◎朝永振一郎
 昭和24年(1949)、湯川秀樹が日本人初のノーベル物理学賞を受賞しました。それから16年後の昭和40年(1965)、朝永振一郎が同じ
物理学賞を受賞しました。
 私は朝永振一郎が好きです。学問的なことはよく分かりませんが、その人間性がたまらなく好きなのです。彼の随筆を読むと、心が温かくなります。
彼の優しい気持ちが快く伝わって来ます。謙虚で、飾ることのない人だったにちがいありません。
 彼はどんな経歴の人だったのでしょうか。
 朝永振一郎は、明治39年(1906)3月31日に東京で生まれた。父は高名な哲学史家の朝永三十郎。明治4年に長崎で生まれた父・三十郎は、
東京大学哲学科を卒業し、1907年、京都大学助教授になり、2年後にドイツに留学した。帰国後、教授になり、定年まで哲学史を講じた。『近世に
於ける「我」の自覚史』は古典的な名著である。
 京都大学教授になると、朝永一家は京都に移った。振一郎が小学校1年の2学期の時であった。振一郎は京都一中、三高、京大とエリートコースを進
んだ。卒業後、理化学研究所に入り、宇宙線、原子核の研究を行った。ドイツに留学した後、東京文理大学(後の東京教育大学、現在の筑波大学)の教
授になった。昭和40年、59歳の時、ノーベル物理学賞を受けた。昭和54年、73歳で死去した。
◎「鳥獣戯画」
 物理学者の朝永振一郎は、独特の味のある随筆を数多く書きました。ここでは「鳥獣戯画」と題された作品を紹介します。引用は大々的に省略してあります。
 この随筆は1976年に雑誌『暮しの手帖』に掲載されました。
 「ずっと前から『鳥獣戯画』という絵巻物がほしくてたまらなかった。本物は国宝で手が出ないから、やむなく複製で満足するとしても、せめて実物大、そしてちゃんと巻物になったのがほしい。ところが去年の暮ごろ、新聞に注文どおりの品の広告が出ていた。早速とりよせ、長年の望みが叶った。
 この絵巻の主人公は兎と猿と蛙であって、あと狐と鹿と猪と猫と鼠と木菟が登場する。そしてこれらの生きものが人間のやるような色々なことをするのである。
 絵巻は猿や兎が競泳をしている谷川の情景から始まる。そこには豊かな谷水が綜々と流れていて、動物たちが飛び込んでは泳ぐしぶきの音が実際耳に聞こえてくるようだ。途中で一匹の猿が溺れたようで、川の中の大きな岩に助け上げられ、仲間の猿がそれを介抱しているが、岩の上には兎も一匹立っていて、ちょっと心配そうな顔つきだ。どうやらこの兎は猿の溺れるのを見、あわてて陸からかけつけたらしく、手に柄ひ杓などを持っている。
 水に溺れ、たっぷり水を飲んだ猿にまた水を飲まそうとでも思ったのか、とにかく気が転倒し、見当ちがいの柄杓などを咄嗟に持ち出したのであろう。人間でもこういう時やりそうなことである。
 兎と蛙の相撲の場面。見れば兎は仲間の応援にもかかわらず苦戦のさまで、結局やっとばかり蛙に投げとばされてし
まった。すると、あまりにも見事なその投げられぶりに、応援の蛙たちは、ワハハハ、ゲラゲラと腹が痛くなるほど笑いこけている。
 そうこうしながら巻の終わりに近づくと、猿と兎と狐と蛙とが一斉に登場する法会の場、そしてそれに続く布施の場となる。

