海外の旅この指とまれちょっとおじゃまします元気のでてくることばたち
元気のでてくることばたち 村上信夫NHKアナウンサー

 漫画家・赤塚不二夫と言えば、『おそ松くん』、『天才バカボン』『ひみつのアッコちゃん』…
 ギャグ漫画家の巨匠、赤塚不二夫さんは、底抜けに可笑しい作品を残してくれた。一人娘の長女、赤塚りえ子さんは、フジオ・プロダクション社長として、赤塚漫画の面白さを伝える使命を担っている。
 りえ子さんの著書、『バカボンのパパよりバカなパパ』には、娘から見た赤塚不二夫の実像が包み隠さず綴られている。

真面目なバカ
 赤塚家では、「バカ」は最高の褒め言葉だった。りえ子さんも、「バーカ」と言われるのが、いちばん嬉しかった。パパは、相手が面白い時、人間的に「かわいい」と思った時、「バーカ」と言った。りえ子さんは、「真面目にバカ?が出来るパパはかっこいい」と思っていた。「もっと真面目にふざけなさい!」というパパの言葉が、りえ子さんは大好きだ。
 パパは、「知性とパイオニア精神にあふれたバカ。立派なバカになるのは大変なんだ」とも語っている。常識を知っているから、常識が壊せる。パパは正に、バカボンのパパを地でいくような性格で、自分の行動と表現に何の矛盾もなかった。人を分け隔てせず、社会的地位や学歴で人を見ず、誰とでも仲良くなれた。パパは、少年時代に大切だったものを手放さずに生きていた。パパといると、みんな少年少女に戻った。
 パパの私生活が漫画のようで、パパの漫画が私生活のようで、境界線がなかった。入口も出口も区別がなく、社会の枠には、収まりきらなかった。「自分が最低と思っていればいい。自分がバカになればいい」。だが、いらないものを背負い込んでいる人が言うと品がなくなることも、パパが言うと、下品にならなかった。仕事にも遊びにも命がけだった。
 りえ子さんは、「赤塚不二夫には意味がない」と言い切る。無意味なものは、意味を超えているということなのだ。

不思議な仲良し家族
 パパの赤塚不二夫さんは、1935年、旧満州の生まれ。日本に引き揚げ、手塚治虫に憧れ、漫画家を目指す。ママの登茂子さんはパパのアシスタントであり、アイデア提供者だった。『おそ松くん』の6つ子のアイデアはママが出したものだった。無名で貧乏だった頃、パパの窮地を幾つも救った。
 りえ子さんが生まれたのは、1965年3月のことだった。パパの漫画は、超人気を博し、自宅を多くの人が訪れ、幼いりえ子さんも、様々な訪問客に可愛がられたが、「あんたが有名なわけじゃない。たまたまパパが顔の出る仕事をしているだけだから」とママにたしなめられていた。「あなたがいうノーは、ほかの人のノーとは違って聞こえるからね」とも言われた。

 派手な女性関係すらもギャグになった。ママの一喝に、パパは惚れ惚れするように「カッコイイ〜」とのたまう。こらえきれず笑ってしまったママは、呆れ果て、怒る気をなくしてしまった。
 そんなパパとママだったが、ついに離婚。りえ子さん8歳の時だった。ママに母性を求めるパパと、パパに父性を求めるママは、元々合わなかったのかもしれない。
 離婚から5年半後、パパに再会した。パパとのデートの日、一人で会うのが照れくさかったのか、パパは、当時つきあっていた眞知子さんを連れてきた。ママに似てサッパリした性格の眞知子さんとは、すぐ親しくなった。ママとも眞知子さんは、仲良しになった。元々喧嘩別れしたわけではないママは、やがてパパの家に遊びに行くようになる。こうしてみんなが仲良しになった。
 パパは、眞知子さんと再婚する。眞知子さんは、パパの母親役だった。パパは、人に紹介するとき、ママを「もとにょう」、眞知子さんを「いまにょう」と言い分けていた。

