心するまでの柳田国男の青春時代が詳しく描かれています。
柳田国男(養嗣子になる前の氏名は松岡国男)の経歴は次のようなものです。
明治8年(1875)7月31日、兵庫県田原村辻川で生まれた。父・松岡操は医者で漢学者で神官だった。高等小学校は卒業したが、病身のため上の学校に進まなかった。
明治20年、長兄の鼎が茨城県の布川町で医院を開業したので、長兄の家に寄寓することになった。乱読で日を送った。明治22年、父母と二人の弟が、兵庫から出て来て、長兄の家に住むようになった。翌年、15歳の国男は、東京に住む次兄・通泰の家に同居した。そして、兄の友人・森鴎外の知遇を得た。また、田山花袋と深い交際を始めた。
明治24年、高等学校に入る資格を得るために開成中学などで学んだ。翌年の9月、第一高等学校に入学。明治28年、島崎藤村、国木田独歩との交際が始まった。明治30年、国木田独歩や田山花袋らと新体詩集『抒情詩』を出版した。7月、一高を卒業し、9月、東京帝国大学法科大学政治科に入学。明治33年、東大を卒業し、農商務省農務局に入った。産業組合運動を進めた。翌年、大審院判事・柳田直平の養嗣子になった。明治37年、柳田直平の四女・孝と結婚。明治43年、5月に『石神問答』、6月に『遠野物語』を刊行した。翌年の3月、博物学者の南方熊楠との文通が始まった。
大正3年(1914)、貴族院書記官長になった。大正8年、書記官長を辞任した。昭和22年(1947)、芸術院会員になった。昭和26年11月、文化勲章を受章した。昭和36年7月、『海上の道』を刊行。昭和37年1月、筑摩書房版『定本柳田国男集』(全31巻別巻5)の刊行が始まった。8月8日、心臓衰弱のために死去。享年87。
以下、柳田国男と二人の偉大な文学者との交際について簡単に紹介します。
(1)森鴎外
ドイツ留学から帰朝した森鴎外は、明治22年(1889)に、井上通泰、落合直文、妹の小金井喜美子、弟の篤次郎らと共に、文学評論誌『しがらみ草紙』を創刊した。
当時、柳田国男の次兄・井上通泰は、東大医学部に在籍中で、医学よりも和歌と柔道に熱心な学生だった。森鴎外の親友であった賀古鶴所の弟・桃次が、医学部の一年後輩で、本郷の下宿で一緒に暮らしたことがあった。そんな関係から、通泰は、桃次の兄の鶴所とも親しくなり、やがて鴎外とも親しくなった。
鴎外や次兄らが創刊した『しがらみ草紙』の第2号に、15歳の国男の和歌が載った。
「夕がらす/ねぐら求むる/山寺の/軒に干すなり/墨染の袖」
国男が鴎外の面識を得たのは、明治23年に上京して、次兄の家に住むようになった時からであった。「その頃、兄が東京に出て開業しており、私もそこにいたものですから、私は鴎外さんのところへ使いにやられたんです」
当時、森鴎外は28歳で、1月には『国民之友』に「舞姫」を、8月には『しがらみ草紙』に「うたかたの記」を発表して、文壇に華々しく登場していた。
3年後の明治26年、次兄の通泰は、姫路県立姫路病院に赴任することになった。
「鴎外さんの所へ親しく伺うようになったのは、兄が姫路に赴任してからだった。兄が私のことを、鴎外さんに頼んでいったのである。それからよく出掛けていろいろ教えてもらった」
明治32年、鴎外は第十二師団軍医部長として小倉に赴任した。それ以降、国男と鴎外との関係は疎遠になって行った。
柳田国男は、後年、こう語っている。「不思議なことに、私は鴎外さんに大変可愛がられたんです。訪ねて行くと、お菓子を出したり、いろいろ親切にしてくれて、私が興味を持っている方に話を進めてくれました。『何か読んでいるかい』と言われるから、『こういうものを読みたいと思っています』と言うと、『あすこにあるから、持って行きなさい』と言われたり、私も勉強を始めたばかりですから、そんなことなどが文学を始める一つの原因になったのでしょうね」
柳田国男は、死ぬまで、森鴎外に対して「特に熱烈なる崇敬」を捧げていた。
(2)島崎藤村
明治28 年、国男の遠い親戚で7歳年上の中川恭次郎が住んでいた家が、同人雑誌『文学界』の発行所になった。一高生だった国男は、中川の家に出入りするうち、島崎藤村らと知り合い、親しく交遊するようになった。国男は、近くに住んでいた3歳年上の藤村の家を頻繁に訪れた。二人の共通の友人だった田山花袋は、こう書いている。
「柳田君は白い縞の袴をはいて、興奮した表情をして、よく出掛けて行っては、詩や恋や宗教の話をした」 国男は藤村から強い刺激を受け、やがて新体詩を書き始めた。次のようなロマンティックな新体詩を書いて発表していた。
「あしびきの山のあららぎ/ただ一もと摘みてもて来て/我妹子が袂に入れし/足引のやまのあららぎ/今も尚さやかに匂ふ/あな嬉し未だ我をば/忘れたまはじ」
椰子の実のエピソードはよく知られているが、ここでも、二人の友情から生まれたものとしてどうしても書いておく必要があるだろう。
明治31年8月、東大生であった国男は、愛知県の渥美半島の伊良湖崎に滞在していたが、浜辺に漂着した椰子の実を一つ見つけた。そのことを友人の藤村に話した。この話に触発されて、藤村は有名な「椰子の実」の詩を作った。
「名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実一つ。故郷の岸を離れて/汝はそも波に幾月。旧の樹は生いや茂れる/枝はなお影をやなせる。われもまた渚を枕/独り身の浮寝の旅ぞ。(中略)思いやる八重の潮々/いずれの日にか国に帰らん」
明治33年、柳田国男は東大を卒業して農商務省農務局に勤務した。その頃から、彼は詩を作ることを全くしなくなった。
詩人としての才能に恵まれていたが、彼は、詩の世界から離れ、未開拓だった民俗学の世界へと突入するのであった。
TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
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