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遺跡 町の考古学 奥川弘成
 米や麦の類、あわ、きび、ひえなど穀物や大豆などの豆類を主食とすることは安定した食生活を保証されます。
 これらを栽培するには、耕地が必要です。低地を利用した水田であれば水稲、畑地では陸稲や雑穀が作られました。それは弥生時代に入ってから広範に行われるようになりました。農耕文化のはじまりです。
 弥生時代での米や雑穀などの栽培は、計画的な収穫と大量の食物の貯蔵が可能となりました。食糧を貯蔵することは、いつの時代でも重要な作業です。東海市トドメキ遺跡では、縄文時代晩期の貯蔵穴が発見されています。
 ここから出土したのは、食糧となるコナラ、オニグルミ、トチノキや川での毒流し漁に使われたと考えられるエゴノキの種子です。これらは、エゴノ実を除き山間地でかつて飢饉に備えて救荒食として貯えられてきた食料です。
 一万年以上もの長い時を経た縄文人の食文化は、鹿や猪を主食としていたと考えがちですが、どうもそうではなかったようです。
 このことを解明する研究の一つに、人骨の炭素や窒素の安定同位体比を測定することで当時の食生活を推定する方法があります。
 安定同位体比などと難しい用語が使われることからしても易しい研究ではありません。
 この研究が始まったのは二十年ほど前からで、新しい手法です。
 人の肉や骨は、米や野菜、魚や肉などの食べ物に由来した炭素や窒素などの元素で構成されています。特に骨にはたん白質の繊維が大量にあって、縄文人骨にも自然に分解されずに食べた物の元素が残っています。
 そこで人骨のタンパク質の元素、炭素や窒素の割合を分析し、動物や植物などがもつ固有の炭素や窒素の割合と照合していくと、どんな食生活をしていたかを判断できるとしています。
 これまでの研究成果から分かってきたことは、中央や西アジア、ヨーロッパなどの人々のように縄文人が肉食好き民族ではなかったことです。
 今日と同様に口にする食べ物の個人差は大きいのですが、平均すると海産の食物と陸上の植物がおよそ半々であって、内陸地の人々は海産物の摂取が少なく木の実や根菜類を多く食べていたようです。
 また、食べた物の個人差が大きいことは、縄文人が季節によって海岸部や内陸部へ広範囲に移動した可能性が指摘されています。
 このことをふまえて、これまでに武豊町で縄文時代の土器が出土するなど生活の痕跡が残る遺跡が発見されていないのは、当時に主要な食料であった海産物が豊富でないことが要因の一つと考えられます。
 それは南知多であれば磯があり、大河川の河口であれば干潟が発達して多くの魚介類を採取できます。武豊町には大きな河川がなく、海岸近くの沖合いから急峻な海底地形で干潟が発達していないなど、魚介類を好んだ縄文人が居住するには周辺地域に比べ優位でなかったようです。