哀しみを帳消しにするエネルギー
 りえ子さんは、高校卒業後、専門学校で映像芸術制作を学び、アーティストを志す。イギリスに留学したいと、ママに話す度に大反対された。一卵性親子のように仲良しだったママと、この件に関しては、何度もやりあった末、最後はママが折れた。94年の秋、29歳のりえ子さんはイギリスへ留学した。彼の地で、アートや英語を学び、作品展を開いて、英語の先生でもあった4歳年下のジョン・レイトさんとも結婚、順風満帆な生活を送っていた。
 ところが、日本の家族に次々と、アクシデントが起きた。97年、パパが食道ガンになった。手術後、パパは断酒していたが、いつの間にか飲酒が始まり、酔ったはずみに頭を打ち、急性硬膜下血腫で、開頭手術もするなど傷が絶えなかった。ママと眞知子さんはパパの世話をして「しょうがないわね」と呆れながらも、2人で代わる代わる看病して、パパを支えた。まるでバカボンのママ?みたいだった。
 2002年4月、パパが脳内出血を起こし、会話も出来なくなり事実上寝たきり状態となった。社長業を切り盛りしていた眞知子さんに、プロダクションを維持していく責任が重くのしかかった。
 仕事と看病が、眞知子さんの命を縮めた。2006年6月、眞知子さんがくも膜下出血で倒れ、数日後に亡くなったのだ。享年56という若さだった。
 眞知子さんの遺言で、りえ子さんは12年のイギリス生活にピリオドを打ち、社長という名の新入社員になった。
 だが、追い討ちをかけるように、哀しい出来事が続く。2008年7月30日、過去に患っていた子宮ガンが転移し、ママが亡くなった。享年68。その3日後、後を追うようにパパが亡くなった。享年72。
 肉親をあいついで失った哀しさで、生きる気力を全くなくして、りえ子さんは、身心ともに衰弱していた。哀しさから救ってくれたのが、パパの漫画だった。パパとママの二つの遺骨がならんだ所に供えてあったパパの漫画『鉄腕アトムなのだ!』を手に取った。手塚漫画のパロディを読み進むうちに、あまりのバカバカしさに声を上げて笑い転げ、気が付いたら立ち直ってしまった。「笑いは、どん底から爆笑へとすっ飛ぶ、物凄いエネルギーだ。こんなに哀しくても人は笑うのだ。笑いは生きるエネルギーなのだ!」とパパが言っているように思えた。
 パパは正に天才バカボンのパパ?なのだと実感した。自分のアート活動に夢中だった時は、漫画家赤塚不二夫?のすごさが解らなかった。その爆笑漫画の数々を読んで、改めて、その斬新さ、面白さが認識できた。いまは、創造と破壊を繰り返した赤塚不二夫のすべてを肯定出来る。
 「最後に辻褄があってれば、いいんだよ」という言葉は、パパの口癖だった。その都度その都度、くよくよしていても始まらない。究極の辻褄合わせを、短い言葉でバカボンのパパに言わせている。「これでいいのだ!」と。
 偉大なパパの仕事をどう伝え、どう守ったらいいのか戸惑い、慣れない社長業に追われアーティスト活動もままならない。そんなりえ子さんも、あるがままの自分を肯定出来るようになった。
 りえ子さんだけではない。多くの人にとって、「これでいいのだ!」は、哀しみや苦しみを帳消しにしてくれる魔法の言葉だ。

■村上信夫プロフィール
NHKチーフアナウンサー
1953年、京都生まれ。
明治学院大学卒業後、
1977年、NHKに入局。
富山、山口、名古屋、東京、大阪に勤務。
現在は、「今日も元気で!わくわくラジオ」(ラジオ第一8:35〜)、
「BS将棋中継」などを担当。
これまで、「おはよう日本」「ニュース7」「育児カレンダー」などを担当。
教育や育児に関する問題に関心を持ち続け、横浜市で父親たちの社会活動グループ
「おやじの腕まくり」を結成。
趣味は、将棋。
著書に「元気のでてくることばたち!」(近代文芸社)
「おやじの腕まくり」(JULA出版局)
「いのちの対話(共著)」(集英社)
「いのちとユーモア(共著)」(集英社)

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■イネ・セイミプロフィール
フルート奏者として活躍中。俳画家。
絵画を幼少より日展画家の(故)川村行雄氏に師事。俳画を華道彩生会家元(故)村松一平氏に師事。俳画の描法をもとに、少女、猫等を独自のやさしいタッチで描いている。個展多数。

* 俳画教室開講中
 ところ:常滑屋
 と き:月1回 第2金曜日 午後1時〜
 会 費:1回 2,500円(4ヶ月分前納制)
 問合せ:0563−32−0583

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