 この絵巻は、京都の西北栂尾という所に建つ古く由緒ある寺、高山寺に伝えられていたのである。この栂尾の地は、すくすくと伸び立つ北山杉で一面に覆われた美しい谷あいにあり、ここに寺を開いたのは明恵上人という厚徳の僧であった。平家が亡び北条が政権を握り、そして承久の乱、といった時代に生きた上人は、その半生をここに住し、多くの人の尊崇を集めた。
 幼いとき親を失い寺に入った上人は、十六のとき出家し、厳しい戒律のもと、倦むことのない修学修行によって、やがて稀にみる聖僧となったが、同時に生きものを愛する心ふかく、座禅や勤行、講義や説教のあいまに、おそらくは『鳥獣戯画』をひろげその諧謔を楽しみ、動物たちの愉快な行いを微笑しながら見入ったであろうと言われている。
 高山寺の中の石水院という住房には、上人が愛したと思われる木彫りの鹿と犬の子とが残っている。その鹿は前肢をのばして地面に腹ばいになりながら、首をあげ遠くを見やるかのような目つきで空に向かって鳴いている様子。何ごとかを訴えようとするその声が今にも耳に聞こえるかと思うばかりにその姿は可憐である。また、まるまるとした犬ころは、首を少しかしげ、あるじのすることを好奇心一ぱいで見ている様子。如何にもあどけなく愛くるしい。このような彫刻もまた絵巻物と同じく、上人の人柄の一面を物語るようで興味深い。
 この五月の末ごろ、家内をつれて石水院をおとづれてみた。その時、その簡素な建物の縁側に座ってながめると、谷をへだてて見える向こうの山は、雨あがりの湿気を含んで音もなく静まっており、谷の流れはそこから見えないけれども、下の方からは、かすかに河か鹿の声が聞こえてくる」

◎その人柄の一端
 『血族が語る昭和巨人伝』(文春文庫)に、長男の朝永惇が語った「朝永振一郎・書斎嫌いで思索の場は食卓や縁側」が載っています。少し引用します。
 「親父はノーベル賞の授賞式には出席していません。記念のメダルは駐日スウェーデン大使から頂きました。というのも、親父は授賞式に出席する前に風呂場で足を滑らせ、転んだ拍子に肋骨を一本折ってしまい、お医者様からスウェーデン行きを止められていたからです。
 怪我で授賞式に出席できなくなっても、親父はそんなに残念がってはいませんでした。とにかく晴れがましいことの嫌いな人でしたから、『やれやれホッとした』と、『ちょっと残念だ』と、気分は半々だったのではないでしょうか。
 親父の怪我については、『朝永さんは酔っ払って風呂場で転んだ』と、そんな噂が流れています。親父は酒が好きでしたからね。晩酌は欠かさないほうでした。風呂場で転んだ時も少々酒が入っていました。
 書斎嫌いの親父が家の中で好んだ場所は食卓か縁側です。親父はなにやらひらめくと、封筒やチラシなど適当な紙を持って食卓や縁側に座り込み、頭に思い浮かんだことを紙の余白に書き留めていました。そのほとんどが難しい計算式でしたね。また、手先の器用な親父は、よく実験器具の模型も作っていました。 親父は落語と散歩、それに風呂が好きでした。
 昭和54年7月8日、親父は食道癌のために亡くなりました。家族は1年前から親父が癌だと分かっていましたが、最後まで親父には知らせていません」

TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
〈趣味〉読書と競馬
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◎朝永振一郎
 昭和24年(1949)、湯川秀樹が日本人初のノーベル物理学賞を受賞しました。それから16年後の昭和40年(1965)、朝永振一郎が同じ物理学賞を受賞しました。
 私は朝永振一郎が好きです。学問的なことはよく分かりませんが、その人間性がたまらなく好きなのです。彼の随筆を読むと、心が温かくなります。
彼の優しい気持ちが快く伝わって来ます。謙虚で、飾ることのない人だったにちがいありません。
 彼はどんな経歴の人だったのでしょうか。
 朝永振一郎は、明治39年(1906)3月31日に東京で生まれた。父は高名な哲学史家の朝永三十郎。明治4年に長崎で生まれた父・三十郎は、東京大学哲学科を卒業し、1907年、京都大学助教授になり、2年後にドイツに留学した。帰国後、教授になり、定年まで哲学史を講じた。『近世に於ける「我」の自覚史』は古典的な名著である。
 京都大学教授になると、朝永一家は京都に移った。振一郎が小学校1年の2学期の時であった。振一郎は京都一中、三高、京大とエリートコースを進んだ。卒業後、理化学研究所に入り、宇宙線、原子核の研究を行った。ドイツに留学した後、東京文理大学(後の東京教育大学、現在の筑波大学)の教授になった。昭和40年、59歳の時、ノーベル物理学賞を受けた。昭和54年、73歳で死去した。
◎「鳥獣戯画」
 物理学者の朝永振一郎は、独特の味のある随筆を数多く書きました。ここでは「鳥獣戯画」と題された作品を紹介します。引用は大々的に省略してあります。
 この随筆は1976年に雑誌『暮しの手帖』に掲載されました。
 「ずっと前から『鳥獣戯画』という絵巻物がほしくてたまらなかった。本物は国宝で手が出ないから、やむなく複製で満足するとしても、せめて実物大、そしてちゃんと巻物になったのがほしい。ところが去年の暮ごろ、新聞に注文どおりの品の広告が出ていた。早速とりよせ、長年の望みが叶った。
 この絵巻の主人公は兎と猿と蛙であって、あと狐と鹿と猪と猫と鼠と木菟が登場する。そしてこれらの生きものが人間のやるような色々なことをするのである。
 絵巻は猿や兎が競泳をしている谷川の情景から始まる。そこには豊かな谷水が綜々と流れていて、動物たちが飛び込んでは泳ぐしぶきの音が実際耳に聞こえてくるようだ。途中で一匹の猿が溺れたようで、川の中の大きな岩に助け上げられ、仲間の猿がそれを介抱しているが、岩の上には兎も一匹立っていて、ちょっと心配そうな顔つきだ。どうやらこの兎は猿の溺れるのを見、あわてて陸からかけつけたらしく、手に柄ひ杓などを持っている。
 水に溺れ、たっぷり水を飲んだ猿にまた水を飲まそうとでも思ったのか、とにかく気が転倒し、見当ちがいの柄杓などを咄嗟に持ち出したのであろう。人間でもこういう時やりそうなことである。
 兎と蛙の相撲の場面。見れば兎は仲間の応援にもかかわらず苦戦のさまで、結局やっとばかり蛙に投げとばされてしまった。すると、あまりにも見事なその投げられぶりに、応援の蛙たちは、ワハハハ、ゲラゲラと腹が痛くなるほど笑いこけている。
 そうこうしながら巻の終わりに近づくと、猿と兎と狐と蛙とが一斉に登場する法会の場、そしてそれに続く布施の場となる。

 この絵巻は、京都の西北栂尾という所に建つ古く由緒ある寺、高山寺に伝えられていたのである。この栂尾の地は、すくすくと伸び立つ北山杉で一面に覆われた美しい谷あいにあり、ここに寺を開いたのは明恵上人という厚徳の僧であった。平家が亡び北条が政権を握り、そして承久の乱、といった時代に生きた上人は、その半生をここに住し、多くの人の尊崇を集めた。
 幼いとき親を失い寺に入った上人は、十六のとき出家し、厳しい戒律のもと、倦むことのない修学修行によって、やがて稀にみる聖僧となったが、同時に生きものを愛する心ふかく、座禅や勤行、講義や説教のあいまに、おそらくは『鳥獣戯画』をひろげその諧謔を楽しみ、動物たちの愉快な行いを微笑しながら見入ったであろうと言われている。
 高山寺の中の石水院という住房には、上人が愛したと思われる木彫りの鹿と犬の子とが残っている。その鹿は前肢をのばして地面に腹ばいになりながら、首をあげ遠くを見やるかのような目つきで空に向かって鳴いている様子。何ごとかを訴えようとするその声が今にも耳に聞こえるかと思うばかりにその姿は可憐である。また、まるまるとした犬ころは、首を少しかしげ、あるじのすることを好奇心一ぱいで見ている様子。如何にもあどけなく愛くるしい。このような彫刻もまた絵巻物と同じく、上人の人柄の一面を物語るようで興味深い。
 この五月の末ごろ、家内をつれて石水院をおとづれてみた。その時、その簡素な建物の縁側に座ってながめると、谷をへだてて見える向こうの山は、雨あがりの湿気を含んで音もなく静まっており、谷の流れはそこから見えないけれども、下の方からは、かすかに河か鹿の声が聞こえてくる」

