海外の旅この指とまれちょっとおじゃまします元気のでてくることばたち
(4)内藤豊さんとの出会い
 今は亡き内藤豊さんは、テレビのディレクターであり翻訳家でした。彼のお兄さんは、映画監督としても翻訳家としても全国的にその名が知られている内藤誠氏です。
 私の青春時代は、いつも内藤豊さんと一緒だった、と言っても過言ではありません。何をするにも一緒、何処へ行くにも一緒でした。
 私は昭和34年4月に京都大学文学部に入学しました。当時、京大では、新入生(1回生)はみんな宇治の分校に行くことになっていました。
 京都のこともよく知らなかった私は、宇治には平等院があるという程度の知識しか無く、どこに下宿したらいいのか皆目見当も付きませんでした。大学関係のパンフレットが送られて来て、下宿の斡旋のことも書いてあった筈です。大学の学生課や生活協同組合が世話をするから相談するように、といった内容だったと思います。しかし、小心な私は、まず初めに出身高校に行って、前年に入学した先輩がいるなら、その住所などを教えてもらおうと考えました。私が卒業した刈谷高校は、当時は東大や京大に行く者が少なくて、殆どの者が地元の名古屋大学に進んでいました。
 高校に行って、担任だった教師と話しました。2人の卒業生が前年に京大に入っていました。その内の一人が教育学部の内藤豊さんだったのです。彼は碧海郡吉浜町(現・高浜市)に住んでいました。教師から彼の住所と電話番号を教えてもらい、家に帰ると直ぐに内藤さんに電話しました。吉浜駅まで迎えに来てくれました。そして、二人は、駅の近くのお寺に行って話しました。本当に親切な人だなあ、と思いました。
 こうして私は内藤さんと出会ったのでした。
(4)内藤さんと私
 それ以降、私は内藤さんにべったり密着して過ごすことになります。
 宇治の下宿を世話してもらいました。その家は、有名な平等院の近くにありました。二階の一部屋を借りました。しばらく私一人でしたが、秋から、空いていた隣の部屋に、農協に勤めていた青年が入りました。明るく、とても気持ちの良い人で、私の顔を見ると、決まったように「杉本さんは、よく勉強するね」と言っていました。
 宇治分校は黄檗宗の大本山・万福寺のそばにありました。宇治での学生生活は、本当に楽しいものでした。親しい友人も何人か出来ました。
 あっと言う間に1年が過ぎ、次の年から、京都で内藤さんと同じ家に下宿することになりました。加茂川沿いの東三本木通に古くから建っている家でした。内藤さんは、前の年から母屋の二階の一室を借りていました。私は広い離れを借りました。
 その下宿では夕食が出ました。同じ食卓を囲んで一緒に食べました。9時頃に、どちらかが声を掛けて、近くの銭湯に一緒に行きました。その帰りに、河原町通の小さなお好み焼き屋に一緒に立ち寄りました。そこで夜食用のお好み焼きを食べ、ビールの中瓶を飲みました。
 内藤さんが学んでいた、当時の京大教育学部は、実に活気に満ちていました。高坂正顕鰺坂二夫といった正統的な教育学者の外に、後に文部大臣になった永井道雄や、京大人文科学研究所に所属していた鶴見俊輔や加藤秀俊といった異色の社会学者たちが教えていました。30歳頃の若い加藤秀俊先生を知ったのも、内藤さんのお蔭でした。
 加藤先生が、太秦に家を建てた時に、夜に泥棒に入られないように寝泊まりしてくれる学生を探していました。その時、私も内藤さんに誘われて一緒に泊まりに行ったのです。それが縁で、その後長い間、加藤先生やご家族と親しく付き合うようになりました。
 また、教育学部の大学院を出て毎日放送に勤務していた津金沢聡広さんを紹介してくれたのも内藤さんでした。津金沢さんは、しばらくすると放送局を辞めて、関西学院大学で教えるようになりました。その後、『宝塚戦略・小林一三の生活文化論』(現代新書)などの本をたくさん書きました。宝塚文化に関する権威者です。
 内藤さんは、昭和37年に卒業すると、開設されたばかりの名古屋放送(現在のメ〜テレ)にディレクターとして入社しました。私は、その頃には登校拒否になっており、大学に行かずに、下宿で本ばかり読む生活を始めていました。
 私の大学生活は7年にも及びました。中退するつもりでしたが、在学期限ぎりぎりの7年目に入ろうとしていた初春、帰省していた私に、母親が小声で「卒業だけはするよね」と言いました。それは哀切極まりない声でした。
 私はハッとして、急いで京都に戻りました。それから、1年間で、卒業に必要な単位を全部取り、卒論も「モーパッサンとトルストイ」という表題で何とか書き上げました。
 そして、どこにも就職しないで家に帰って来ました。映画監督になるという夢も失っていました。近所の中学生や高校生に英語を教えたり、内藤さんのテレビの仕事を手伝ったりして、何とか一日一日を暮らしていました。
 内藤さんは、私が京都で留年を繰り返していた時も、実家に戻ってぶらぶらしていた時も、私のことを忘れずに、よく声を掛けてくれました。
 今でも鮮明に覚えていますが、留年を繰り返していた時、一緒に城崎温泉に行ったことがありました。その時、私は痔が悪化して大出血しました。京都の下宿の便所は、薄暗い上に、くみ取り式だったので、例え出血していても、気が付かなかったのです。旅館の明るいトイレで鮮血を見た時、まさか痔からの出血とは思いませんでした。何か命に関わる悪い病気に罹ってしまったと思い、目の前が真っ暗になりました。慌てた私は、内藤さんに大袈裟に話したと思います。優しい内藤さんにひどく心配をかけてしまった、と今でも済まない気持ちで一杯です。
 それから、新藤兼人が演出していた『鬼婆』の撮影現場を見学に行ったこともありました。新藤兼人は蓼科でロケをしていました。内藤さんの放送会社がその近くに避暑用の社員寮を持っていたのです。その時、憧れの新藤監督や乙羽信子などに会いました。
 内藤さんから「何でもいいから、シナリオを書いて欲しい」と頼まれて、若くして尺八の師匠をしていた友人の山岸政行( 蘆水)さんのことを書いたことがありました。
 当時、山岸さんは、京大の大学院で英文学を学んでいました。若い、アメリカからの留学生が、禅の修行をする傍ら、山岸さんから尺八の手ほどきを受けていました。とても素敵な人でした。私は、この二人の友情をドキュメンタリー風に描きました。当時の私の心境が反映していて、何となく内容に明るさが欠けていたためか、結局、テレビ局で採用されませんでした。最後の、二人が、ごうごうと音を立てて流れ落ちる大きな滝に向かって尺八を吹いている場面なんか、なかなかうまく書けていた、と今でも思っています。山岸さんは、彦根にある大学で英文学を教えていましたが、3年前に亡くなりました。

【杉本武之プロフィール】

1939年 碧南市に生まれる。
京都大学文学部卒業。翻訳業を経て、小学校教師になるために愛知教育大学に入学。25年間、西尾市の小中学校に勤務。定年退職後、名古屋大学教育学部の大学院で学ぶ。
(趣味)読書と競馬