海外の旅この指とまれちょっとおじゃまします元気のでてくることばたち
(七)梶井基次郎『城のある町にて』

◎大学時代B
 3年生の夏休みが終わりました。しかし、それ以後、私は大学に行こうとはしませんでした。鴨川沿いの下宿に閉じ籠もって、本ばかり読む生活が始まりました。
 籠城しているような生活は3年間続きました。その間に、私は大量の本を読みました。
 一番たくさん読んだのは、ブーシキン、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフなどのロシア文学でした。ドストエフスキーの主要な長編小説は何回も読みました。
 フランス文学では、スタンダールを熱心に読みました。彼の二大傑作『赤と黒』『パルムの僧院』は、全ての人にとって青春時代の必読の書だと思います。
 読書の時間がたっぷりあったので、この時とばかりに、モンテーニュの『エセー』に取り組んでみました。何ものにも囚われない自由人の思想を十分に味わいました。
 ドイツ文学では、特にゲーテの作品が好きで、『若きウェルテルの悩み』と『ファウスト』(第1部)を繰り返して読みました。また、熱中して読んだニーチェの『ツァラトゥストラはかく語った』には強い影響を受けました。
 イギリス文学もよく読みました。シェイクスピアの作品は、四大悲劇の『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』だけではなく、『真夏の夜の夢』や『お気に召すまま』などの喜劇も興味を持って読みました。日本語訳を読んだ後で、原文に挑戦した作品も幾つかありました。シェイクスピアは比類のない天才だと思います。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』やスチーブンソンの『宝島』も楽しく読みました。
 日本文学では、はじめ夏目漱石に熱中しました。『吾輩は猫である』は毎晩寝る前に読みました。何度読んでも面白くて、本がボロボロになるまで読みました。その他の漱石の作品で何回も読んだものは『坊っちゃん』『草枕』『三四郎』『それから』です。

 太宰治の作品もよく読みました。どれを読んでも「うまいなあ」と思いました。
 太宰の作品に少し飽き始めた時に、梶井基次郎の『檸れもん檬』に出会いました。初めて目にした梶井の文章は、ダイヤモンドのように硬質で、奥深い森の中の泉のように清冽でした。その美しい日本語に私は圧倒されてしまいました。

◎『城のある町にて』
 作家の吉行淳之介は、梶井基次郎の文章について、こう書いています。
 「一番いい酒は、喉を通る時に水みたいだと言いますが、それに近い文章という印象を受ける」
 また、安岡章太郎は「闇の暗さや、空気の厚みのある手ごたえを、あんなに的確に表現し、定着した人はいないだろう」と書きました。
 評論家の小林秀雄は「清澄鋭敏まれにみる作家資質と私は感服した」と書き、佐々木基一は「梶井の作品の出現は、私には一種の奇蹟と感じられる」と書きました。
 梶井の文章は、多くの作家や評論家から高く評価されてきました。
 彼は、明治34年(1901)に大阪市に生まれ、昭和7年(1932)に31歳の若さで亡くなりました。死ぬまでに20編の短編小説を完成しましたが、どの作品も珠玉の名作です。彼がどんな文章を書いていたのか、幾つか引用します。
 代表作の『檸檬』。

えたいの知れない不吉な塊が、私の心を終始圧えつけていた。焦燥と言おうか、嫌悪と言おうか
──酒を飲んだ後に宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると、宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。

寺町通りは一体に賑やかな通りで──と言って、感じは東京や大阪よりはずっと澄んでいるが
──飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出ている。それが、どうした訳か、その店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。(中略)
 その日、私は何時になくその店で買物をした。と言うのは、その店には珍しい檸檬が出ていたのだ。(中略)一体、私はあの檸檬が好きだ。レモンイエロウの絵の具をチューブから搾りだして固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の格好も。──結局、私はそれを一つだけ買うことにした。

 『城のある町にて』(大正13年)は、梶井の作品の中で、内容も暗くなく、読む者に爽やかな外気のようなものを感じさせる作品です。三重県の松阪市に嫁いでいた姉の家に行った時の体験に基づいて書かれたもので、義兄の妹(小説では信子)に対する淡い慕情が中心になっています。散文詩といってもいい作品で、美しい描写に満ちています。

 今、空は悲しいまでに晴れていた。そしてその下に町は甍を並べていた。
 白亜の小学校。土蔵作りの銀行。そして其処此処、西洋菓子の間に詰められてあるカンナ屑めいて、緑色の植物が家々の間から萌え出ている。或る家の裏には芭蕉の葉が垂れている。糸杉の巻き上がった葉も見える。重ね綿のような格好に刈られた松も見える。

 夜は、その夜も眠りにくかった。
 十二時頃、夕立がした。その続きを彼は心待ちに寝た。
 暫くすると、それが遠くからまた歩み寄せて来る音がした。
 虫の声が雨の音に変わった。ひとしきりすると、それはまた町の方へ過ぎて行った。
 蚊帳をまくって起きて出、雨戸を一枚、手繰った。
 城の本丸に電灯が輝いていた。雨に光沢を得た樹の葉が、その灯の下で数知れない魚鱗のような光を放っていた。
 また夕立がきた。彼は閾の上へ腰を掛け、雨で足を冷やした。(中略)
 信子の着物が、物干竿に掛かったまま雨の中にあった。筒袖の、平常着ていた浴衣で、彼の一番眼に慣れた着物だった。その故か、見ていると、不思議な位、信子の身体つきが彷彿とした。
 夕立は、また町の方へ行ってしまった。遠くでその音がしている。( 中略)
 彼はまだ熱い額を感じながら、城を越えてもう一つ夕立が来るのを待っていた。


【杉本武之プロフィール】

1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。25年間、西尾市の小中学校に勤務。定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
(趣味)読書と競馬