◎その人柄の一端
 『血族が語る昭和巨人伝』(文春文庫)に、長男の朝永惇が語った「朝永振一郎・書斎嫌いで思索の場は食卓や縁側」が載っています。少し引用します。
 「親父はノーベル賞の授賞式には出席していません。記念のメダルは駐日スウェーデン大使から頂きました。というのも、親父は授賞式に出席する前に風呂場で足を滑らせ、転んだ拍子に肋骨を一本折ってしまい、お医者様からスウェーデン行きを止められていたからです。
 怪我で授賞式に出席できなくなっても、親父はそんなに残念がってはいませんでした。とにかく晴れがましいことの嫌いな人でしたから、『やれやれホッとした』と、『ちょっと残念だ』と、気分は半々だったのではないでしょうか。
 親父の怪我については、『朝永さんは酔っ払って風呂場で転んだ』と、そんな噂が流れています。親父は酒が好きでしたからね。晩酌は欠かさないほうでした。風呂場で転んだ時も少々酒が入っていました。
 書斎嫌いの親父が家の中で好んだ場所は食卓か縁側です。親父はなにやらひらめくと、封筒やチラシなど適当な紙を持って食卓や縁側に座り込み、頭に思い浮かんだことを紙の余白に書き留めていました。そのほとんどが難しい計算式でしたね。また、手先の器用な親父は、よく実験器具の模型も作っていました。 親父は落語と散歩、それに風呂が好きでした。
 昭和54年7月8日、親父は食道癌のために亡くなりました。家族は1年前から親父が癌だと分かっていましたが、最後まで親父には知らせていません」

TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
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◎朝永振一郎
 昭和24年(1949)、湯川秀樹が日本人初のノーベル物理学賞を受賞しました。それから16年後の昭和40年(1965)、朝永振一郎が同じ物理学賞を受賞しました。
 私は朝永振一郎が好きです。学問的なことはよく分かりませんが、その人間性がたまらなく好きなのです。彼の随筆を読むと、心が温かくなります。
彼の優しい気持ちが快く伝わって来ます。謙虚で、飾ることのない人だったにちがいありません。
 彼はどんな経歴の人だったのでしょうか。
 朝永振一郎は、明治39年(1906)3月31日に東京で生まれた。父は高名な哲学史家の朝永三十郎。明治4年に長崎で生まれた父・三十郎は、東京大学哲学科を卒業し、1907年、京都大学助教授になり、2年後にドイツに留学した。帰国後、教授になり、定年まで哲学史を講じた。『近世に於ける「我」の自覚史』は古典的な名著である。
 京都大学教授になると、朝永一家は京都に移った。振一郎が小学校1年の2学期の時であった。振一郎は京都一中、三高、京大とエリートコースを進んだ。卒業後、理化学研究所に入り、宇宙線、原子核の研究を行った。ドイツに留学した後、東京文理大学(後の東京教育大学、現在の筑波大学)の教授になった。昭和40年、59歳の時、ノーベル物理学賞を受けた。昭和54年、73歳で死去した。
◎「鳥獣戯画」
 物理学者の朝永振一郎は、独特の味のある随筆を数多く書きました。ここでは「鳥獣戯画」と題された作品を紹介します。引用は大々的に省略してあります。
 この随筆は1976年に雑誌『暮しの手帖』に掲載されました。
 「ずっと前から『鳥獣戯画』という絵巻物がほしくてたまらなかった。本物は国宝で手が出ないから、やむなく複製で満足するとしても、せめて実物大、そしてちゃんと巻物になったのがほしい。ところが去年の暮ごろ、新聞に注文どおりの品の広告が出ていた。早速とりよせ、長年の望みが叶った。
 この絵巻の主人公は兎と猿と蛙であって、あと狐と鹿と猪と猫と鼠と木菟が登場する。そしてこれらの生きものが人間のやるような色々なことをするのである。
 絵巻は猿や兎が競泳をしている谷川の情景から始まる。そこには豊かな谷水が綜々と流れていて、動物たちが飛び込んでは泳ぐしぶきの音が実際耳に聞こえてくるようだ。途中で一匹の猿が溺れたようで、川の中の大きな岩に助け上げられ、仲間の猿がそれを介抱しているが、岩の上には兎も一匹立っていて、ちょっと心配そうな顔つきだ。どうやらこの兎は猿の溺れるのを見、あわてて陸からかけつけたらしく、手に柄ひ杓などを持っている。
 水に溺れ、たっぷり水を飲んだ猿にまた水を飲まそうとでも思ったのか、とにかく気が転倒し、見当ちがいの柄杓などを咄嗟に持ち出したのであろう。人間でもこういう時やりそうなことである。
 兎と蛙の相撲の場面。見れば兎は仲間の応援にもかかわらず苦戦のさまで、結局やっとばかり蛙に投げとばされてしまった。すると、あまりにも見事なその投げられぶりに、応援の蛙たちは、ワハハハ、ゲラゲラと腹が痛くなるほど笑いこけている。
 そうこうしながら巻の終わりに近づくと、猿と兎と狐と蛙とが一斉に登場する法会の場、そしてそれに続く布施の場となる。

