海外の旅この指とまれちょっとおじゃまします元気のでてくることばたち
(十)作者・編者不詳『堤中納言物語』

◎愛知教育大学で学ぶ
 昭和44年(1969)12月末に長男が誕生しました。私は『荘子』が好きだったので、名前を荘一と付けました。子どもが生まれると、将来への不安が激しさを増して来ました。本当にこのままの生活でいいのだろうか……。定職に就くべきだろうか……。
 いろいろ考えました。そして、私のような人間には小学校の教師になるのが一番良いだろうと結論しました。しかし、どうしたら小学校の先生になれるのか、私にはさっぱり分かりませんでした。そこで、卒業した刈谷高校に行って相談することにしました。15年前に数学を教えてもらった教師がいて、親切に教えてくれました。
 「今から小学校の教師の資格を取るには三つの方法が考えられる。どこかの大学の聴講生になり教員免許取得に必要な単位を取る。京都の仏教大学などの通信教育を受ける。愛知教育大学などの小学校教員養成課程の有る大学に入学して卒業する」
 私は、刈谷市内の愛知教育大学を受験することにしました。英語と国語で点を稼げば、何とか合格できるのではないかと考えたのです。3ヵ月ほど受験勉強をしました。
 昭和46年3月、若い受験生に交じって、31歳の私は入試問題に取り組みました。そして、運よく合格できました。大学の授業が始まる少し前の4月2日に、長女が生まれました。『育児の百科』を著した松田道雄が好きだったので、名前を道子と付けました。
 一回りも若い学生たちと一緒に勉強するのは、初めのうちは何とも言えぬ不思議な感じがしました。また皆から「おっちゃん、おっちゃん」と呼ばれるのにも閉口しました。しかし、そのうちに慣れ、自分なりに一生懸命に勉学に励みました。
 昭和47年12月末、次男が誕生しました。宮沢賢治が好きな私は、賢二と名付けました。
 3年生の時、石川徹教授の国文学演習を受講しました。 『堤中納言物語』がテキストとして使われました。古文の苦手な私は、この授業に対してあまり期待を持っていませんでした。ところが、予想に反して、これは最高の授業でした。石川先生の博識に驚嘆するとともに、作品そのものの面白さに驚きました。何を質問しても懇切丁寧に答えてもらえるので、私は、出来るだけの予習をして授業に臨みました。

 4年生になった時、石川先生が東京女子医大へ転勤しました。卒業論文にこの作品を取り扱うことに決めていたので、私は大きなショックを受けました。しかし、独りで頑張ろうと決意し、手に入る限りの資料を集め、この異色の短編物語集の研究に没頭しました。そして、『堤中納言物語』の編者が、あの有名な『徒然草』の作者である兼好法師ではないだろうかという仮説を立て、その裏付けをして一編の論文を書き上げました。
 論文が出来上がると、私はコピーして先生に送りました。先生は、着想もすばらしく、いい論文に仕上がった、と褒めてくれました。そして、数年後、「国文学 解釈と鑑賞」(昭和55年1月号)で、私の説を紹介してくれました。
 「堤中納言物語の編集者は兼好法師ではないかとする杉本武之氏の見解(愛教大における卒業論文)は、あるいは当たっているのではないかと私は高く評価している」
 私は今でも、自分が導き出した説は正しかったと思っています。そして、将来、私の説が国文学の世界で定説として認められることを希望しています。

◎『堤中納言物語』
 平安後期から鎌倉時代にかけて盛んに書かれた短編物語で現存しているのは、『堤中納言物語』に収録されている10編だけです。どの作品も、それぞれ独特の魅力を備えています。日本の文学にも造詣の深かったフランス文学者の生島遼一は、この物語の不思議な特色について、『日本の小説』の中で次のように書いています。
 「『堤中納言物語』は不思議な作品である。人の名が冠せられていながら、成立年代も作者も明瞭でないこともそうかも知れないが、この作品の持つ美しさというか、魅力というか、味わいというか、それも不思議なものである。日本の芸術的な短編小説の最古のものとして残り、これ一つ離れて異彩を放っているのも何だかおかしい。収められた10編の話の作り方を見ても、典雅に整っているようでもあり、ちぐはぐであるようでもあり、古いようで新しく、不思議な文学だ」
10編のうち、よく知られている作品は「虫めづる姫君」と「はいずみ」の2編です。ここでは、面白さ抜群の「虫めづる姫君」を取り上げることにします。
 兼好法師の『徒然草』の第40段は、栗しか食べない奇妙な娘の話です。
 「因幡の国に、何の入道とかいふ者の娘、かたち良しと聞きて、人、あまたいひわたりけれども、この娘、ただ栗をのみ食ひて、更に米の類を食はざりければ、かかる異様の者、人に見ゆべきにあらずとて、親、許さざりけり」
 「虫めづる姫君」の主人公も、栗だけを食べる娘に劣らず、実に変わった好みを持った姫君でした。花とか蝶といった美しいものには見向きもしないで、いろいろな虫、とりわけ毛虫を好んでいました。周囲の人たちの非難や批判にも屈することなく、頑として自分の思想と好みを変えようとはしませんでした。批判心旺盛な、近代的な女性でした。
 有名な冒頭の一節を引用します。

 蝶めづる姫君の住み給ふ傍らに、按察使の大納言の御むすめ、心にくくなべてならぬさまに、親たち、かしづき給ふ事かぎりなし。この姫君の宣ふ事、「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は真あり、本地尋ねたるこそ、心ばへをかしけれ」とて、よろづの虫の、恐ろしげなるを取り集めて、「これが成らむさまを見む」とて、様々なる小箱どもに入れさせ給ふ。中にも、「かは虫の、心深きさましたるこそ心にくけれ」とて、明け暮れは耳挟みをして、手の裏に添へ伏せて、まぼり給ふ。
(大意──きれいな蝶を可愛がる姫君の家の隣りの、按察使の大納言の家にも美しい姫君がおり、親から溺愛されていた。この姫君は、「世間の人々は花や蝶をもてはやし愛しているが、それは無意味で馬鹿げたことだ。人間というものは、誠実な心があって、物の本体を追究するのが良いのだ」と言って、気味の悪い虫を集めては、その変化して行く様子を見届けるために様々な小箱に入れて飼っていた。考え深そうな姿をしていると言って、特に毛虫を好み、手のひらに乗せて、一日中じっと観察していた)


【杉本武之プロフィール】

1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。25年間、西尾市の小中学校に勤務。定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
(趣味)読書と競馬