海外の旅この指とまれちょっとおじゃまします元気のでてくることばたち
昭和50年頃のマンモス校・常滑小学校を紹介します。

学級編制と担任は
 常滑小学校では、一学年三百名以上の入学児童数であったためか、校区にある一幼稚園と七保育園から入学するためなのか、一年生は、誕生月順で学級編制がされていました。一組は四月生まれ、二組は五・六月生まれ・・・七組は二・三月生まれといった具合に編制されます。三年生まで学級編制もなく続きます。四年生になるときに学級編制されます。六年生まで同じ学級で三年間続きます。
 一・二学年や五・六学年では、同じ担任の持ち上がりがほとんどでした。

職員数は
 教師五八名、県事務一名、市事務二名、用務員二名、給食パート二名でした。
 職員会議は行われず、その代わりに学年会が毎週月曜日に行われていました。朝の職員打合せ会は、ワイヤレスマイクを持って、報告、連絡などをしていました。(小心者の私はワイヤレスマイクを持って話すのが苦手でした。)

教室は
 昭和49年度の入学児童数は三六七名で九つの学級でした。北館一階の教室が一年生の教室になりました。そのために北館一階東側にあった二つの特殊学級(現特別支援学級)は、視聴覚室(体育館一階)をパーテエーションで区切られた教室に移動しました。
 南館は偶数学年の教室で北館は奇数学年の教室でした。教室が足りないために南館四階の特別教室(図工室、第一音楽室、家庭科室)と北館の理科室が普通教室になっていました。
 ちなみに、六年二組は第一音楽室でした。廊下取込の教室でなぜか、流しもあり、おまけにグランドピアノと準備室がありました。贅沢な教室でした。ただ、教室よりも広いために声が通らないような気がして初めのうちは大きな声を出していました。

遊び場や校内行事は
 北館の屋上にフェンスが張ってあり、北館の教室の学年の子たちに遊び場として振り分けられていました。
 中庭や体育館や運動場も遊び場として各学年に決められていました。
 児童数の割りには、運動場が狭まかったのです。そのためか、五月頃に高学年だけの陸上競技の記録会がありました。秋の校内運動会、学習発表会は行われませんでした。

学校分割は
 マンモス校のために、学校を二つにする話は私が赴任する(昭和48年度)前から出ていたようですが、まだまだ実現は先のようです。