 この絵巻は、京都の西北栂尾という所に建つ古く由緒ある寺、高山寺に伝えられていたのである。この栂尾の地は、すくすくと伸び立つ北山杉で一面に覆われた美しい谷あいにあり、ここに寺を開いたのは明恵上人という厚徳の僧であった。平家が亡び北条が政権を握り、そして承久の乱、といった時代に生きた上人は、その半生をここに住し、多くの人の尊崇を集めた。
 幼いとき親を失い寺に入った上人は、十六のとき出家し、厳しい戒律のもと、倦むことのない修学修行によって、やがて稀にみる聖僧となったが、同時に生きものを愛する心ふかく、座禅や勤行、講義や説教のあいまに、おそらくは『鳥獣戯画』をひろげその諧謔を楽しみ、動物たちの愉快な行いを微笑しながら見入ったであろうと言われている。
 高山寺の中の石水院という住房には、上人が愛したと思われる木彫りの鹿と犬の子とが残っている。その鹿は前肢をのばして地面に腹ばいになりながら、首をあげ遠くを見やるかのような目つきで空に向かって鳴いている様子。何ごとかを訴えようとするその声が今にも耳に聞こえるかと思うばかりにその姿は可憐である。また、まるまるとした犬ころは、首を少しかしげ、あるじのすることを好奇心一ぱいで見ている様子。如何にもあどけなく愛くるしい。このような彫刻もまた絵巻物と同じく、上人の人柄の一面を物語るようで興味深い。
 この五月の末ごろ、家内をつれて石水院をおとづれてみた。その時、その簡素な建物の縁側に座ってながめると、谷をへだてて見える向こうの山は、雨あがりの湿気を含んで音もなく静まっており、谷の流れはそこから見えないけれども、下の方からは、かすかに河か鹿の声が聞こえてくる」

◎その人柄の一端
 『血族が語る昭和巨人伝』(文春文庫)に、長男の朝永惇が語った「朝永振一郎・書斎嫌いで思索の場は食卓や縁側」が載っています。少し引用します。
 「親父はノーベル賞の授賞式には出席していません。記念のメダルは駐日スウェーデン大使から頂きました。というのも、親父は授賞式に出席する前に風呂場で足を滑らせ、転んだ拍子に肋骨を一本折ってしまい、お医者様からスウェーデン行きを止められていたからです。
 怪我で授賞式に出席できなくなっても、親父はそんなに残念がってはいませんでした。とにかく晴れがましいことの嫌いな人でしたから、『やれやれホッとした』と、『ちょっと残念だ』と、気分は半々だったのではないでしょうか。
 親父の怪我については、『朝永さんは酔っ払って風呂場で転んだ』と、そんな噂が流れています。親父は酒が好きでしたからね。晩酌は欠かさないほうでした。風呂場で転んだ時も少々酒が入っていました。
 書斎嫌いの親父が家の中で好んだ場所は食卓か縁側です。親父はなにやらひらめくと、封筒やチラシなど適当な紙を持って食卓や縁側に座り込み、頭に思い浮かんだことを紙の余白に書き留めていました。そのほとんどが難しい計算式でしたね。また、手先の器用な親父は、よく実験器具の模型も作っていました。 親父は落語と散歩、それに風呂が好きでした。
 昭和54年7月8日、親父は食道癌のために亡くなりました。家族は1年前から親父が癌だと分かっていましたが、最後まで親父には知らせていません」

TAKEYUKI SUGIMOTO
《杉本武之プロフィール》
1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。
25年間、西尾市の小中学校に勤務。
定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
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